第9話 チョコの余韻は終わらない。
薄暗い部屋の中。
テーブルの銀紙が、かさりと一度だけ鳴った。
今は何時だ?
既に午前0時を回っていた。
膝枕のまま寝落ちしていたらしい。
俺の胸の上で、鈴音の前髪が呼吸のリズムで揺れている。
舌の裏に、まだチョコの余韻が残っている。
昨夜、俺は「愛してる」を口にした。
罪悪感と、同じくらいの達成感。
……チョコのせいだって言い訳しても、たぶん違う。ポケットに手を入れると、メモが指先に触れた。
俺たちの昨日はまだ終わっていない。
「うーん。むにゃ」
鈴音は左腕を動かすと、寝言をいった。
左手がずっと何かを探しているようなので、握った。すると、鈴音は笑顔になった。
どんな夢を見ているのだろう。
鈴音の寝顔を見るのは久しぶりだ。
子供の頃以来かも。
俺は頭を持ち上げて、覗き込んでみた。
久しぶりの鈴音の寝顔は、思ったよりも幼くて、とても穏やかだった。
——瑞々しい唇に吸い込まれそうになる。
(キス、しちゃおうかな)
俺はそっと顔を近づけた。
いや、でも。
するなら、ちゃんと覚えていて欲しい。
触れるか触れないかの距離でためらっていると、鈴音がモゾモゾと動き出した。
目が開きそうだ。
さっきは色々あったし、気まずい。
顔を合わせるのが照れ臭くて、俺は寝たふりをすることにした。
ギュッと目をつむって、鈴音に背を向ける。
「んー、んっ」
鈴音が身体を起こした。
あぶなかった。
もう少しで、キス顔でご対面になるところだった。
背を向けているから、鈴音の様子は分からない。振り向きたいところだが、目の前に鈴音の顔があったら、なんというか、困る。
その後、鈴音はしばらく動かなかった。俺から離れると、すぐに俺の右肩の辺りが重みで沈み込んだ。こめかみにパラリと髪の毛が落ちてきて、チョコの甘い匂いがした。
どうやら、鈴音は。
俺の上で四つん這いになっているらしい。
俺はギュッと目を瞑った。
鈴音の動きに合わせて、髪の毛がスルスルと左の頬を滑り落ちていく。
鈴音はいま、何をしているんだ?
耳のあたりに鈴音の腕が触れ、ググッとあたりが沈み込むと、今度は、顔のすぐ近くに息が当たった。少しだけ日本酒っぽい大人の香り。
「ねぇ。兄貴。起きてる? ねぇ、ねぇ」
鈴音の声が近い。
「寝てるよね?」
鈴音は俺の返事がないことを確認すると、1人で話し始めた。
「あのね、好きだよ」
鈴音が俺の頬を撫でた。
「寝てるなら、言ってもいいよね」
鈴音は俺の耳元に口を近づけると、囁いた。
「兄貴、好き。お兄ちゃん、大好き。悠真、すっごいすっごい好き」
独り言は続く。
「ねぇ。アンタは気が引けてるかもだけど、わたしはお兄ちゃんだったときも、男の子として好きになってたんだよ?」
え。コイツ。
本気のブラコンなの?
「だからね。わたしは、アンタのこと。2倍好きなの。ねぇ、聞いてる? って、聞かれてたら、わたし恥ずかしくて死ぬかも」
この鈴音の発言からすると。
俺が起きてるとは夢にも思っていないはずだ。
もはや、いまさら目を開けることは許されない。このまま寝たフリで切り抜けるしかない。
鈴音は言葉を続けた。
「でもね。アンタと血が繋がってないって分かって寂しいけれど。アンタは前よりも大切にしてくれるし。……わたし幸せだよ。血が繋がってないから、お嫁さんにもなれるし」
「あーあ。悠真が寝ちゃってつまんない。あっ」
「イタズラしちゃお。寝てるのが悪いし、いいよね? フフッ。キスしちゃおうか」
こいつ、俺が寝てると思ってやりたい放題だな。俺のも一応は、大切なファーストキスなんだが……。
ギシッ。
ソファーが軋む。
「…………」
しかし、予想に反して、鈴音は何もしてこなかった。そして、俺が気を抜いた頃。
チュッ。
頬にキスされた。
「うん。やっぱ、良くないよね。寝てる間に勝手にとか」
さすが真面目っ子だ。
「あとね。ごめんね。わたし、あまり可愛くなくて。もっと可愛い女の子だったら、悠真、きっと、好きって言ってくれたよね」
これは、きっと鈴音の本音だ。
俺と2人だと美少女とか言ってるけれど、他の人といる時に、鈴音が自分から容姿の話をしているのを見たことがない。
前にどこかで「本当の美人は、案外、自分の容姿に自信を持っていない」と聞いたことがある。
鈴音もそうなのかも知れない。
自信がないのなら、もっと可愛いって伝えてあげれば良かった。
「ま、悠真はメンクイじゃなさそうだし、優しいから大丈夫かっ」
兄は、実はいつも女の子の顔ばかり見てます。ゴメンナサイ。
鈴音が体勢を変えた。
ソファーがまた軋む。
首に熱を帯びた吐息が当たる。なにやら鈴音は、俺の首筋に鼻をくっつけているらしい。
「はぁ……この匂い、すごく好き。いつも嗅げないから、これくらいいいよね?」
鈴音は少し下に移動した。
スン……。
今度は脇の辺りに、鈴音の顎が当たった。
「やばっ。なんか興奮するかも……」
この人、匂いフェチなの?
キスよりよっぽど恥ずかしいんだけど。
「前に蛍が、好きな人からは良い匂いがするって言ってたけれど、本当だ」
鈴音が動きを止めた。
「…………」
(沈黙が怖い。何するつもりなんだよ)
しばらく間があって、頬をペシペシされた。
「おーい。起きてますかぁ?」
鈴音は俺の耳元で言った。
俺は寝たフリを続けた。
いまさら、起きられない。
「悠真、わたしじゃ興奮しないって言ってたけど、ほんとなのかな」
鈴音の重心が、俺の下半身の方に移動した。
まさか……。
確かめるって、目視で確認するのか?!
鈴音の息遣いが荒い。
カチャカチャ。
鈴音が俺のベルトを外そうとしている。
鈴音は本気で脱がす気だ。
これは、気まずくなるの覚悟で起きるしかないかも。
ギシ……。
鈴音の動きが止まった。
「やっぱ、こんなの良くないよね?」
よかった。
思いとどまってくれたのかな。
「でも、今しかできないし。不公平は良くないよね」
「よいしょ」
俺の顔に、ふわっと布が落ちてきた。
「わたしも脱がすし、これでおあいこ。ふふっ。寝てて残念だったね」
ま、ま、まさか。
これは鈴音のパンツか?
うちの妹は、無駄に律儀すぎる。
(まじかよ。ってことは、今の鈴音はノーパンなんだろ?)
これでは、ますます起きられないではないか。
「あっ、心臓の音?」
この猛り狂う鼓動が聞こえてしまったらしい。
鈴音は俺の胸に耳をつけた。
「すごい。ドキドキしてる。悠真もわたしにドキドキしてくれてる。すっごい嬉しい」
甘くて小さくて、幸せそうな声。
鈴音は、しばらくそのまま動かなかった。
(もう要件は済んだよね? そろそろ立ち上がろうか?)
だが、俺の淡い期待は裏切られた。
「やばい。わたし切ないよ、我慢できない。うまくできるかな」
(だから、なにをー!?)
鈴音は俺の太ももあたりに跨ると、パンツに手をかけた。
こんなに盛り上がっちゃってて。
見られたら、俺がおかしくなりそうだ。
もしかしたら、俺は。
今日、初体験するのか?
しかも、相手は妹。
いや、ダメだ。
これでは、俺が鈴音を傷つけてしまう。
その時。
ガチャガチャ。
玄関のドアノブが動く音がした。
ピンポーン。
インターホンだ。
(誰か来たのか?)
「えっ……。どうしよ」
鈴音が立ち上がった。
ガチャガチャと鍵穴に鍵を差し込むような音がする。
(やばい。親だ。予定より早い)
すると、鈴音は俺の顔のパンツを掴んで回収した。
「兄貴、ごめん。健闘を祈る! それと、勝手にチョコ食べちゃったから証拠隠滅もよろしく!」
鈴音はそう言うと、階段を駆け上がって行った。
まじか、あいつ。
自分だけ逃げやがった。
玄関ドアが開く音がする。
俺も逃げないと。寝てる場合じゃない。
俺はチョコの包み紙を集めて箱ごとポケットに突っ込んだ。そして、空いた手でベルトを押さえ、ズボンがずり落ちないように立ち上がった。
「2人ともいるかー? 予定が早まってな。お土産買ってきたぞ」
そう言いながら、両親がリビングに入ってきた。
父さんと目が合った。
「お前、何してるの?」
父さんは俺のズボンを見て言った。
「い、いや。これは……」
(なんて言い訳すればいいんだよっ。まじで終わったわ)
すると、母さんがポンッと手を叩いた。
「あっ、もしかして食べ過ぎて苦しくなっちゃったんでしょう? お父さんだって、よくご飯の後にベルト外してるじゃない」
「そ、そうか。悠真、風邪をひくぞ?」
父さんはそう言うと、自分達の部屋に戻って行った。母さんもウィンクすると、父さんの後を追って行った。
ウィンクの意味が気になるが、ほんと助かった。母さん、ありがとう。
それにしても鈴音のヤツめ。
おぼえてろよ。
(はぁ。鈴音のせいで散々な目に遭った)
俺は自分の部屋に戻って、チョコの箱を見てみた。すると、箱の裏に細かい注意書きがあった。
『本品は日本酒の風味を活かしつつ、アルコールを完全に除去しています。お子様にも美味しく召し上がっていただける逸品です』
えっ?
このチョコ、アルコールは入ってないの?
俺も鈴音も雰囲気に酔ってただけ?
……吊り橋効果おそるべし。
つまり、さっきの俺たちの出来事は、すべてシラフ。何ひとつチョコのせいにはできないということだ。
俺は急激に顔が熱くなるのを感じた。
この羞恥心を共有したい。
俺は鈴音の部屋側の壁をノックした。
「おい、変態」
声をかけてみる。
「…………」
鈴音の部屋からは何の反応もなかった。
まぁ、いい。
きっと今頃は、鈴音も悶絶していることだろう。
どうやら、さっきの鈴音分析にもう一つ加える必要がある。俺の妹は、ちょっとだけ変態らしい。
——翌朝の脱衣所。
鈴音が俺のパーカーの袖をつまんで、鼻先を寄せる。
「……この匂い、好き」
鼓動が一瞬だけ、跳ねた。




