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そして犯人は崖の上で

 たぶん課長にどやされるだろう。

 どうして無理にでもその場で署に引っ張って来なかったのか、と。

「聡さんほど刑事らしくない刑事は、見たことがありませんよ」

 富樫の家を辞して車に乗り込んだ途端、和泉が言った。

 どこか不機嫌そうだ。

「悪いか?」

「県警の検挙率が落ちたら聡さんのせいにされるかもしれません。そうなったら、最悪のケース、山間の駐在勤務になんてことにもなりかねませんよ」

「……それならそれで悪くないさ。定年までの時間をのんびり田舎で過ごすなんて、夢みたいな話だ」

「本気で言ってないくせに」

「お前ほどじゃない」


 さっき一目富樫麻衣子を見た時、聡介は哀れを誘われてしまった。

 彼女は罪の意識にさいなまれている。眠れないのだろう。

 目の下に隈が浮いており、肌もひどく荒れていた。

 

 刑事は狩人だと言われる。犯人を追いかけて捕える。

 状況を分析し、推理を働かせ、証拠を探して、悪い奴に手錠をかける。

 確かに聡介だって過去に何度もそういう経験をした。本部長賞に輝いたこともある。

 

 世の中には良心のまったく機能していない人間が確かにいる。人を殺すことを何とも思わない者、人を騙して、騙される方が悪いと本気で考える者。

 盗んでおいて、盗まれる方に隙があるから悪いと主張するもの。

 

 そういう性根の腐った人間に手錠をかけ、逮捕することには何の躊躇いもない。

 けれど、今回は違った。

 

 彼女はどこにでもいるごく普通の女性だ。

 不幸な事故だったと片付ける訳にはいかないだろうが、少なくとも悪意を感じることはできなかった。

「しばらくここで張り込もう。彼女に何か動きがあるかもしれない」

 和泉が溜め息をついて同意を示した時だ。

 こんこん、と車の窓をノックする音がした。富樫麻衣子だった。

 驚いて窓を開ける。

「……刑事さん、誰か……犬を飼いたいって言う人を知りませんか?」

 彼女の腕の中では愛くるしい外見のチワワが舌を出している。

「本当はペット禁止なんですけど、どうしても欲しくって。子供が欲しかったんですけどできなくて……その代わりじゃないですが」

 どうぞ乗ってください、と聡介は後部座席のドアを開けた。

 白うさぎにメールで連絡するよう和泉に目で合図をしてから。


「……警察の人って、もっと怖い人かと思っていました」

 富樫麻衣子は犬を撫でながら言った。

「この人は特殊なんです」和泉が余計なことを言う。

 息子を肘で小突いておいてから、聡介は彼女の横顔を見つめる。

 しっかりと化粧をして髪も整えていた。

「主人が浮気してるって気付いたのは、ほんの半年ほど前です。元々シフト勤務だし、夜遅く帰ってくるのはいつものことだから、最初はあまり気にもとめなかったんです。だけどある日……家の電話に無言電話がかかってくるようになったんです」

 富樫家には固定電話が引いてある。

 電話帳には載せていないつもりだが、古い電話帳にはまだ掲載されているかもしれない。

「初めは詐欺の電話かと思っていたんですが、ある時、女性の声が聞こえたんです。公一さんって呼ぶ声が」

「その声が誰のものか、すぐにわかりましたか?」

 富樫麻衣子は首を横に振った。

「確かに一時期、彼女と同じ職場で働いていましたが、部署も違っていたし、それほど話をしたこともありませんでしたから、わかりませんでした。その電話は一度きりだったんです。でも……ある晩、主人の携帯電話に電話がかかってきたんです。その時の様子がおかしくて、怪しいと思ったんです」

 その光景が目に浮かぶようだった。

 

 今はまずい、かけてこないでくれ……傍にカミさんがいるんだ。

「すぐにピンときました。きっと同じ職場の女性だろうって。だから私、今も主人と同じ職場で働いている友人に相談したんです。さりげなく様子を窺って欲しいって」

 葛西芳枝のことだ。

「彼女には悪いことをしました、スパイみたいな真似をさせて……けど、おかげで相手を突き止めることができました」

「それが川辺都さんだったんですね」

 富樫麻衣子は黙って頷く。

「うちの会社は社員名簿があって、社員の住所を調べることができるんです。私は川辺さんの住所を調べて訪ねて行きました」

 彼女の話は続く。

「主人と別れて欲しいと言いました。そうしたら……」

『私もそろそろ別れたいなって思っていたんですよね』

『……』

『だって富樫さん、愚痴っぽいんだもん。口を開けば仕事と家庭の愚痴ばっかり。職場の上司は自分を認めてくれないし、言うことを聞かないバカなスタッフばかり。犬を飼うようになってから家の中で一番偉いのはお犬様で、旦那様は二の次』

『富樫が、本当にそう言ったの?』

『本当ですよ。そうそう、こんなことも言っていました。女房は犬の母親になってから女をやめたって。ただのオバさんでさえなくなった、人間の皮を被ったメス犬だって』

 

 カッと全身の血が逆流したような気がした。

 気が付いたら手近にあったガラス製の灰皿を掴んで、彼女の頭に向かって振りおろしていた。

 川辺都はすぐに動かなくなった。


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