第30話 段珪の保険
遅くなり申し訳ございません。
ちょっと内容も長めです。
司隷 河南尹・雒陽
人生初の雒陽だが、都市の雰囲気は決して明るいものではなかった。
先日、雒陽の前にある成皋関が黄巾賊の残党である郭泰という男に襲撃されたそうだ。
これは問題なく撃退したそうだが、周辺では衝撃が走った。この郭泰という男は司隷の北部で活動しているらしく、商人らの往来がめっきり減っているらしい。
で、その影響からか俺が成皋関を抜ける時も手続きが面倒だった。
関の前で県令が1日取り調べを受けるとはどんだけ警戒しているんだか。
結局、こんな警戒しているから人の出入りも困難になり、ますます商人が寄り付かなくなるわけだ。
そして、税を納める役所でも4日近く待たされてやっと問題なしと言われたのが4月終わり。随分時間がかかったものだ。
雒陽の町も十分散策が終わったので帰途につこうとしたら、尚書から使者がきてもう少し滞在してほしいと言われた。
「仲厳様、ここは良い空気じゃない。早く帰りましょう」
「言いたいことはわかるけれどな、張飛。尚書から直々に使者が来て言われたことを守らないわけにはいかないんだ」
「面倒ですねぇ。鍛錬相手も伯連殿だけじゃあ、お互い手を覚えちゃって」
伯連は王豹の字だ。彼との鍛錬ばかりの張飛にとっても、ここでの日々は少々退屈なようだ。俺も会えると思っていた荀彧が兄の茂才で雒陽に推薦されたと聞いて会えると思ったら、職務でどこかに派遣されていると聞いてがっかりしていた。言いたかったな、我が子房って。
逆旅と呼ばれる宿に缶詰状態で、いつ呼び出されるかわからない日々は人の警戒心を緩ませる。俺が部屋の寝床で足を投げ出して本を読んでいると、突如大勢を引き連れた段珪がやってきた。フットワークが軽すぎて、本当に要職にある宦官なのか疑いたくなる。
「久しいな、盧県令」
「こ、黄門様。お元気そうで何よりです」
「退屈そうなのでな。少し相手をしてくれぬか?」
張飛・王豹とともに彼の屋敷に連れて行かれる。拒否権は俺になかった。
♢
段珪の屋敷は中常侍とは思えぬ程質素だった。それでも一般的には豪邸だが、7日前に張譲や趙忠の豪華な屋敷の外観を見ていたので、その差に驚いた。
いわゆる宝物を貯める蔵もなく、穀物庫だけが2つも3つも置かれていた。いつ戦時になっても良いよう、農地や農奴だけはどん欲に集めているという話は本当らしい。
特に驚いたのは中庭だ。宦官は誰もが池を造り、小船を浮かべて水遊びができると聞いていた。中に入れないため本当かはわからなかったが、今回訪れた段珪の屋敷の中庭はただ広いだけで日時計以外何もなかった。
「ここは俺の鍛錬場でもある。そこに矢の的、これは槍で突く的。これが剣で切りつける藁束だ」
宦官でありながらひたすら己の武を磨く段珪という男。なぜここまで富に興味がないのか。
「県令の家臣には勇猛な者が多いと聞いた。少し手合わせを願いたい」
張飛の方を向くと、どう猛さを少し抑えた笑いを浮かべた。同じ相手ではない相手と戦えるのが嬉しいのだろう。任せることにした。
「矛か。重い得物をどう扱っているのか」
張飛は木製の練習用の矛を受け取り、段珪は木製の槍をもって対峙する。13尺(約3m)ほどの距離で両者が相対する。張飛は始めの合図とともに大きく踏みこみ、矛を振り下ろして頭を狙う。段珪は冷静に右横に避ける。そして、矛を上から抑えつけようとする。しかし、張飛は矛の軌道を腕力で曲げながら腰の回転で足払いのような横薙ぎにいく。脛あたりを的確に打つ一打だが、段珪は器用に膝を落としながら槍の反対側を地面にめりこませるくらい突き立てて矛を防いだ。周囲で見守っていた段珪の家臣から、感嘆の声があがる。
「良い腕だ。その若さで、さぞや戦場でも活躍しただろう」
「お褒めに預かり何とやら!」
張飛はすぐさま体ごと回転して、槍の守っていない段珪の反対側を狙うべく矛をふるう。しかし、段珪は跳ねるように後方へと下がりながら地面についた槍の先を張飛に向かって振る。わずかについていた土が張飛の目元に飛び、張飛の回転が鈍って段珪が射程外に逃げる隙を与える。
王豹が顎髭を撫でながら「相当戦い慣れていますな」と呟く。本当に宦官か?(本日n回目)
「危なかった。相手から目を離すなと師父には教わったが、戦場を経験すると違うものなのかな?」
「1つお教えしましょう。戦場なんて荒れた場所じゃ、背中側に敵がいるのなんて普通ですぜ」
「成程。これは良いことを教わった。ではお礼に、俺のとっておきをお見せしよう」
そう言った段珪が突如槍を投げる。張飛も一瞬反応が遅れながら矛でその投擲を弾くが、既に段珪は傍の家臣から次の槍を受け取っており、第二射を放とうとしていた。
「うおおおおお!!!」
しかし、張飛は体を捻って二射目の直線上から逃げると、段珪の第二射を見事にかわす。そのまま体勢を崩しながら前に出て、矛を段珪の顔面に突き立てた。手前で止まった矛を見て、段珪がにやりと笑った。
「これを使って負けたのは2度目だ。良い家臣だな、盧県令」
彼は3本目の槍を家臣に投げ返し、家臣から受け取った何かを張飛に手渡した。
「勝者に渡すことにしている。売っても誰かに贈っても、好きに使うがいい」
それは卣と呼ばれる酒壺だった。青銅で出来ているらしく、白銀色に輝いていた。細工もしっかりされており、結構な値段のものである。
「それと、これを渡そう」
今度は俺のところまで来て、一通の書状を渡してきた。
「これは……」
「先日、涼州で人事が刷新された。それで涼州から雒陽に帰ってくる男への紹介状だ」
人事の刷新は雒陽でも噂になっていた。車騎将軍の張温が太尉として涼州全軍を指揮するのは変わらないものの、漢陽太守として董卓以上に奮戦していた蓋勲が太守を辞めて傅燮に代わるという話だった。涼州刺史も楊雍から耿鄙という光武帝の下で働いた名門・耿氏の末裔に代わったらしい。董卓は破虜将軍に昇進し、武威郡から金城郡を反乱軍に渡さないよう厳命されているらしい。孫堅も車郎中将として招集されるらしい。
とすると、この紹介状は蓋勲か楊雍との縁となる。
「何故これを?」
「俺の政敵の名は知っているかね?」
「蹇黄門ですね」
「そう。同じ黄門で、俺と同じく武を求める宦官よ」
蹇碩と段珪。蹇碩は皇帝の信任が厚く、段珪は張譲派と言ってもいい人物だ。対立すればするほど、都合がいい存在ではある。
「奴は今、自分と仲の良い高望の養子を官職に復帰させようとしている」
「高望……あぁ、以前済南で罷免された!」
「そう。元済南相の高進だ。あれから黄巾賊の反乱時に兵を率いて戦ったはいいが、波才に敗れる一因をつくったせいで太守に復帰できなかったのだ」
以前劉繇に弾劾された高進だ。黄巾の乱では朱儁将軍の足を見事に引っ張ったらしい。何やってんだか。その愚かな高進を思いだしたのか、段珪はくっくっくと笑う。
「戦場に出ていない俺が笑うのも良くない。が、高望は必死でな。だから邪魔をしたいのさ」
「それがこの書状とどう繋がるので?」
「高進の本籍は雒陽で、ここで孝廉に推挙されたい。だが、今の河南尹は何大将軍の弟だ」
「それは無理でしょうね」
何進大将軍の弟は何苗と言い、血が繋がっていない弟と聞いたことがある。
「だが、何皇后は趙忠に助けられたことがあり、奴に負い目がある。だから、このままなら推挙されるやもしれぬ。それは困る」
「はぁ」
「で、大将軍の弟を説得できるだけの弁が立つのが蓋勲ということだ。縁を結ぶ手伝いはする。だから、上手く説得してきてくれないか?」
「私に何の益がありますか?」
「あと少しすれば、俺に感謝する出来事があるぞ」
肝心なことは言わない気らしい。口にすると良くない策謀なのだろうか。
「それと、これも渡そう。俺はもう女が不要だが、これから必要になる県令には最高の品だろう」
そう言って渡されたのが翡翠と琥珀の塊だった。
「笄にすれば、どんな女でも口説けるそうだ。俺は興味ないが」
うーん、自分まだ縁談が決まってないんだけれどなぁ。政略結婚にせよ、相手に気に入られるという意味ではこれは有効なのか?
♢
3日後。俺は後将軍の袁隗様に呼ばれて屋敷に行くことになった。
袁隗様は三公と呼ばれる最高位の官職を歴任している名門・袁家の出身だ。あの袁紹の伯父であり、袁術の叔父でもある。
彼は昨年末起こった宮廷での火事の責任をとって後将軍に左遷させられていた。とは言え、後将軍は朝議にも参加できる程度には格の高い将軍だ。
「噂の盧大海の息子に会えて嬉しいよ」
「お招きいただきありがとうございます」
「そうかしこまらず。私の妻は君の父・盧大海の師である馬先生の娘だ。君も私からすれば子ども同然よ」
袁隗様の厄介なところはこういう縁だ。父の師だった馬融の娘が嫁いだ先がこの袁隗様なので、俺も無下には出来ない。
「今回呼んだのは他でもない。君に尚書台に来て欲しいのだ」
「尚書台に?」
尚書台は簡単に言えば皇帝の秘書官による官庁であり、皇帝の側にいる分役職と権力が見合わないくらい力を持てる者もいる。雒陽に常にいるので政争に巻きこまれやすいが、中央での出世コースの1つなのは間違いない。
「黄巾賊のせいで中華は大いに乱れている。故に君の兄や君のような真に才ある者と袁家が手をとり、天下静謐をなさねばならぬ」
この人の魂胆はこの一言に現れていると言っていい。何進が実権を握りつつあり、宦官が衰えている状況に袁家が絡めていないのが悔しいのだろう。袁家は袁術の父が亡くなったことで袁隗様以外に三公クラスの重鎮がいない。だから尚書の中を掌握して、宦官が何進大将軍によって排除されたら皇帝の周りを固めてしまおうという魂胆だ。これは何進が勝ったら実務派である自分が掌握できるという自負があり、宦官が勝ったら俺を抱きこんで軍事への影響力を残そうという狙いがあると見ていい。
この軍事力の面で兄は実働戦力を持たないので、実働戦力を育てさせるために雒陽近くの潁川郡へ派遣したのだろう。兄が潁川郡太守に任ぜられた時に三公の一角である太傅として太守の任命に関与したのはこの袁隗様だ。
「任命に関する朝議は5月4日に行われる。既に上奏は終わっている。任せたまえ」
「はぁ」
成程。ここに留め置かれたのはそういう理由だったのだ。袁隗様が政争を仕掛けるための駒にしようとしていた。そういうことだ。
税の件は俺の実績の喧伝に使われたのだろう。
「しかし、君は段黄門に嫌われているのかね?あの男、この日付まで今回の件を粘っていたのだが」
「黄門様が、ですか?」
これが段珪の言う感謝することか?だが、俺が青州で自由に動ける状態を保つならそれは失敗している。
「あぁ、この日の朝議に諮ることを求めて、随分周囲を説き伏せていた」
「嫌がらせでしょうか?いや、自分にはわかりませぬ」
「であろうな。先日も屋敷に呼ばれて無理難題を言われたと民にまで噂されていた」
お互い要領を得ないまま、その日は帰ってよいと言葉をもらった。そして5月に入った。
♢
5月4日、日食が発生。
事前に当日の朝議に決まっていたのは俺の尚書台への赴任のみ。
段珪と仲の良い宦官がこの議題は天の意に背くとして、現在の県令を続けるべしと提案。
霊帝はその意見を取り入れた。
俺は即時帰国するよう命じられ、5日朝には雒陽を出発した。
俺は段珪の屋敷にあった日時計を思いだした。
もしかして、狙っていたのか?
王豹の字は物語上のものです。史実的裏付けはありません。
後漢王朝は結構高精度に日食を計測していました。実際に、北米大陸で日食が発生した日に「日食あり」と記録しています。中国周辺で日食が起こっていないにもかかわらず。
こうした点から、暦を把握している一部の人間は日食を予想していたと見られます。
そして、軍師の大事な役割の1つが星見などの天文学。軍事を大事とする段珪なら、修めていてもおかしくないかな、と。




