第34話 星の道標。
「おにいちゃん」
俺は右手で木の根に手を引っ掛けながら、斜面を下りる。数メートルだが、気を抜いたら谷底に真っ逆さまだ。
右足に体重をかける。
パラパラと小石が落ちていく。
大丈夫。靴底はちゃんと斜面に噛んでいる。
あ、と……少し。
「悠真、無理しないで。わたし、大丈夫だから」
俺を見上げて、そう言った。
しかし、鈴音は左の足首を押さえていた。
「全然、大丈夫じゃないだろ。そこで待ってろ」
ズズッと音がして、体が下にずれる。
あと少しなのに、届かない。
(くそ、厳しいか?)
うまく体重を支えられない。
利き足がすくむ。
『怖いから止めるんじゃない。封印じゃなく、選択。——それが強さだよ』
更紗さんの言葉が頭をよぎった。
(そうか、俺はまたビビってるのか)
俺は左足の母指球を1センチほど内側にずらすと、左足に全部の体重をかけた。
飛び込め。
自分を信じろ。
左足にググッという踏み応え。
いまだ。
俺は右足を大きく踏み出した。
——なんとか鈴音のところまで行くことができた。
「おにいちゃん」
鈴音の肩を抱きしめた。
鈴音の肩は、小さくて冷たかった。
「心配させるなよ」
「ごめんなさい。ピアスを落としちゃって」
石垣に座ってピアスに触れた時に、落としてしまったらしい。
「友達との大切なものなんだっけ?」
「違うよ。アンタがくれたんじゃん」
鈴音は口を尖らせた。
俺はピアスなんてあげたことないんだけど。
いや、それよりも。
今はここから出ることだ。
俺は崖の上を見上げた。
数メートルだが、鈴音と2人で登るのは厳しそうだ。
空の色が、紺から黒になりかけている。
もうすぐ、何も見えなくなりそうだ。
どこからか、動物の鳴き声が聞こえた。
「怖い」
鈴音が、俺の胸に顔を押し付けた。
「大丈夫だから」
そうは言ったものの、どうしたものか。
カラスの鳴き声がどんどん大きくなってきた。山の空気感が変わった。
もう、山の主役は人間ではない。
——獣の匂いだ。
パキッ。
暗がりから、小枝が折れる音がした。
「熊、でるかな」
鈴音が小声で言った。
ひゅお。
谷から冷たく湿った風が吹いてきた。
山の天気は変わりやすいというし、雨が降るのかもしれない。
冷えと獣の気配が怖い。
ここに長居はできない。
……何とかしないと。
「あのね」
鈴音が何か言った。
「どうした?」
「わたし、悠真のこと大好きだから。あのピアス。悠真が子供の頃、誕生日にくれた石なの。……覚えてない?」
確かに、あの青色には見覚えがある。
「小学校の頃に、箱に入れて渡したやつか?」
鈴音は頷いた。
小6の時、家族旅行で奈良に行った。
あの石は、その時に川で拾った。
青色の石を拾えたのは俺だけで。
鈴音はずっと欲しがっていた。
それで、誕生日にあげたのだ。
「でもさ、俺が渡したのはただの石ころだったよ?」
鈴音は首を横に振った。
「あの石、詳しい人に聞いたらサファイアなんだって。だから、加工してもらって、ピアスにしたの」
「それで一つしかなかったのか?」
鈴音は頷いた。
「だって、アンタとずっとお話できなかったから、寂しくて。いつも身につけていられるようにしてもらったの」
鈴音が頻繁に耳たぶに触るのも、もしかして。
「今は2人で話せるよ?」
俺の言葉に、鈴音は小さく頷いた。
「でもね。今でもわたしのお守りなの。星だから。2人の道標だから」
そんなに大切にしていてくれたのか。
ずっと話せなくて辛かったのは、俺だけではないらしい。
鈴音は胸に手を当てると、言葉を続けた。
「あのさ。アンタの気持ち聞かせてくれない? もしかしたら、ここで死んじゃうかもだし。ちゃんと聞いておきたいの」
気温が下がってきている。
11月上旬といっても、夜の山は冷える。
獣の鳴き声もしているし、俺たちはもしかしたら、本当に帰れないのかも知れない。
鈴音をギュッと抱きしめた。
「命にかえても守るから。あのさ、俺もお前のこと……」
んっ?
足に何かを踏むような感触があった。
覗き込むと、青い光が瞬いた。
……光?
「どしたの? 悠真」
「しっ」
俺は鈴音の口を押さえた。
誰かの声だ。
しかし、崖上に人影はなかった。
「悠真。下の方に誰かいる」
鈴音が言った。
俺たちは息を潜めた。
光の円が山の斜面を這うように上がり、俺たちの影をゆらりと伸ばした。崖下に目を凝らすと、懐中電灯を持った人がこちらを照らしていた。
「誰かいるのかー?」
人影が叫んだ。
「ここにいます。崖から落ちてしまって!」
俺は叫んだ。
「ここまで来れそうか?」
崖下から、また声が聞こえた。
崖下には小道が見えている。さっきは暗くて気づかなかったらしい。少し急だが笹斜面が4、5メートルか。上がることは無理でも下りることならできそうだ。
「鈴音、いけるか?」
鈴音は頷いた。
あっ、そういえば。
俺は足元の枯葉をかき分けた。
すると、星型のピアスが出てきた。
(さっきはこれが光ったのか)
俺はピアスをポケットに入れた。
「少しずつ。そう。体重をつかって」
男性が指示してくれた。
俺たちは木の根や笹藪をつかみ、ずり落ちるように斜面を下っていった。
「無事で良かった」
声の主は、地元のレンジャーさんだった。
「ありがとうございます」
俺と鈴音はお礼を言った。
「さっき小学生から通報があってね。係員経由で我々に連絡が回ってきたんだ」
小学生って、もしかして、あのクソガキか?
「はい」
「巡視道は一般非公開だけど、臨時で開けてもらってね。念の為に見回りしていたんだ。よかったよ。大掛かりな捜索にならなくて」
レンジャーさんの話では、このまま歩いて1号路に合流できるということだった。
「いつっ」
鈴音が足首を押さえた。
靴下の隙間から見てみると、足首が赤くなっていた。
レンジャーさんが言った。
「これは……折れてるかも。歩くのは厳しいね。僕の背中に乗る?」
鈴音は首をふるふると横にふって、俺のことを指差した。
「困ったな。彼氏さん背負える?」
「あ、はい。なんとか」
荷物をレンジャーさんに持ってもらって、俺は鈴音を背負った。
「おっとと」
ふくらはぎがつりそうだ。
疲労のせいか。自分の足がいつもより、ずっと重い。
「大丈夫?」
鈴音は不安そうだ。
真っ暗な山道だ。
心細くても無理はない。
「あぁ」
俺は頷いた。
そこからケーブルカーの駅まで、レンジャーさんが付き添ってくれることになった。
ザッ、ザッという足音に合わせて、背中に鈴音の体温が伝わる。
ケーブルカーの駅でレンジャーさんが事情を説明してくれると、特別にケーブルカーを動かしてくれることになった。
「ありがとうございました!」
俺たちがお礼をいうと、レンジャーさんは手を振って去って行った。
ガタンガタン。
ケーブルカーに2人きり。
「あっ、そうだ」
俺はポケットに手を入れた。
——道標を返さないと。
鈴音がもう迷子にならないように。




