天文22年春 5
その良之の許に、信濃で武田に敗れた小笠原長時と村上義清が訪ねてきた。
「お初にお目もじいたします。小笠原信濃守にございます」
「村上左少将にござる」
「ご丁寧に。俺は二条黄門です」
あいさつももどかしげに、村上義清は、良之ににじり寄った。
高位の公卿を相手の無礼に小笠原信濃守は顔を曇らせる。
「お頼み申し上げる。御所様は長尾の姫を側室にお持ちと聞いた。是非、わが旧領の回復に、兵をお貸し頂けまいか?」
歴史に疎い良之だが、これはさすがにぴんと来た。
信濃を失った村上が、長尾の軍勢に後押しされて武田と対峙する。
川中島の合戦では無いか。
良之が想像している川中島の合戦。
――馬上の上杉謙信が床几に座る武田信玄に斬りつけ、その刃を信玄が軍配で躱す。
あれは第四次の川中島合戦と呼ばれている。
上杉軍は車がかりで武田にあたり、武田の本陣まで崩されたと言うが、両軍重臣を失い、上杉軍は死者が多く、武田軍はその才が信玄に匹敵するとまで言われた弟の典厩信繁と山本道鬼斉入道の軍師勘助を失った戦である。
双方痛手を被ったが、一丁たりとも領地を失わなかった武田軍の戦略的勝利と言われている。
「村上殿。小笠原殿。俺の国の評判は聞いてますか?」
良之は村上義清の問いには答えず、問い返した。
村上義清は猪武者ではあるが、愚かでは無い。
答えを置かれたことで断られることを察し、さらににじり寄ろうとしたところに、下間源十郎が片膝立ちになって、刀の鯉口をカチリと切った。
その音で義清は我に返り、恐縮して元の位置まで下がった。
「お二人ともご存じでしょう。俺の領地は、国人層から土地を召し上げ、代わりに応分の金子を以て俸禄としております。農民からは刀を召し上げ、街の治安は常備兵と警察によって維持しています」
二人はうなずいた。
「俺はね、村上殿。領地など持たなくても、豊かな国を作って、そこで充分に生き、子をなして育て、幸福に暮らせる国を目指してるんです。いかがですか? お二人に、信濃に居た当時と同じか、それ以上の暮らしを提供しますから、もう武田の事は忘れ、よりよい世界作りに力を貸してくれませんか?」
「なんと!」
義清は顔を真っ赤に腫らして怒りに震えるが、小笠原長時は冷静に、
「それはいかなる待遇でございましょう?」
と問い返した。
「いまウチには、美濃の斉藤道三殿と、尾張の織田上総介殿が居られます。彼らと同等の待遇にてお迎えしましょう」
美濃の道三は国司代、尾張の織田は総司令官。それと同等というのは破格の待遇である。
「はっ。この信濃守、喜んで御側に参じとうございます」
「し、信濃守様!」
「お控えなされ少将殿。わしらはすでに敗残の身よ。武田には恨みもあるがそれはこの世の習い。噂に名高い飛騨越中にて黄門様にお仕えできるとあれば、今ひとたび花見も咲くやも知れぬ」
小笠原信濃守はそう言ったが、村上義清は全く納得のいかない顔をして震えていた。
「村上殿」
「はっ」
「納得いきませんか?」
「わしは家臣も家族も討たれておりますゆえ」
「それは武田も同じでしょう? 村上殿に武田家は、二人の老臣と大物も五・六人と討たれ、兵も数千人討ち死にさせられていると聞きました。ではその家族が貴殿を取り囲んで、親の敵だとなじったら、村上殿はなんと答えますか?」
「……」
「そもそも、城を失い所領を失い、長尾に頼り俺に頼ったところで、取り返した後旧領は維持できるのですか?」
「わ、わしを愚弄なさるか!」
「貴殿の元の家臣たちは、すでに武田に仕えています。よしんば長尾殿が勝ったとして、冬が来て越後勢が越後に帰ったらどうなさるんですか? また武田が攻め寄せてきて、今度は逃げ落ちることも叶わないかも知れません。村上殿」
良之は、剣呑な表情で今にも村上義清を斬ろうと構える下間源十郎を目線で押さえ、言った。
「真の名誉は、領土の広さではありません。あなたは主君としては平和な国を作れなかった。でも、もし俺の国に来てくれるのであれば、侍として、本当の名誉を感じて生きていけるようにいたしましょう。今日の話、戻って平三殿とよく語らって下さい」
良之はそう言い残し、奥の間へと去って行った。
翌日、春日山城から長尾景虎がやってきた。
「昨日は村上殿が大変非礼な振る舞いをしたとか。お詫びいたします」
珍しく景虎が下手に謝ったので良之はついおかしくなって笑った。
「平三殿らしくも無い。おやめ下さい」
「……そうでございますか」
足を崩し胡座に直り、平三はけろっと表情を変えた。
「御所様は、こたびの一件、わしが武田を討つは反対でござるか?」
「勝てやしませんよ」
良之が言下に答えたので、景虎はむっと顔をしかめた。
「俺の聞いたところでは、北信の豪族や国人たちは、村上殿に愛想を尽かし、武田に自ら降ったという話でした。つまり、今更村上殿を旗印に信濃に討ち入ったところで、長尾の軍がいかに強かろうと冬が来て越後に戻れば、村上殿のさらし首がひとつ出来上がるだけです。ましてや相手は甲斐の龍でしょう? 易々とは勝てませんし、長引けば越後の民が今度は苦しみます」
はっと景虎は顔を引き締めた。
「武田と戦っている間に上野の関東管領から援護を求められたらどうするんですか? 村上は捨て置いて今度は上野に兵を出すんですか? そうやって腰が落ち着かないで居ると、再び越後は分裂しませんか?」
良之の言葉に暫し景虎は黙考に沈んだ。
景虎にとって良之の言葉は痛烈だった。
この公卿は、すでに小笠原、村上の失地回復に「義」がないと言い放った。
それはすなわち、今後の長尾による信濃進出は、防衛する武田側に「大義名分」のある戦いになるという事だ。
加えて、彼は景虎に「越後の内乱」「北条の上野侵攻」まで示唆した。
「ならば御所様は、今後わしはどうすればよいと思うか?」
景虎がやっと重い口を開いたのは、数十分後のことだ。
「越後一国を豊かにすれば、やがて反乱したがる国人も居なくなるでしょう。国とは、そうやって広げるものです。長尾家はそのことを越中で学んでいるでしょう?」
彼の祖父長尾能景は、越中平定に乗りだし現地で討ち死にした。
相手は一向一揆だった。
北陸の一向一揆は、名のある武将を討ち取るたびに自信を付け、先鋭化した。
能景没後に家督を継いだのが、越後の奸雄と呼ばれた為景である。
為景はまず、支配下での一向宗を全面禁教とし、さらに主君である越後上杉氏を攻略し滅ぼしてから、傀儡として遺児を立てた。
再び越中に侵攻し、椎名、神保を討ち取って神通川東岸までの覇権を勝ち取った。
だがその後、為景は北越後の豪族や国人衆の反乱に苦しめられる。
為景は文武に秀でた英雄だった。反乱が起きるたび武力で鎮圧し、やがて、干渉を続ける上野の上杉家まで圧力で下した。
一方で、京の朝廷や足利幕府に積極的に運動し、朝廷からは官位を、幕府からは幕閣の地位を得ることによって、上杉の一被官から長尾家を支配者の地位へと押し上げることに成功したのである。
ところがその頃には、自身の父をはじめに、越後将兵の数多の血で勝ち取ったはずの越中は、椎名や神保の遺児たちが再び割拠。
あっという間に長尾家の手を離れ、苦労は無に帰したのである。
「その越中と同じ事が、信濃で起きるだけです」
良之の言葉は、景虎にとっては目を背けたい事実である。
目を背けたいという事は、自身にとって間違いの無い不得手な課題だ、という事を受け入れるだけの器量が、景虎にはある。
良之の言う通り、越後も中部から北部と、本拠地の春日山城から離れれば離れるだけ、長尾を軽侮する風潮が強くなる。
この時期。
長尾家が掴んでいない情報がある。良之は当然知っている。
前年、今川義元の娘が武田の嫡男、義信に嫁いでいる。
そして今年は、武田晴信の娘が、北条氏政の正室として嫁いでいる。
その上で、北条氏康の娘が今川氏真に嫁ぐことが密約されている。
甲相駿・三国同盟である。
長尾景虎が信濃に侵攻しようとした時、良之が言下に「勝てやしない」と言い切ることが出来た理由は、この情報を知っていたからに他ならない。
武田は、後顧の憂いなしに全軍で長尾に当たることが出来るし、それだけで無く、長尾への忠誠心に薄い揚北衆、つまり北越後の国人層を煽って反乱を起こさせることも出来るし、すでに晴信の調略は、柿崎、大熊、北条といった本来では長尾家の中核を為している越後衆にも伸びている。
良之の目から見ても、この時代最高の武将は武田晴信だと思われた。
晴信は、誰よりも劣悪な甲斐という地盤から起こり、すでに信濃一国を征服している。
二度の大敗戦で戦の本質を学び、さらに謀略・調略によって敵を弱体化させる手腕を学び、三国同盟によって背後を政治的に固める事を覚えた。
信濃との戦いによって、大軍を効率よく弾力的に運用することさえもマスターしている。
さらに言うと、一度支配した土地は、後年まできっちりと管理しきっている。
これは、面従腹背を繰り返した伊那衆・諏訪衆を掌握する課程で学んだのであろう。
一方で晴信は、内政にも優れた手腕を発揮した。
金山を開かせ、治水を行い、さらにこの頃からは長尾の信州への野心を察して、棒道と呼ばれる諏訪までの軍用道を開削し始めている。切り通し工法によるこの軍用道は、甲斐から信濃への防衛戦の移動を、わずか数日で実現させるだろう。
そして山の尾根尾根に砦を築き、狼煙によってリレー式に変事を躑躅ヶ崎館に伝送するシステムも構築しはじめている。
一つ一つの戦に関しては、長尾景虎も武田晴信に匹敵するだろうと良之は見ている。
特に、寡兵であっても10倍の戦力に圧勝するという景虎の用兵の巧みさは、自身の側室であるお虎から何度も聞かされていた。
だが、越中や揚北すら治められなかった長尾家が、この先信濃を狙おうと、上野を狙おうと、治められるはずがない。
そのあたりが、武田や北条にあって長尾に無い能力だと良之は分析していた。




