第10話 元服(しない)、婚儀(兄がする) 前編
本日は2話投稿です。2話目はおそらく16時~17時の間になります。
青州 北海国高密侯国
年末。簡雍から手紙が届いた。どうやら無事に姜岐の一族と会えたらしい。手紙が下雉県から届いたらしいので、その周辺に養蜂家たちがいるのだろう。手紙には案内してくれた元水賊の蔣蓮という男について色々書いてあった。名前を聞いたことがないので、そう都合よく知っている三国志の人間ばかりとはいかないか。
簡雍は父・盧植が九江郡で水賊討伐の際に寿春県出身で水賊からいち早く足を洗い、協力してくれたこの人物に今回も協力を依頼したらしい。手紙では仲良くやっているようで何よりだ。
年末なのでせっかくだからと白帝に祈りを捧げる父のしている儀式と同じものをしていると、父から手紙が届いたと孫乾が教えてくれた。儀式を終えて手紙を読んでみると、兄の盧欽が太学で進士に推挙されたとのことだった。進士に推挙されると司馬で働くことができるので、出世街道に乗ったということになる。めでたい話だ。
ただ、それを受けて兄が婚儀を行うという話が書いてあった。兄は今数えで21歳。これから婚儀なので22歳で結婚ということになるか。相手は兗州の東平国相である李瓚様の娘だそうだ。この話をすると、鄭玄様からはその縁について教えてもらえた。
「李家は李瓚の父・李膺様が傑物だったため、鮮卑や宦官さえ彼を畏れた。彼の一族の出身である潁川では有数の名士として知られておる」
「なるほど。潁川の名士と言えば、荀氏や陳氏が有名ですね」
「李氏もそれに劣らぬ名家よ。本来そうした名士の縁を自ら望む男ではない。だから、この縁はそなたの兄が漢朝の中で上の職務を目指すためのものでもあろう」
「確かに、兄上は盧家の跡取りらしい賢者ですからね」
「そして、李瓚も慧眼の持ち主。今は国相だが、これは宦官に李膺が罰されたせい。そなたの兄は慧眼に認められたのだ」
党錮の禁と呼ばれる儒学者、特に清流派と呼ばれる儒学第一主義の政治家が宦官によって漢朝から追放された事件。この事件は二度行われ、二回目が起こったのは俺が物心つく前の建寧2(169)年である。この騒動で多くの儒学を中心とする政治家・役人が追放・殺害された。当時父はまだ博士ですらなかったため難を逃れたが、この一件もあって鄭玄様は官僚として個人で務めるより、儒学の研究で役人や宦官の手本を作ることで国を正すべきと考えるようになったらしい。
「婚儀に出てきなさい。いつか雒陽で学んだことを生かすならば、人との縁もまた大事。それに、兄の良縁を祝わない不孝者になってはならない」
「はい。行って参ります」
「できれば息子を連れて行ってほしい。あれは旋を見習おうとしている」
「もちろんです」
この会話の直後、孫乾・孫邵を誘っていたら郗慮がちゃっかり俺の兄の婚儀を聞いて同行したいと言ってきた。中央での人脈づくりをしたいという下心丸見えでいっそ清々しいレベルだ。
「相手があの名士ならば、六礼も全て行うのだろう?」
「ええ。もう納徴まで終わっているそうです」
最近はあまり見られないが、本来『礼記』には結婚に関して6つの儀礼を行うと記されている。ただ、近年は色々な理由で士大夫層でも婚儀は簡略化されつつある。今回は李氏との婚姻であり、かつ儒学の大家である父の長子ということで『礼記』通りに進めているらしい。大変だ。納徴はその儀礼の4つ目であり、ここで初めて正式な婚約となるのだ。この次に婚儀の日取りを正式に決める請期となる。
「花車の支度は大変ですが、農繁期は極力避けるため2月に親族が参加する婚儀です。結構大変ですよ?」
「かの高名な盧大海の私塾も拝めるとなれば、小間使いでもやるぞ」
「いやいや、先輩をそんな小間使いにはとても出来ませんよ」
ちなみに、高誘は婚儀よりここで勉強と俺と共同の農地を守るために残るそうだ。まぁ兄と面識があるわけでもないからね。兄が雒陽に向かった頃からの生徒だし。婚儀は豫州の新婦の実家に兄が新婦を迎えに行き、雒陽の兄の家まで花車という花で飾った馬車で送るらしい。大変だ。時期が時期なので、花も多くないだろうし。ここから雒陽に行く道の途中に父が開いていたもう1つの私塾もある。郗慮はそれも見たいらしい。
「頼む!帰ってきたら農作業を2月分手伝うから!」
「……わかりました。その言葉、聞きましたからね?」
ちらりと横を見ると、同部屋最年長の門下生が郗慮ににやりと笑いかけていた。踏み倒しはさせないからな。
♢
司隷 河南尹雒陽
「大きくなったな、旋。ではまずお前の士冠礼後の字を決めるぞ」
新年となり、光和4(181)年を迎えた。兗州を通ってまず雒陽に着くと、父が開口一番そう言った。
「儀自体は別に20歳になってからでいい。むしろ、その方が『礼記』に忠実だ」
「はい」
「だが、字は早めに決めねばならぬ。聞いたぞ、康成の門下生にまで盧北海と呼ばれていると」
鄭玄様の門下生にも旋と呼ばれなくなりつつある昨今。父にもそのあだ名が届いてしまったらしい。
「父ももう45を超えた。いつ死んでもおかしくはない。今のうちに、決められることは決めておきたい」
「父上ほど筋骨隆々とした体を持った人物は雒陽に来ても未だ会ったことがありませんが?」
「あと、兄の婚儀でその体格で旋と名乗るのもな」
「あー、まぁそうですよね」
180cm越えの大男が幼名名乗ったら流石に違和感満載である。盧北海なんて恐れ多くてもちろん名乗れないし、仕方ないか。
「かつて教えたようにそなたの名は慈だ。字は我が家では代々名を補する語を入れてきた」
「そうなんですか」
「例えば、私の名は植。字は子幹だ。植は植えるという意と立つという意がある。幹は植物の幹であり、物事の本体を表す。即ち、私は漢朝の支え立つ者であり、農を育てる士であるということになる」
「おお」
二重の意味があるのか。これはすごく考えられた名だ。
「慈は慈しみであり、優しさと情の深さを表す言葉だ。だから、優しさだけではない名か、優しさを包む名をつけなさい」
「兄上は伯の字を入れていますから、私も仲の字を入れた方がいいのですか?」
「そこは好きにしていい」
長男が伯、次男が仲、三男が叔、四男が季を入れるのが字の慣例だ。家によっては全く入れないし、家によってはこれに拘ることもある。孫策が伯符で孫権が仲謀なのが例だ。兄の字は『子伯』で、父の一字を受け継いだ長男ということになる。
「では、仲厳で」
「厳か。あえて逆の意味の言葉を選ぶか」
慈の逆が厳とされている。だから自分の字は優しさと厳しさ、慈悲と厳格を内に持ち続けるという意味になる。
「良かろう。そもそも字は己で決めるもの。家の指針から大きく外れなければ良し。婚儀の際はその名を名乗りなさい」
「はい」
その日の夜。決めた名を兄に話すと、兄も喜んでくれた。
「いい名じゃないか。漢朝に仕えるならば、優しさだけでは出世できぬからな」
「兄上のように登竜門を体現した人の言葉は重みが違いますね」
登竜門の語源となったのが李膺様であり、つまりその孫娘を妻とする兄は竜門に登った男なのだ。今回の婚儀の件が雒陽でも評判となり、兄上は盧登竜と呼ばれているとか。盧大海の子が盧登竜と盧北海か。あだ名だけなら華麗なる一族というか、天下をとれそうだ。
「3日後には婚儀のために潁川に出発だ。少しの間だが、しっかり休んでおけよ」
「はい。兄上と違って、私は当日以外やることがないですからね」
親族で相手の新婦を迎えに行く関係で、当日は兄と父の後ろからついて行く仕事がある。逆に言えばそれだけだ。少しだけ雒陽でのんびり過ごせそうだ。郗慮は雒陽に着いて早々に友人である孔融の屋敷に向かって帰っていないあたり、長旅の疲れとかないのか。バイタリティすごいな。
孫乾と孫邵は普通に疲れてもう眠っているのに。
「しかし、ここで青州の噂が流れる時は大概旋の話だったから、まるで近くで過ごしているように日々お前の名を聞いたぞ」
「いやぁ、お恥ずかしい」
「父上の名づけた通りだったな。旋は己で動く風也。受け身になりやすい私と違って、旋は自分の内から風を起こす」
「そんな意味だったのですね」
「士冠礼の時に言われた。幼い頃は引っ込み思案だった私を、弟として支える強い風になって欲しいと願っていたそうだ」
人の名には大概意味がある。前世だって名前には思いがこめられていた。だからこそ、名である慈は軽々に呼んではいけないものとなっている。
「お前は父上の跡を継ぐよりも、新しい道を拓く男だ。困ったらいつでも頼っていいが、盧家に縛られずに生きて良いからな」
無理して政道を進まなくてもいい。そういう意味だろう。慈なんて名前の俺よりずっと兄上は優しい人だ。でもね兄上。そんなことを言っていられる状況ではないのですよ。
今日も雒陽に入った時、通りで太平道の説法をしている男がいた。都尉の兵に連れて行かれてどこかに行ったが、話を聞いている数十人の民は誰もかれも服に穴があいている者ばかりだった。
黄巾の乱はもう止められないだろう。ならばせめて、その被害を最小限にしなければならない。
忘れてはならない。盧植の子で生き残るのは本来まだ生まれていない盧毓のみ。俺も兄上も、今のままでは命が危ないのだ。いつかはわからないがどこかで死んだのが本来の歴史。曹操と劉備がいない分もっと状況は厳しいかもしれない。だから、俺は戦うしかないのだ。
姜岐一族が江夏郡のどこにいたかはわかっていませんが、川の沿岸でもないと流通に不便かなと思って下雉県にしてあります。蔣蓮は架空の人物ですが完全に架空ではありません。誰かの父親です。
李瓚は袁紹が外親なので、李瓚自身の妻が袁家なのだろうと推測しています。李瓚の父である李膺の葬式に盧植・蔡邕が出席(ここが2人の初対面と推測されている)、袁家は盧植の師・馬融の娘が嫁いだのが袁紹・袁術の叔父。盧家は結構ガチガチに袁家閥に所属していたりします。父親の生年の推測から135年前後の生まれと思われるので、その娘は割と兄(160年生)とちょうどいいかなと考えています。あと、袁家との縁があったとすれば晩年に盧植が袁紹に招かれたこと、盧毓が袁家支配下の琢郡で生計を立てることが理に適うというのもあります。
父の李膺の住居も潁川郡綸氏県(出生地とは別)なので盧植の私塾のあった場所、というわけで相当縁が深い関係だったのではないかという推測です。盧植自身には出世欲がないですが、息子2人とも優秀なので彼らの出世の役に立てることまで考えてこういう縁を結んでいます。
字の解釈は多分本来と違います。現代中国語的な理解が強いので、この作品独自の設定という事にしておいてください。




