第三十二話 世界の外側(3)
法の守護者とは、自らが法を体現しなければならず、法に背くことは許されない。
故に俺にできることは何もなかった。
でも、俺は見てしまったのだ。
何故、彼女にドラッグなど渡したのか。
そう問い詰めた俺に、弟は目を逸らした。それでも、俺は黙秘など許さない。これは警察官としての仕事ではなく、黙秘権など認める必要はない。
顔を青ざめながら様子を窺う両親の視線。弟が彼女の死ぬ原因などとは彼等も信じたくはないだろう。
だが、それが弟以外ではありえない事は裏付けが取れていた。ある違法バーのドラッグパーティーに参加している弟と彼女の写真がその証拠だった。
弟は長い沈黙の果てにポツポツと話し始めた。
いま弟は自分の恋人と上手くいっていないこと。そして、俺の帰りを待ち続ける彼女の姿に、俺達の絆に嫉妬していたこと。嫉妬から俺達に八つ当たりして、俺達の絆を引き裂こうと彼女に俺の嘘の浮気の話を吹き込もうとしたこと。
だが、彼女は俺を信じ、弟の言葉に耳を貸さなかった。そして、弟は不誠実な人間と彼女に蔑まれ、そのチンケなプライドを引き裂かれた。
そして、彼女を逆恨みした弟は、最悪の手段に訴えた。
彼女に無理矢理ドラッグを飲ませ、前後不覚の状態となった彼女と強引に関係を持ったのだ。
それからの転落は弟も想像もしない程だった。
彼女は潔癖で貞操観念が強かったが故に、弟と関係を持ってしまった罪悪感に苛まれ、ドラッグに逃避し始めたのだ。
俺との結婚後の生活の為に貯めた蓄えもドラッグにつぎ込み、果ては無理矢理関係を持った事をネタに弟を脅迫し、そうして得た金もドラッグに注ぎ込んだ。
ある日、とうとう耐えられなくなった弟は、彼女を説得してドラッグを止めさせようとした。
だが、彼女は弟の言葉に耳を貸さなかった。当然の事だろう。全ての元凶は弟なのだから。
誰もが耳を背けるだろう品の無い罵倒を繰り返す彼女に、弟はたまらずこう言った。
これまでの事を兄・・・この俺に話すと。
それを聞いた彼女は顔を真っ青にし、口汚く弟を罵ったが、弟の意見を翻さなかった。
弟の決意が変わらない事を悟った彼女は、意味の分からない言葉を喚き散らしながら走り去った。弟は慌てて後を追ったが見失ってしまった。
その翌日、弟は彼女が自殺した事を知った。
全てを聞き終えた俺は、思わず弟を殴りつけていた。無抵抗のまま床に叩きつけられた弟に馬乗りになり、何度も殴りつける。
しがみついた両親に弟から引き離されたとき、弟の顔は原型も留めない程に腫れ上がり、母は慌てて救急車を呼んだ。
俺はそんな現実感の無い光景をぼんやりと眺めながら、壁にもたれてしゃがみ込んだ。
もう、何も考えたくなかった。
弟の顔を見たくなかった。
泣き崩れる両親を見たくなかった。
目の前の現実を見たくなかった。
彼女の事しか考えられないのに、彼女の事を思い出すのと彼女が居ないという現実を突きつけられる。
俺はただ、何も考えずに家の壁を眺めていた。
彼女が死んでから、どれほどの月日が過ぎたのだろうか?
時間の感覚が鈍くなり、上手く頭が回らない。
恋人がドラッグで死んだという事実は、俺がキャリア組から落ちこぼれるには十分な理由だった。それ抜きにしても、ぼんやりとした今の俺は失態続きで、どちらにせよ落ちこぼれていただろうが。
今の俺にはどうでも良い事だった。
俺にできる事は何もない。法の規制が設けられない限り、警察がドラッグを取り締まる事はできないのだ。
俺がこの街を離れなければ、彼女が死ぬ事はなかったのだろうか? 俺が警察官になんかならなければ、ずっと彼女の傍に居られたのに。そうすれば、みすみす彼女をドラッグの餌食に何かさせなかったのに。
ただ、後悔と自責の日々が続いた。
そんなある日の事だった。
『世界の外側』を目にしたのは。
ある街に左遷された俺は、ある連続猟奇殺人事件を追っていた。
被害者は誰もが身体が引きちぎられていた。ある者は首をねじ切られ、ある者は内蔵を飛び散らせ、ある者は頭を潰され脳を撒き散らしていた。
その現場を最初に発見した者は、熊にでも襲われたかと考えた。この街の近くで熊が目撃された事はないが、土地開発で餌場を追われ本来の生息地から離れた場所で野生動物が発見されるのはよくある事だった。
だが、検死の結果は動物によるものではなかった。首をねじ切られた被害者の首には、明らかに人の手の形と思われる痣が残っていたのだ。また、野生動物ならば必ず発見される筈の動物の毛などの遺留品が発見されなかった。
事件は迷宮入りになるしかなかった。
手の痣や指紋から手掛かりを得ることはできたが、犯罪歴はないらしく、犯人の特定はできなかった。
それに、もし特定できたとしても、立件は不可能だったろう。
人間の力で首をねじ切ることなどできるはずがない。明らかに人間の手による、明らかに人間には不可能な犯行。
誰もが途方に暮れていた。
それでも数少ない証拠から犯人の年齢・身長・性別を推測し、容疑者を絞り込んだのは賞賛されてしかるべき事だっただろう。
俺はその容疑者の女性の監視チームに加わる事となり、俺が交代した直後にそれは起きた。
容疑者の監視は常にツーマンセルで行われる。
俺がその相方と交代し、挨拶に軽く手を挙げた時だった。
ドゴッ!!
容疑者の家の庭を囲む塀が轟音を立てて崩れ、俺達は慌てて隠れていた交差点の角の影から飛び出した。
そこで俺達が手にしたのは、崩れた塀、飛び散った瓦礫、そして・・・
刀を握る一人の少女。
呆然としていた俺達の前に、崩れた塀の奥から一人の女が現れた。俺達が監視していた容疑者だ。
この状況からすると、この容疑者が塀を破壊したのだろうか? 何の為に? どうやって?
俺には何も理解できなかった。
女は俺達が視界に映っていない様子で、醜く顔を歪めながら少女を見ていた。少女が凛とした態度で女に向かって刀を構え、それを見た女が嘲笑を浮かべる。
そこで正気に戻ってしまったのが俺の相方の悲劇だった。
警察官としての職務に忠実だったその男は、二人を止めようと間に割って入ろうとした。
それを見た俺は危険を感じ、止めようとした時にはもう手遅れだった。女が相方の後頭部を後ろから鷲掴みする。
そして次の瞬間、相方の体は宙を舞っていた。
女がまるでバットを振るうように、相方の体を振り回したのだ。
信じられない光景に、俺は呆然として
そしてそのまま、女は刀を握る少女に向けて相方の体を棍棒代わりに振り降ろした。
少女はあっさりと身を翻して相方の体を避け、目標を見失った相方の体は・・・
アスファルトに叩きつけられた。
即死だった。
首の骨が折れ、全身の骨を砕かれた相方は、悲鳴を上げることも許されずに絶命した。
女は相方が死んだことなど気に留めず、再び相方の体を振り上げて少女に叩きつけようとした。
だが、女がアスファルトに張り付いた相方の死体を引き剥がした時には、もう決着が付いていた。
少女の放った突きが、女の喉を貫いたのだ。
そして、女の身体は死ぬと同時に崩れ始め、塵となって消えた。
何が起きたのか分からなかった。
何が起きたのか理解できなかった。
ただ一つ、自分の常識が当てはまらない現実がある事を理解した。
少女が、呆然と立ち竦む俺をちらりと見た瞬間、俺は体がビクリと震えたのが分かった。
俺も殺されるのか。
俺は死を覚悟した。
だが、少女はあっさりと俺から視線を離すと、どこかへ電話しながら立ち去っていった。
少女の姿が見えなくなった瞬間、俺は地面に崩れ落ち、そして・・・笑い始めた。
まるで、濃い霧が晴れたようだった。
彼女の死と共に現実味を失っていた世界が、死の恐怖の前に再び現実味を帯び始めた。
ああ、空はこんなにも青かったのか。
意味のない思考が脳裏をよぎる。
そして何となく俺は自覚した。
自分が目にした、常識の埒外にある力。
その力に惹かれている自分に。
俺には何もできなかった。
俺には何もできない。
でも・・・
もしも、この世界には常識の及ばない何かがあるのなら。
俺にも何かができたのではないか。
俺にも何かができるのではないか。
彼女を救うことができたのではないか。
ああ・・・
たとえそうだとしても、
もう彼女を救うことはできないのだけれど。
君は力を求めるのかい?
不意に聞こえた声に、俺は視線を向けた。
そこに居たのは、一言で言ってしまえば不審者だった。
街中で白衣を羽織り、無精髭を伸ばした中年の男。
その男は薄く色の付いた眼鏡の奥から俺を視ていた。
俺を・・・いや、俺の奥にある何かを。
『悪魔』
俺の脳裏に浮かんだのはそれだった。そして理解した。
目の前の男には、あの容疑者の女や刀の少女に共通する何かがある事を。
ああ、悪魔だ。悪魔に違いない。
この男は、あの女も、あの少女も。
みんな悪魔に違いない。
悪魔は俺に手を差し伸べ、囁いた。
私の手を取りなさい
世界を変えんと望むのならば
君が力を求めるならば
私が君を導こう
深きイドの奥底に
そして汲み取るのだ
大領域に澱む悪意を
・・・積み上げられた人の大罪を
俺は悪魔と視線が合った瞬間に理解した。
ああ、コレはこの世界に在ってはならない存在だ。力を与える代償に、コレは災厄を振り撒くに違いない。
それでも俺は、力が欲しかった。
それが子供染みた逃避であると自覚しても、なお。
だから俺は手を伸ばした。
眼鏡の奥の悪魔の瞳が、ガラス玉のように意志のない空っぽの瞳が、俺を嘲笑っているように感じた。
そして、ふと想う。
彼女が見たら哀しむだろうな。




