第3話 蒼天已死
幽州 涿郡涿県
邴原。字を根矩。三国志の時代を好きなだけでは多分名前までは知らないだろう。劉備と絡むこともないし、曹操ともあまり絡むことがないからだ。
しかし、優秀な人なのは間違いないし、人脈も広い。今はまだ放浪中のようだけれど。
「もしや北海の邴根矩様ですか?」
「……いやぁ、盧大海様の子は凄まじいですなぁ。木っ端も木っ端と言える我が名をご存知とは」
「偶然ですが」
驚いた様子の邴原殿に、そう返す。周りにいた町の人たちも、俺が名前を知っていたからか警戒を緩めた様子だ。
「では、少しこちらの童に学を説いてもよろしいですかな?」
「ええ」
現状の張飛少年はあくまで俺の命令だしお金がもらえるから勉強している。書館にも入ったばかりだからそこまで内容は難しくないが、両親の幽州訛りが強い話し言葉なので、訛りを直すのと並行して勉強をしているから苦にしているところがある。
「少年、君は今後どうするつもりだい?」
「今後?今はお金を稼がないと……」
「しかし、盧大海の子はこれからこの漢の各地に行くことになるでしょう。道中聞いた話では、聡明で『論語』を諳んじると。となれば、その従者も相応の教養が求められます」
「う……で、でも力仕事なら得意だし!」
「今している仕事、いつまでも出来るものではありません。しかし、盧大海の子が軽々しく君を見捨てる筈はない。だから、必要な分だけ学び、相応な人となりなさい」
「ううう」
「盧大海の子に選ばれた己を信じるのです。盧大海の目は正しかったと、周りを見返せる人となりなさい」
張飛少年にはやはり難しい部分もあっただろう。とは言え、外の人間からこう見える、という話は彼に少し響いたらしい。以後は書館でも真面目に過ごしていると聞いた。
♢
自分の書館卒業が決まり、父も議郎に復帰するため雒陽に向かうことになった。そのことを近所ではないため別の書館に通う簡雍らしき少年にも伝えに言った。一応他の名士一族のついでということにはなっているが、彼らも何人かはあと1,2年で卒業するらしい。1年負けたかーくらいの反応だった。だが簡雍少年は寂しそうだった。まぁ彼の実家からわざわざ草鞋を買うようになったのは俺の提案からだったし、天下の盧植様が買っている草鞋、みたいな評判から少し生活が楽になっていると聞いている。
「お、おいらも旋様について行ぐ!」
「待て待て。書館で学び終えていない者を連れて行くなど、私が父に怒られる」
「う、ううう゛」
まぁ、一種の後ろ盾がいなくなるなんて困るだろうしな。
「出発前に青州に向かう旅路で履く草鞋を用意してくれないか?少し多めに欲しい」
「ばい゛!」
「泣くな泣くな」
「ずみ゛ま゛ぜん!」
この泣き虫少年が本当に三国志で優秀な外交担当を務めるようになるのだろうか。うーむ、わからん。
出発前に簡雍と張飛を会わせた。2人の少年には書館で立派に学んだ後、もし北海に来てくれるなら嬉しいと伝えた。2人は家が少し遠いながらも協力して頑張ると言っていた。期待しよう。子飼いの武将が今は必要だ。
♢
3つ年上の子どもと一緒に書館を卒業した。賛は案の定まだ書館に残るらしい。同い年や年下の子に教えるサポートをするようで、こうして『地元で昔から世話になった役人』が生まれていくんだろう。名士の家はかくして盤石となる。
たまたま陳留郡から戻ってきていた父に、鄭玄様のところで学びたいという話をしたら割とあっさり許可がもらえた。父曰く、「一つ所に囚われる必要はない」とのこと。兄が太学で評判良く頑張っているので、一族として困る事がないだろうというのもありそうだ。
「6年。太学に入るまでこれだけ時間がある。好きに生きよ」
「ありがとうございます」
「道中も考え、高誘とともに青州に向かう商人に同行できるように手配した。あと、これを康成に渡してくれ。私の書いた書だ」
康成とは鄭玄様の字だ。どうやら俺についでに最近書いた本を届けさせたいらしい。紹介状を書いてもらった分は働かねば。
♢
残念ながらこの時代、後世で造られた運河は存在しない。船で青州に行くのは難しいので、馬車に揺られながらの移動となるそうだ。
出発の日、母に別れを告げ、張飛少年と簡雍少年にも別れを告げていると、商人が時間通りに屋敷の前までやってきた。
「張世平と申します。中山で馬を扱っております」
「旋と申します。お世話になります」
「いやいや、盧大海様の御子をお世話できる機会なんてそうそうございませんから」
それなりの商人らしいが、この名前、どこかで聞いたことがあるような。思いだそうとするが、結局思いだせずにその日は移動を開始した。
高誘とともに馬車に乗っていると、都市以外の場所がまだまだ荒涼として前世中国との違いを感じる。
初日の夜に張世平が今商売で運んでいるという馬を見せてくれた。どうやら父から代金は既に受け取っているらしく、どれでも1頭大丈夫とのことだった。
「どれも栗毛に艶があって見事ですね」
「旋殿にも懐いていそうなのはこの馬ですかね?こちらも良い脚でございますよ」
高誘は疲れて早々に寝てしまったので、色々見ながら馬たちを撫でる。どの馬も大人しそうではあるが、特によく懐いていたのが額に白い線の入った馬だった。
「あ、その馬はお止めになった方が」
「どうしてです?」
「この額の線は的盧と申しまして、凶兆を運ぶ馬と呼ばれているのです」
そう言われて、これが的盧かぁと少し感慨深くなる。前世の記憶から、この額の白い線の形は「奇跡の名馬」「帝王」と呼ばれた皐月賞のタイトル馬にしか見えない。だから自分のイメージとしては最強の馬というポジティブなものだ。
「しかし世平殿、我が家は盧家にございますれば、的盧とは盧の字を持つものにございます」
「た、確かに」
「『盧』家の私を『的てた』馬であれば、私にこそ相応しいと言えましょう」
「いやぁ、まさしくその通りにございますな。では是非、その馬と幸運にお過ごし下さいませ」
はたしてこの馬と劉備の的盧は同じ馬だったのか。それとも別の馬なのか。わからないが、この子はこれから北海郡に向かうからホッカイテイオーと心の中で呼ぶことにしよう。
♢
青州 斉国・臨菑県
青州に入って平原国の高唐県で黄河を渡り、更に別の川を下って楽安国の高菀県から南東へ陸路で進み、斉国に入った。青州は劉一族が諸侯王を務める国が多い。郡と違って劉氏一門が世襲でトップを務め、その補佐である相が実質的に郡の太守と同じ仕事をする。斉国も斉王である劉承という人物が国王を務めている。そんな斉国の臨菑県に入って一日の移動を終えたと思ったら、市内は少しどころではなく静まりかえっていた。
「これはおかしいですね」
高誘が馬車から身を乗り出して周囲を眺め、そう言った。
「臨菑県は斉王様が治めているので民は安んじ、栄えていると聞きましたが」
その言葉に、張世平も頷く。
「半年前に来た時は、むしろ賑やかだったのですが」
その言葉に、市内の入口にいた門番の兵が理由を説明してくれた。
「実は、その斉王様が亡くなったと発表があってな」
「斉王様が?」
「ああ。つい昨日のことだ」
「それはそれは……惜しい御方を亡くしましたな」
「斉王様は跡継ぎがいない……劉悝様の御子を養子に迎える予定だったが、例の事件でそれも出来なかった」
劉悝は前皇帝である桓帝の弟だ。一時は勃海王を継いだが、その後霊帝に謀反を企んだとして室や子ども、はては主な家臣までが捕縛され、処刑された。彼は子どもが70人もいたといい、断絶しそうな諸侯王たちから養子の話がかなりたくさん持ちかけられていたらしい。本当に謀反を計画したかはわからないが、諸侯王が軒並み劉悝の子どもになると、霊帝が自分の立場も危うくなると考えた可能性がある。
「これから斉国はどうなるか……郡に戻ると、しょっちゅう太守が変わるから荒れやすくなるんだがなぁ」
兵士がぼやくのも無理はない。諸侯王は代々その地を受け継ぐため、領民を苦しめるような租税はあまり行わない。恨みが積み重なると良くないし、子孫のためにならないからだ。一方、通常の郡太守は定期的に交代させられるため、短期間で税収をアップさせた実績と余剰分を上司の懐に入れて出世を狙うために租税が苛烈になりやすい。こうした動きにあまり巻きこまれないのが諸侯王の国であるメリットだったわけだ。
「最近は飛蝗の害も酷いし、困ったもんだ」
「そう言えば、一昨年の長安周辺で起きた飛蝗は酷いものでしたよ。家の屋根まで飛蝗が食いついて、そのまま死んでいたのを見ました」
「行商はあれを見たのかい。こっちでも噂は聞くが、それは酷い」
熹平4(175)年に飛蝗が長安周辺を襲い、そのせいで多くの餓死者が出たそうだ。最近はかなりの頻度でこうした被害が出ている。しかし皇帝である霊帝は宦官と一緒に権力の確保に必死だ。そりゃ黄巾党も騒ぎだすわな。
序盤はサクサクめに進みます。
本日最後の分は18時~19時頃に投稿します。




