第四十話 輝ける未来(7)
主曰く、剣をとる者は剣によりて滅びる。
されど、振り降ろされる剣に、剣以外の何をもって立ち向かうのか。言葉で剣が止まるのか。
剣をとらねば死に、剣をとれば滅びる。
ああ、そうだ、誰も彼もが終わるのだ。
その刀を見た瞬間、私は悪寒を感じて後ずさった。
後輩から見せられた刀は、私には刀を見定める鑑定眼などなかったが、僅かな知識に照らし合わせても珍しいものではないように感じられた。そもそも、ショーケースの向こう側か画像でしか見たことがないので仕方がない事だろう。
だが、その刀は、そんな刀としての出来とは別の次元で異質な存在感を放っていた。
その刀が存在する。
ただそれだけの事で蔵の中の空気が重苦しく、押しつぶされるような重圧を感じた。
これまでこの蔵の扉が開かれた事は滅多になかったのだろう。黴臭い臭いがした。そして、その中に、これまでに嗅いだ事のない臭いが紛れていた。
死臭。
腐臭。
そのどちらとも似て、どちらでもない臭い。
汚れた、汚れた・・・
『世界』が腐る臭い。
私は思わず鼻を押さえたが、後輩も親友も何も感じていないようだった。
いや、気のせいだろうか?
私の親友たる彼は、むしろ目を輝かせているように見えた。この異様な気配に気付いていないのだろうか。
それとも・・・異様な気配に気付いたからこそなのか。
私には分からなかった。
後輩はそんな私達の様子に全く気付かない様子で、軽い仕草でその刀を抜いた。
空気の読めない男だった。
もっとも、それは今この場においては紛れもない長所だったのだろう。
私のように呑まれるでもなく。
彼のように魅入られるでもなく。
愚鈍であったからこそ、この刀をずっとその身の傍においても囚われずに済んだのだ。
場違いなのは私達の方だった。
私達はここに来るべきではなかった。
でも全ては手遅れだった。
彼はソレを知った上でここに居るのだから。
その時ふと、後輩が不思議そうな顔をして私を見ているのに気が付いた。
その手には、鞘に納められたままの刀があった。
白昼夢だったのだろうか?
私は混乱した。後輩が刀を抜いたのが夢だったのか、我を見失っているうちに刀を納めたのか。
私は何を考えていた?
自分の思考が分からない。
ただ、今なお感じる悪寒が、それがただの白昼夢ではない事を示していた。
後輩はすぐに気を取り直し、自慢げに自分の家に伝わる刀の曰く因縁を語りを始めた。
銘を"葵切り"というその刀は、戦国時代、ある大名に抱え込まれた刀匠が打った刀だという。
その大名家は、後に江戸幕府を開いた徳川家と対立していた豊臣家方に付き、敗北した大名家は取り潰された。
それを恨んだ刀匠は、自分の打った刀が徳川家に災厄を招く事を願って、自分の刀に"葵切り"という銘を刻んだ。
言うまでもなく葵は徳川家とその一門にだけ許された家紋であり、葵を切るというその銘は徳川家への反逆と受け取られ、刀匠は打ち首となり、その刀もその大半が打ち捨てられた。
そして、運良くその運命を免れた刀の一本が後輩の先祖の手に渡ったのだという。
後輩の先祖の手に渡るまでどのような経緯があったのかは後輩も知らないらしい。だが、それが異常なものだっただろうことは想像に難くなかった。
できる限り距離を取ろうとする私とは逆に、彼は身を乗り出してその刀に魅入っていた。
何故か分からないが、その姿は酷く危うく感じた。
思わず彼の肩を掴んだ。
だが、振り返った彼の目を見て、私は思わず手を離して後ずさっていた。
欲望に濁った、どこまでも空虚な眼差し。私を凝視しながら、目の焦点が私に合っていない。
一体、彼はどうしてしまったのか。昔とはまるで違う彼の様子に、いつしか身体の震えが止まらなくなっていた。
彼の身に何があったのかは聞いた。親族の不幸には同情する。
だが、彼の変化は、そんなモノとは違う何かを感じさせた。
凍り付いた私の横を、何も気付かない暢気な後輩が通り過ぎていく。
その時ふと、彼の視線が私から逸れた。
私は思わずその視線を追っていた。
彼は凝視していた。後輩の背中を。
そして・・・
不意に後輩の身体が力を失い、床に崩れ落ちた。
私は驚きの声を上げて後輩の元に駆け寄った。急病か何かの発作か。慌てて様子を確かめる。
容態を確かめて、私は安堵のため息を付いた。幸いな事に深刻な自体ではなさそうだった。後輩は穏やかな寝息をたてていた。
だが、それでも疑問は残った。何故、急に眠ったのだろう。先ほどまで眠たそうな素振りは見せなかったし、急に眠り出す遅効性の薬など聞いた事がない。ガスの類なら、私も一緒に眠っている筈だ。
考えられる要因としては、ナルコレプシー、いわゆる睡眠障害だろうか?
だが、ナルコレプシーは比較的若い年代で発症するという。後輩が発症したとは聞いた事がない。後輩との交流はそれなりにある。前々から発症していたのなら、どこかで聞いた事がある筈だ。
必ずしも若い年代でなければ発症しないわけではないが、今、このタイミングで発症する可能性は極めて低いだろう。
何にせよ、私は焦りを覚えた。ナルコレプシーという名前は知っていても、本当にそうなのかどうすべきなのか、その診断法も対処法も知らなかったからだ。
私は彼の意見を聞こうと振り返り、目を見張った。
彼は倒れた後輩の事など気にしていなかった。
ただ、後輩がしまった筈の葵切りをいつの間にか手にしていた。
何をしているのか。
そう口に出そうとしたが、舌が凍り付いたかのように声がでない。
急がなければならない筈だった。しかし、私の目は、彼から・・・いや、彼の手にする刀から目が離せなかった。
酷く嫌な予感がした。
私の目の前で、彼がゆっくりと刀を抜く。
その瞬間、世界が反転した。
世界から色が失われ、白と黒のコントラストに染まった。
木でできている筈の蔵の柱もモノクロだった。
漂っていた黴臭い埃の臭いもいつの間にか臭わなくなっていた。
灰色の世界。
そんな陳腐な言葉が思い浮かんだ。
まるでモノクロ映画の世界の登場人物になったかのように感じられた。
だが、ここはモノクロ映画の中の世界などではなかった。
何故なら、この世界には大きな染みがあったからだ。
真っ黒い、真っ黒い染みが。
この灰色の世界の中で・・・
彼だけが真っ黒に染まっていた。
彼と同じ姿をした真っ黒な染みが、闇色の刀を手に、私を眺めていた。
彼がゆっくりと足を踏み出した。
私の背筋に寒気がはしり、私は思わず後ずさった。
彼が足を踏み出す。
私が後ずさる。
彼が足を踏み出す。
私が後ずさる。
彼が足を踏み出す。
私が後ずさる。
彼が足を・・・踏み外す。
私は目を見張った。
何もない筈の場所で彼は足をふらつかせ、崩れ落ちた。
私は思わず彼の元へ駆け寄っていた。
先ほどまで感じていた寒気も、その真っ黒な姿に対する戸惑いもすっかり忘れていた。
無意識に彼の肩に手をかけると、まるで泥でできた人形のように、彼の肩が歪んで崩れた。
私は悲鳴を上げて手を離した。
一体、何が起きたのか。
彼がどうなってしまったのか。
私には何も理解できなかった。どうすべきなのかも分からなかった。
倒れた彼の身体を支えたいが、触ればまた彼の身体が崩れてしまいそうで怖ろしかった。
だが、彼の身体は私が触れずとも崩れつつあった。
狼狽えていた私は、ふと彼の唇が動いて居ることに気付いた。
私は彼の口元に耳を寄せ、彼の言葉を聞き取ろうとした。
彼は囁いた。
ああ、だめだった
しかくがなかったのか、ちからがたりなかったのか
それはもう、どうでもよいよ
わたしは・・・ほしかった
かがやけるみらいが
だれも、なかないみらいが
だれもが、わらうせかいが
でも、そんなのいみがなかった
だって・・・
だれも、なかないんだから
だれもが、わらっているんだから
彼はもう、崩れ落ちて人の形すら留めていなかった。
それでもまだ残っていた真っ黒な瞳で私を見つめ、彼は囁く。
跡形もなく消えていきながら。
ああ、きいてもいいかい?
なんで、みんな
わたしのみうちがしんだときいたとき
かげでわらっていたんだろう?




