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第33話 学ニ志ス

 青州 北海国・高密侯国


 翌朝。久しぶりに泊まった鄭玄様の元で高誘と話し、鄭玄様に預かっている息子の鄭益の様子を報告した。鄭玄様は嬉しそうだったが、同時に、


「これからはあやつの人生。こちらに助けを求めぬ限り、こちらから手は貸さぬつもりだ。仲厳もそのつもりで頼むぞ」


 と言われた。同部屋だった門下生には「いつでも来い。悩みがあったら鄭玄様が、そして俺が聞いてやる」と言われた。手で金くれってジェスチャーがなければ感動的なシーンだった。俗物だなぁ。でもそれだけに信用できる人でもある。


 孫家の屋敷に置いてきた詩のことも気になったので孫家の屋敷に顔を出してから帰ることにすると、ロバの牧場に文姫の姿はなかった。

 耳に印がついたロバがこちらをじっと見ていた。


 ♢


 屋敷に入ると、珍しく文姫が部屋に籠っているそうだ。応対してくれた貞姫に結婚の祝いを伝えると、真剣な顔で軽く胸を拳で叩かれた。


「仲厳様がどれだけ偉い人か、私は本当の意味ではわかりません。でも、私は貴方が誰よりも私の妹を大事に思ってくれている事を知っています」

「はい」

「だから、妹をお願いします。どんな形であれ、あの子には貴方がいないといけないと思うので。私はもう、長く一緒にいられないから」

「はい」

「信じてます」


 そう言って、彼女は笑顔で手を振ってくれた。


 蔡邕様も詩は見ていないらしい。ただ、文姫が朝から食事もとらないことを心配していた。ただ、文姫の世話をしている女性が「心配ない」と伝えにきたらしく、任せるつもりらしい。


「あの子が賢いとは言え、随分情熱的なことをしたね」

「どうしても、自分の中で彼女はまだ妹に近い存在です。でも、大切だし、ずっと一緒だと言えるくらい、大事な子です」

「きっとあの子には伝わった。だから、ありがとう」


 蔡邕様は頭を下げた。慌てる俺に、彼もまた貞姫と同じような笑顔でカイゼル風の髭を揺らしていた。


「貞姫の婚儀には来て欲しい。羊氏の面々もまた君に会えるのを楽しみにしていた」

「わかりました。日程が決まったら、教えてください」


 帰り際、いつものロバがやはりこちらを見ていた。目線を向けると、かすれた甲高い鳴き声をこちらを向きながら響かせていた。

 2回鳴いた後、ロバは柵の近くまで寄ってきて、もう一度鳴いた。なんとなく、また来いよと言われた気がした。

 ♢


 青州 北海国・劇県


 張倹ちょうけん様が劇県に住み始めたことで、周囲から彼に学びたいという人間が来るようになった。郗慮ちりょも何度かここに通って教えを乞う様子が確認されている。

 そして、ここ数日張倹様と話すために劇県に滞在しているのが名士として知られる王烈おうれつ様だ。年齢的には父と同じくらいの人だが、昨年まで父親の死で喪に服していたそうだ。

 張倹様は王烈様が来たのを知らせてくれた。彼は父と違って学者として大成する前に党錮とうこの禁に巻きこまれていた。そして仕官を諦めて青州の平原へいげん国の故郷で邑長をしていたそうだ。2人が話している時に俺が訪れても、コーリャンの件で邑が助かったとのことで邪険にされずに会ってくれた。


「お話し中にお邪魔して申し訳ございません」

「いやいや、故郷を救っていただいた恩に礼を言いたかったのでな。ありがたいくらいよ」

「王先生は今の青州に何が足りないとお考えですか?」

「この地は北海康王と県令の力で平穏を保っている。県令の勇猛さと王の威厳は十分。となれば、あとは豪族と役人たちが政治とは何かを理解し、民を慈しむ。そしてそれに応える民を育めば良い」

「では、書館を充実させ、役人を育てる場所が必要ですね」


 書館の数を増やすだけでなく、書館から太学までの繋ぎの学校(というか雒陽の太学に向かうのが危険なのだけれど)を整備し、書館→役人養成学校→官庁勤務という流れがあると良いのかもしれない。そして、王烈様という人は曹操に誘われても仕官しなかった筋金入りの反権力思考の人だ。


「王先生、もし良ければ、平原国に役人になるための学校を創ってはみませんか?」

「学校、とな」

「ええ。書館を卒業した者が青州の官庁で働くために必要な知識を得るために、20歳まで学ぶような場所です。士大夫でなくても書館を優等で修めた者に、更なる学業で役人として必要なことが学べるような」

「劇県で、ではないのかな?」

「その方がありがたいですが、平原国と北海国を何度も往復するのは大変でしょうし」


 あの曹操でさえ口説けなかった人だ。役人になってくれと言ってもやってくれるわけがない。だから、それ以外の仕事を提案している。


「成程、望門ぼうもん投止とうしがここに移り住むわけだ。心配いらない。劇県に創ろう。その方が都合がいい」

「都合がいいとは?」

「望門投止にも教える役をやらせれば良い、ということだ」


 望門投止とは張倹様のことだ。張倹様と王烈様が教える学校とか最高の教育環境と言っていいだろう。


「蔡伯喈殿も手伝わせれば、多くの者が学びたいとやって来るだろう。良い建物を用意してくれ」

「わかりました。至急準備いたしますので」


 この2人を家臣にするのは色々な意味でハードルが高い。でもこの形なら間接的に協力してもらえる。それで十分だ。


 後日、このメンバーに管寧かんねい殿も加わった。凄まじい陣容を見て、ここで学びたいと言う人が多数訪れるようになったのは間違いない。


 ♢


 青州 北海国・高密侯国


 貞姫の婚儀は種蒔きの終わった4月に行われた。

 済南の大明湖で集められた蓮の花で飾られた馬車は美しい。仏教が伝来した後だとちょっと色々ありそうだが、まだ仏教は華北一帯に伝来していない。なのでシンプルに美しいと見られているだけだ。


「姉上、お幸せに」

「ええ。貴女も」


 2人の別離の抱擁を見守り、羊秘ようひに嫁いでいく貞姫を見送った。花嫁を迎えに来る一行には泰山郡のじょうである諸葛玄殿がいた。

 諸々の儀式を終えたタイミングで彼は俺に声をかけてきた。一緒に連れていた13歳くらいの少年も挨拶してくる。


「盧県令のおかげで泰山は今も安定しております。高粱のおかげで食糧も何とかなっております」

「それは何よりです」

「実は、今日はこの私の甥・諸葛しょかつきんをお預けできないかという話で」


 そう。来たのは諸葛瑾だった。年齢の割に大人っぽい顔だが、身長はそこまで高くない。髭も生えていないので、人によっては違和感を感じそうな風貌だ。


「確か、諸葛様の甥は何人かいましたよね」

「ええ。他の子はまだ書館も卒業していないので、王先生や張先生にお願いする年齢ではないので」


 諸葛亮は数え8歳、諸葛均は数え3歳だ。それもそうか。


「是非。劇県で暮らす部屋を用意しておきます」

「助かります。冀州の黄巾残党がまだ暴れていますので、一族の1人は他の地域で暮らしてもらえると助かります」

「何かあればこちらを頼っていただいて大丈夫ですので」


 とりあえず、諸葛瑾が手元に来たのはありがたい。あとは孔明も来てくれればなぁ。水鏡先生を呼べば何とかなるのかな?


 翌朝、貞姫が出発した後、少し唇を噛みしめるようにこらえる文姫がいた。彼女と腰を落として目線を合わせる。


「寂しい?」

「だい、じょうぶ、でず。仲厳、ざまが、いるがら」


 こぼれた涙をハンカチとして持っている布で拭ってあげる。すると、顔を隠すように胸に抱きついてきた。


「少しだけ、少しだけ」

「いいよ。心配ないから。俺はいなくならないから」


 20秒ほど静かに泣いた彼女は、1分ほどで俺から離れ、見えなくなった姉の乗った馬車が向かった先をじっと見つめていた。

 牧場のロバたちの遠吠えのような鳴き声が、かすかに聞こえた気がした。

王烈は曹操や逃亡先の公孫度のところで誘われても拒否し、そのためには自分が商人になる(自分の身分を下げる)ことさえ厭わなかった反骨の人です。そのため張倹との縁がなければ感謝はしても協力はしてくれませんでした。王烈は自分の家に入った盗人を改心させたり、人々を道徳のある生活に導いたりなど教育者としての高い実績があります。そうした理由から主人公は学校の先生という立場をお願いしたかんじです。


諸葛瑾については諸葛一族の生存戦略です。兄の諸葛珪が死んでいなければ諸葛玄が似たような立場だったと思います。

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[一言] 驢馬兄さんいらっしゃい!
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