1.胸騒ぎ〜Sense of panic〜
――ねぇ、
あなたはずっとそうやって重い闇を笑顔の下に閉じ込めているの?
何に悲しみ、涙するの?
その小さな身体にどんな痛みを抱えているの?
あの光景が脳裏から離れない。薄れる気配さえない。
伊津美は冷え切った身体を布団にうずめながら小さく呻く。パジャマ一枚きりで冬空の元へ繰り出したのだから無理もない。すっかり目が冴えてしまっていた。
レグルスに酷似した20代前半くらいの男。
決して強くはなさそうなシルエットと弱りきったような表情。紫の瞳。
そして涙を堪えていたミラの横顔。いや、やはり泣いていたのかも知れない。
立ち入ることの許されない雰囲気を全身で感じた。まるでその場の空気が “察しろ” と言っているかのよう。あの奇妙な植物たちまでもが口を揃えて。
おのずと繰り返されていく。何度も何度もリピート再生するかのように。
めまぐるしく回る感覚に伊津美は前頭葉に鈍痛まで覚えていた。身体が冷えただけだと、ひき始めの風邪だと思いたかった。
この場所に来てからまだほんの数人としか顔を合わせていない。そのうち顔と名前が一致するのはメイサ、ミラ、クー・シー、そしてレグルスの4人だけだ。
最後の彼に至っては当初の極限状態、その後この場所で目を覚ましてからの混乱、憔悴……いずれもまともな状態で顔を合わせてはいない。記憶は最も曖昧と言えるだろう。
ついさっき目撃した男が本当に彼ではないとも言い切れない。限りなく確信に近いというだけで証拠なるものは揃っていないのだ。
あんな感じだったかも知れない。
黒づくめの装いのせいでより痩せて見えたのかも知れないし、表情だってそのときによって変わるものだ。
そもそも魔族なんて人間からしたら得体の知れない存在ではないかと伊津美は思い始めていた。
蝙蝠の翼を生やしたり消したりできるのだから、瞳の色が変化することくらい起こりうるかも知れない。というよりあれがカラーコンタクトなら何の不思議もないと現実的な推測を立ててみる。
そしてもし別人だったところでさほど問題のあることか、と。
この場所が壮大な規模を誇る【アストラル】とやらの王宮ならば、それ相応の従事者が身を置いていると考えるのが自然だ。
顔を合わせた者の方が圧倒的に少なく、それは知らない者が何十人、何百人いたって不思議じゃないことを示している。
そう、それでいいではないかと自分に言い聞かす。
だけど未だに続いている。不穏な胸騒ぎ。内部に生き物でも宿っているような感覚に伊津美は戸惑う。
――似たような奴、いるからねぇ――
ふとメイサの言葉が蘇る。あのときは聞き流したその言葉が今更のように引っかかってくる。
魔族の中には彼と似たような類の者がいる、そんな意味だと解釈していた。だけど……
部屋が白みがかっていく。テーブルが、棚が、徐々に輪郭を強めていく。
夜明けが始まっていた。
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……っ!
詰まる息の音と同時にガバッと布団が音を立てて跳ね上がった。
半身を起こした彼は乱れた布団をすがるように握り締める。
肩で息を切らし額を手で押さえている。銀の前髪に覆われた顔が険しく歪む。痛みに耐えているようだ。
必要最低限の家具だけが配置された部屋はすでに朝日で白さを帯びている。午前5時、といったところか。
表情に落ち着きが戻っていく。ゆっくり、朝露にしっとりと満たされていくように。
身体を乗せた柔らかな土台へと彼は再び身を沈めた。見るからに冷たそうなコンクリートの天井を仰ぎ見る。細い指先がそこへ伸びた。
薄く乾いた唇が動く。消えそうに小さな音色を放つ。
――君は、何処に居るの?――
痛みに耐えていた為か潤った紫の瞳が瞼に閉ざされた。収まりきらない光るものが目尻をじんわりと濡らした。
何かを待つようにじっと身を預けることを彼は選んだようだった。




