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義理の関係だと分かったら、妹がガチの恋愛脳になった。〜妹という仮面を外した時、彼女は最強のヒロインになった  作者: 白井 緒望


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第30話 右足で打ち抜け! 止めずに、飛べ。


 俺には憧れの人がいた。

 

 強く賢くかっこいい。

 しっかり自分の正義を持っていて、誰にも屈しない。


 国体で名を馳せ、五輪でもメダルが期待された——当時『彼』だった人は、ある日突然、引退した。


 病気だの失踪だのと憶測は飛び交ったが、俺はただ、最初に空手の楽しさを教えてくれたその人に、憧れ続けていた。


 

 ********



 ——西園寺更紗。

 斉藤の『ねーちゃん』にして、道場最強。



 更紗さんたちと遭遇した数時間後。

 ここは、斉藤家の道場。


 俺は、更紗さんと組み手稽古をすることになった。

 


 久しぶりの道場は、畳からほんの少しだけ汗の匂いがした。俺は、素足で一歩、二歩、踏み込みの音と感触を確かめる。そのたびに、二年前の感覚が、足の甲に亡霊のように戻ってくる。


 「ルールの確認」

 更紗さんは黒帯を締め直すと、俺の正面に立った。


 「顔面は軽接触まで。掴みは一瞬だけ。崩しは足払いと軸を切る崩しまで。怖くなったら無理はしない。いいわね、悠真」


 「あっ、更紗さん。フルコンタクトはなしで。寸止めで」


 「優しいのね」 

 更紗さんは微笑んだ。


 それは違う。

 俺に手加減をする余裕がないからだ。


 俺は頷いた。


 自分の呼吸が身体に絡みつく。重い。

 喉は渇いているはずなのに、血液は身体の中を駆け巡る感覚。


 懐かしい。


 俺は小さく息を吐いた。


 ——始め。



 それは刹那の呼吸だった。突きを出すふりで右足を送った瞬間、更紗さんの軸足がふっと消える。


 「えっ」


 更紗さんは俺の手首をさらりと払って、前足の甲が俺のくるぶしを、しなやかに撫でた。


 足払い。


 俺は階段を踏み外したみたいに、視界が斜めになった。


 でも、落ちない。

 背中に柔らかい抵抗が入った。更紗さんの前腕が俺の後頭部を支えていた。


 「倒すときは、落とすというよりは、空気一枚分を残して置くように。ふふっ。思ったよりも動けるじゃない。腕は落ちてないのね」


 肩を叩かれた。

 俺の心拍は、少しだけ速度を落とした。


 それは、こっちの台詞だ。

 更紗さんの袖を掴んだ瞬間に分かった。


 さすが4段だ。

 俺の錆びついた黒帯とは訳が違う。


 

 「続けて」

 斉藤の合図で、また更紗さんの正面に立った。


 足を入れ替える。


 前足の外側を軽く触るイメージで。俺の足が彼女の前足に触れた瞬間、視界から彼女が消えた。


 体さばきだ。

 半歩で死角をとられた。


 「俯きすぎ。怖いの? だから自分の良さが見えないの」


 耳のすぐそばで更紗さんの声。

 さらりとした、髪の毛の感覚。 


 次の瞬間、肩口に柔らかい重みがあった。


 ——俺の体軸を崩しにくる。


 体落としのような崩し技。

 更紗さんの得意技だ。


 けれど、彼女はかけなかった。


 「悠真が辛い時にそばにいれなかった。ごめん」


 ——俺が弱いから、更紗さんに謝らせてしまった。


 

 俺は左足を地面に叩きつけ、右足を畳から抜いた。


 膝を畳み、腰をひねる。

 支え足の左足裏がきゅっと畳に食い込んだ。視界の端が霞む。


 (ここだ)


 膝のスナップに腰の回転を重ね、足背で弧を描く。右上段回し蹴り。


 風が鳴って、更紗さんの前髪が一筋、ふわりと持ち上がった。


 ——止めろ。


 足が空中で凍てついた。

 彼女の頬まであと指二本。


 足首の軌道がわずかにぶれ、脳のどこかで、骨の割れる音の記憶が蘇る。


 右上段回し蹴り。


 俺の得意技。

 人を殺しかけた忌むべき技。


 息が胸の奥でつかえ、肺が熱い。

 俺は足の軌道をそのまま保ったまま、膝だけをわずかに引き、寸止めた。


 更紗さんの瞳が近い。 

 逃げない。


 俺の蹴りを、受け止める気だ。


 「止めるな!」

 更紗さんの言葉は、短く、そして力強かった。


 でも、俺にはできなかった。


 更紗さんの指先が、そっと俺の足首に触れて、まるで着地点を教えるみたいに下ろしてくれた。


 畳に右足が戻る。


 一瞬遅れて、更紗さんの正拳突きが、俺の心臓紙一重の位置で止まった。


 「はぁはぁ。すいません、俺。寸止めっていったのに」


 俺がそう言うと、更紗さんは微笑んだ。


 「いいの。君が何万回も繰り返してきた蹴りを、右足はまだ覚えているってことよ。そのまま封印するなんて、右足が可哀想」


 「でも、俺……」


 「悠真、インパクトの直前に軸足がぶれたでしょ? 君がやるべきは、蹴りを恐れることじゃない」


 更紗さんは、少しだけ背伸びをして、俺の頭を撫でてくれた。


 「蹴りをコントロールしなさい」


 更紗さんはしゃがむと、俺の軸足の母趾球を指で押し、1センチだけ内へ寄せた。


 「ここ。怖いから止めるんじゃない。狙えるから外すの。封印じゃなく、選択。——それが強さだよ」


 「悠真、『正義なき力は暴力、力なき正義は無力』この言葉。覚えてる?」

 そう言葉を結んで、更紗さんはウィンクした。


 俺は頷いた。

 覚えている。最初に教わった言葉だ。



 あぁ、やっぱりこの人は。

 姿が変わっても、何も変わっていない。


 俺がずっと憧れていた、あの人だ。 



 更紗さんはパンッと手を叩いた。


 「じゃ、頑張ったご褒美にご飯に行こっか」


 更紗さんは帯を締め直して、何気なく付け加える。


 「ね、悠真。今日みたいに怖くなったら、またここに来なさい。君はもう1人で全部を止めなくていいから」


 俺は息を吐いて、軽く会釈した。

 畳から離れる足裏は、さっきより少しだけ軽かった。


 更紗さんは笑顔になった。

 さっきまでの鋭い目つきとは別人。綺麗なお姉さんだ。


 「鈴音ちゃんもお待たせ」


 鈴音は一拍おいてから、ぱぁっと顔を明るくした。


 「更紗ちゃん……かっこ……かわいい……。えっと、その、映画のワンシーンみたい!」


 更紗さんの視線が、ほんの一瞬だけ俺の左手の指輪と鈴音の指輪をなぞる。


 そして、何かの合図のように、小さく頷いた。



 鈴音は俺の腕に絡みついてきた。


 「ね、悠真。行こ。最強のお姉さんに奢ってもらえるんだよ?」


 「あぁ、そうだな」


 更紗さんは髪を一つにまとめて、控え室の方に向かった。俺の息は上がりっぱなしなのに、更紗さんの呼吸は、もう整っている。


 やっぱり、この人はかっこいい。


 更紗さんが言っていたのは、体の強さだけじゃない。目を背けずに人生を選ぶ強さのことだろう。


 俺の中で、止まった時が再び動きだすのを感じた。



 「あっ、2人は食べたいものある?」

 更紗さんは振り返った。


 「え、ねーちゃん、俺、焼肉がいい!」

 斉藤がそう言うと、更紗さんに足で追い払われた。


 「翔太! お前、さっき鈴音ちゃんに対して失言したらしいな。わたしのチキンも全部食いやがって。お前に奢る理由はない」


 更紗さんは俺の方を向いて笑顔になった。


 「さぁ、こんなアホは放置で、3人で行こう」


 斉藤が更紗さんの足にしがみついている。


 ——西園寺更紗。

 斉藤の『ねーちゃん』にして、俺のヒーローだ。




 ……焼肉屋の席で。


 更紗さんが俺の箸先を整えてくれた瞬間、鈴音の指がテーブルの下でぴくりと止まった。

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