第30話 右足で打ち抜け! 止めずに、飛べ。
俺には憧れの人がいた。
強く賢くかっこいい。
しっかり自分の正義を持っていて、誰にも屈しない。
国体で名を馳せ、五輪でもメダルが期待された——当時『彼』だった人は、ある日突然、引退した。
病気だの失踪だのと憶測は飛び交ったが、俺はただ、最初に空手の楽しさを教えてくれたその人に、憧れ続けていた。
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——西園寺更紗。
斉藤の『ねーちゃん』にして、道場最強。
更紗さんたちと遭遇した数時間後。
ここは、斉藤家の道場。
俺は、更紗さんと組み手稽古をすることになった。
久しぶりの道場は、畳からほんの少しだけ汗の匂いがした。俺は、素足で一歩、二歩、踏み込みの音と感触を確かめる。そのたびに、二年前の感覚が、足の甲に亡霊のように戻ってくる。
「ルールの確認」
更紗さんは黒帯を締め直すと、俺の正面に立った。
「顔面は軽接触まで。掴みは一瞬だけ。崩しは足払いと軸を切る崩しまで。怖くなったら無理はしない。いいわね、悠真」
「あっ、更紗さん。フルコンタクトはなしで。寸止めで」
「優しいのね」
更紗さんは微笑んだ。
それは違う。
俺に手加減をする余裕がないからだ。
俺は頷いた。
自分の呼吸が身体に絡みつく。重い。
喉は渇いているはずなのに、血液は身体の中を駆け巡る感覚。
懐かしい。
俺は小さく息を吐いた。
——始め。
それは刹那の呼吸だった。突きを出すふりで右足を送った瞬間、更紗さんの軸足がふっと消える。
「えっ」
更紗さんは俺の手首をさらりと払って、前足の甲が俺のくるぶしを、しなやかに撫でた。
足払い。
俺は階段を踏み外したみたいに、視界が斜めになった。
でも、落ちない。
背中に柔らかい抵抗が入った。更紗さんの前腕が俺の後頭部を支えていた。
「倒すときは、落とすというよりは、空気一枚分を残して置くように。ふふっ。思ったよりも動けるじゃない。腕は落ちてないのね」
肩を叩かれた。
俺の心拍は、少しだけ速度を落とした。
それは、こっちの台詞だ。
更紗さんの袖を掴んだ瞬間に分かった。
さすが4段だ。
俺の錆びついた黒帯とは訳が違う。
「続けて」
斉藤の合図で、また更紗さんの正面に立った。
足を入れ替える。
前足の外側を軽く触るイメージで。俺の足が彼女の前足に触れた瞬間、視界から彼女が消えた。
体さばきだ。
半歩で死角をとられた。
「俯きすぎ。怖いの? だから自分の良さが見えないの」
耳のすぐそばで更紗さんの声。
さらりとした、髪の毛の感覚。
次の瞬間、肩口に柔らかい重みがあった。
——俺の体軸を崩しにくる。
体落としのような崩し技。
更紗さんの得意技だ。
けれど、彼女はかけなかった。
「悠真が辛い時にそばにいれなかった。ごめん」
——俺が弱いから、更紗さんに謝らせてしまった。
俺は左足を地面に叩きつけ、右足を畳から抜いた。
膝を畳み、腰をひねる。
支え足の左足裏がきゅっと畳に食い込んだ。視界の端が霞む。
(ここだ)
膝のスナップに腰の回転を重ね、足背で弧を描く。右上段回し蹴り。
風が鳴って、更紗さんの前髪が一筋、ふわりと持ち上がった。
——止めろ。
足が空中で凍てついた。
彼女の頬まであと指二本。
足首の軌道がわずかにぶれ、脳のどこかで、骨の割れる音の記憶が蘇る。
右上段回し蹴り。
俺の得意技。
人を殺しかけた忌むべき技。
息が胸の奥でつかえ、肺が熱い。
俺は足の軌道をそのまま保ったまま、膝だけをわずかに引き、寸止めた。
更紗さんの瞳が近い。
逃げない。
俺の蹴りを、受け止める気だ。
「止めるな!」
更紗さんの言葉は、短く、そして力強かった。
でも、俺にはできなかった。
更紗さんの指先が、そっと俺の足首に触れて、まるで着地点を教えるみたいに下ろしてくれた。
畳に右足が戻る。
一瞬遅れて、更紗さんの正拳突きが、俺の心臓紙一重の位置で止まった。
「はぁはぁ。すいません、俺。寸止めっていったのに」
俺がそう言うと、更紗さんは微笑んだ。
「いいの。君が何万回も繰り返してきた蹴りを、右足はまだ覚えているってことよ。そのまま封印するなんて、右足が可哀想」
「でも、俺……」
「悠真、インパクトの直前に軸足がぶれたでしょ? 君がやるべきは、蹴りを恐れることじゃない」
更紗さんは、少しだけ背伸びをして、俺の頭を撫でてくれた。
「蹴りをコントロールしなさい」
更紗さんはしゃがむと、俺の軸足の母趾球を指で押し、1センチだけ内へ寄せた。
「ここ。怖いから止めるんじゃない。狙えるから外すの。封印じゃなく、選択。——それが強さだよ」
「悠真、『正義なき力は暴力、力なき正義は無力』この言葉。覚えてる?」
そう言葉を結んで、更紗さんはウィンクした。
俺は頷いた。
覚えている。最初に教わった言葉だ。
あぁ、やっぱりこの人は。
姿が変わっても、何も変わっていない。
俺がずっと憧れていた、あの人だ。
更紗さんはパンッと手を叩いた。
「じゃ、頑張ったご褒美にご飯に行こっか」
更紗さんは帯を締め直して、何気なく付け加える。
「ね、悠真。今日みたいに怖くなったら、またここに来なさい。君はもう1人で全部を止めなくていいから」
俺は息を吐いて、軽く会釈した。
畳から離れる足裏は、さっきより少しだけ軽かった。
更紗さんは笑顔になった。
さっきまでの鋭い目つきとは別人。綺麗なお姉さんだ。
「鈴音ちゃんもお待たせ」
鈴音は一拍おいてから、ぱぁっと顔を明るくした。
「更紗ちゃん……かっこ……かわいい……。えっと、その、映画のワンシーンみたい!」
更紗さんの視線が、ほんの一瞬だけ俺の左手の指輪と鈴音の指輪をなぞる。
そして、何かの合図のように、小さく頷いた。
鈴音は俺の腕に絡みついてきた。
「ね、悠真。行こ。最強のお姉さんに奢ってもらえるんだよ?」
「あぁ、そうだな」
更紗さんは髪を一つにまとめて、控え室の方に向かった。俺の息は上がりっぱなしなのに、更紗さんの呼吸は、もう整っている。
やっぱり、この人はかっこいい。
更紗さんが言っていたのは、体の強さだけじゃない。目を背けずに人生を選ぶ強さのことだろう。
俺の中で、止まった時が再び動きだすのを感じた。
「あっ、2人は食べたいものある?」
更紗さんは振り返った。
「え、ねーちゃん、俺、焼肉がいい!」
斉藤がそう言うと、更紗さんに足で追い払われた。
「翔太! お前、さっき鈴音ちゃんに対して失言したらしいな。わたしのチキンも全部食いやがって。お前に奢る理由はない」
更紗さんは俺の方を向いて笑顔になった。
「さぁ、こんなアホは放置で、3人で行こう」
斉藤が更紗さんの足にしがみついている。
——西園寺更紗。
斉藤の『ねーちゃん』にして、俺のヒーローだ。
……焼肉屋の席で。
更紗さんが俺の箸先を整えてくれた瞬間、鈴音の指がテーブルの下でぴくりと止まった。




