第9話 簡雍との再会、盗人との邂逅
青州 北海国高密侯国
高密県で食糧生産が安定したことが周辺に知られ、孫家にはコーリャンとトウモロコシを求めて各地の県だけでなく北海相の使者も訪れた。鄭玄様と俺のところにもいくつかの県から種をくれないかという使者がやってきた。その1つが高密侯国の西にある営陵県で、そこから来た役人の中に史実孫呉の有名人・是儀がいた。彼は今年から営陵県の役所で働き始めたらしい。ちょうど近隣出身の鄭玄様門下生が紹介してくれたので、結構しっかり褒めておいた。頼れる味方は多ければ多い方がいい。
孫家は北海康王のいる劇県や青州刺史のいる臨菑県、近隣の昌安侯国や平昌侯国、夷安侯国などにコーリャンとトウモトコシを売るらしい。孫乾からはこう言われた。
「無論、この大事は旋殿のおかげであるとしっかりと伝えております。農家には今年多めに税をとり、その分旋殿に一部お返しする形に」
「いや、そこまでしなくても」
「いいえ。この高粱と玉蜀黍はそれ程大きな発見でした。小麦も作りますが、青州の民は今後この高粱を主食とするでしょう。だからこそ、旋殿が受け取らねばならぬのです」
北海相の使者は自分の体格を見て「これなら茂才に任じても……」とか言っていたので、自分はまだ幼名名乗りですよとくぎを刺しておいた。冗談じゃない。曹操が不在の中央で黄巾の乱を迎えたら戦場がどうなるかわかりゃしない。ここで青州黄巾を発生させないようにするのが俺流の戦い方なんだ。
収穫直前くらいから鄭玄様の屋敷周辺で怪しい人物を見かけることが多くなってきた。鄭玄様は泰然自若だし鄭玄様本人の耕すあたりから盗もうという不届きものはいないが、俺の畑から盗もうとする者はいて、ある日偶然にもその1人を捕まえてしまった。こちらが見回りをしている時にトウモロコシを根っこから引き抜こうとして上手くいっていない感じだったので、そのままホッカイテイオーと突進して木の棒で脇腹を突き、気絶させた。捕まえた男は7尺(約168cm)くらいのそれなりに大柄と言える男だったが、眉の整った自分より年下くらいの顔つきだった。何度聞いても素性さえも話さないので、実害はなかったし面倒になって解放した。
「いいのか、俺は……」
「最終的に何も盗られたわけでなし。とは言え、誰のためか知らんが欲しいなら正面から堂々と頼みに来い。事と次第では少し安く分けてやる」
「……礼は言わぬぞ」
男はそう言うと東の方に逃げ帰って行った。まぁ、次会ったら流石に捕まえて孫家に処分してもらうけれど。
この話がいい感じに盛られて「盧北海は父譲りの武勇で盗賊を退治した」という噂が流れた。流した当人であろう同部屋の年上門下生は「この噂が広まれば我らを恐れて賊が来なくなる。そうすれば見張り中に争いに巻きこまれずに済む」とか言って高誘と孫乾に噂を広めるよう命じていた。相変わらず利益には聡い人だ。
♢
夏の始まりの頃。地元の琢郡琢県から簡雍がやってきた。書館を無事卒業し、俺の手伝いのために来てくれたのだ。
「お父上から盧家の屋敷に手紙が届いて、誰か江夏郡に行く使いの役目を出来ないかとあったらしいんだ。で、たまたま草鞋を届けに行った時にその話を聞いて、やらせてほしいと頼んだんだよ」
「そうか。来てくれてありがとう」
「今こそ恩を返す時だぜ、旋様!本当は張坊も来たがっていたんだが、まだ書館で学ぶことがあるからな」
「読み書きは上手になっているようだから、心配はしていないよ」
簡雍は背も6尺8寸(約164cm)くらいに伸びており、張世平に同行して大人の一員といった様子でここまで来ていた。張飛少年は今数えで11歳。頑張ってほしい。
「ここから江夏郡にはどう行けばいいんです?」
「一応、ここから徐州、揚州と南下して、歴陽から大江で北上すれば、江夏に行ける」
「ふむふむ」
「歴陽は以前父上が太守を務め、水賊討伐をした九江郡だ」
「それは聞いてますぜ!九江に入ったらここを頼れって手紙も頂いてます!」
「ではその頼りを忘れずにな」
「承知承知!しっかりここに陽風佳を連れてきますぜ!」
「養蜂家ね。間違えないでね。その違い、かなり大きいよ」
「こりゃいけねえ」
本当に大丈夫か、こいつ。
とは思うものの、他に打てる手は現状なし。仕方ないと言えば仕方ないか。
♢
収穫の時期には各地で順調にコーリャンとトウモロコシが育っているという連絡が来た。孫家から結構な大金が届いたが鄭玄様は「ここにいる以上己が食す分は自分で耕せ」という方針なので、農作業は続けた。
鄭玄様はどこまでも自分の研究とそれを継ぐ人間を求めているため、最近は高誘を直接指導することが多い。俺は鄭玄様の息子である鄭益と各地の役人と話す機会が増えていた。彼は俺より3つ年下だが、俺と同じく書館を早くに卒業し今年から同じ部屋で生活していた。その分高誘が別の部屋に移っている。
「私は父と違って漢朝で働きたいので、旋殿の下で学ぶ方が良いだろうと父が」
「では蔡邕様のところでの勉強も一緒にしましょうか。私もまだまだ勉強中ですし」
「宜しいのですか?」
「もちろん」
一方、鄭玄様は今古文折衷の学を作るとして五経の体系化を進めながら門下に講義をしている。『礼記』を中心に研究しているのは以前の父と同様だが、父よりも細かく、そして『周礼』と『儀礼』を用いてどう『礼記』を解釈するかを追求している。まず『周礼』と『儀礼』を正しく理解し、それを『礼記』にどう生かすか、みたいな考え方だ。今日はそのうち『周礼』の講義だった。
「郊天祭祀は帝の正統を天に伺う儀。周を蒼帝霊威仰の加護とすれば后稷が農神にして感生の存在である」
内容は郊天祭祀について。郊天祭祀は歴代の皇帝が行ってきた儀式の1つで、夏至と冬至の時におこなうものだ。この儀式の始まりを感生と呼ばれる、言ってしまえばキリスト教の聖母マリアがイエスを懐妊したあれであると鄭玄様は主張している。ローマ帝国のロムルス、日本の神武天皇、そういう例の1つが農神として知られる后稷で、周王家の祖とされている。その農神と、その父たる天帝に感謝するために行われている儀式ということだ。
「漢で言えば天帝は赤帝赤熛怒であり、その儀式は最重要と言える」
この郊天祭祀をきちんと行うことが天命を維持するうえで重要と鄭玄様は考えている。
「楚は後に秦を破りし項羽の国にして黒帝の国、会盟して春秋の御代に楚を討った斉の桓公は白帝の国ということになる」
まぁ、このあたりの王朝がどの色の天帝かは周囲が勝手に言っているものだ。楚だって春秋時代の楚と項羽の楚は実際は別物だし。
とは言え、考え方は理解しておかないといけない。献帝を保護とかする立場になるかはわからないが、そうなったらきちんと郊天祭祀をやってもらわないといけないし。
一通り話が終わると、鄭玄様がたまに門下生の学習具合を見回ることがある。今日はその日で、孫邵や郗慮の様子を確認した後に俺のところにも来た。
「そう言えば、旋の家は祖が姜氏だったか」
「はい。父上が申されるには、ですが」
「斉の一族の子孫、となれば、そなたを守る天帝は白招拒か」
「まぁ、そうなりますね」
白招拒を祀るのは立秋の頃とされ、父も『周礼』を読んでいたので立秋には何かやっているようだった。
「秋は実り、そなたが持ってきたのは秋に実る高粱と玉蜀黍。そういうことだろうな」
「あの種は白帝様が私に与えた、と?」
「そう見るのが自然よ」
本当にそうならありがたい話だ。曹操と劉備がいないだけだったら中華全土が阿鼻叫喚だっただろう。
「そうかそうか」
鄭玄様はそう何度か頷いて、結局俺の学習内容について聞いてくることはなかった。どういうことやねん。もうお前雒陽で働くだろうからそのくらい理解できてれば大丈夫ってこと?それとも、立秋にはきちんとお礼に何かしろということ?
『礼記』難しい。
斉の国が白帝だったかは知りません。このあたりは私のこじつけです。王朝ではないので白天などはついていない、という可能性の方が高いです。物語的な要素と思っていただけると助かります。
現代の発音で養蜂家と似た言葉にしましたが、こういう言葉遊びが難しいのが日本以外を舞台にした作品の課題かもです。
東から来た盗賊は連休中に再登場します。




