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悪魔の秘密結社とも言うべき存在のトップが日本を助けようとしたキッカケはとある日本人外交官だった。

1948年初頭。

とある男が日本に来日した。

その男は11年後、アメリカ国務次官となる者である。

彼が来日した目的はとある人物を探すためであった。


外務省にて「センポ・スギハラ」という男がいないか問い合わせるもなぜか門前払いされてしまう。


男の名はクラレンス(C)・ダグラス・ディロン。

1948年時点でディロン・リードのCEOにして元海軍将校でありながら米国陸軍に対し、支配権にも近い権力を持つ男。


彼が「センポ・スギハラ」という男を捜すのには理由があった。

実はディロン・リードの創設に関わった祖父はポーランド系ユダヤ人であり、ポーランド在住時の名をサム・ラポウスキーという。


裕福な暮らしを求めて米国に渡ったサム・ラポウスキーは永住権を獲得すると、サミュエル・ディロンと名を改め、ディロン・リードという会社を興す。


そして父と自分の代になってディロンリードカンパニーとして再出発し、現在はCEOの立場にある。

そんな彼は父と共に熱心なユダヤ教徒だったのだが、米国企業連合体へ参加するにあたり、ロビー活動を開始しようとしていたところに非常に興味深い話を聞き、実態を知ろうと来日してきたのであった。


その者は祖父と同じく祖国をポーランドとするのだが、米国に難民として逃れてきたのは最近の話だという。


彼はポーランドにおけるドイツの侵攻と、そこから避難した先でのソビエトによる略奪や陵辱について話した。


そして驚くべきことに、彼は「東欧の地でセンポ・スギハラという日本人に救われ、現在は米国にいるのだ」と主張した。


その話を聞いて自身の持つ人脈を用いて詳細を調べると、何と日本にまだ難民という形でユダヤ人がいるというではないか。


「ドイツと条約や協定を結んだ日本国においてそんな事があるのか?」

「そもそも日本から彼らはどうやって敵対国であるアメリカに来たのだ?」などとと内心否定的ではあったようだが、その件について調べてみようと思ったのだろう。


残念ながら「センポ・スギハラ」という人物に合うことは出来なかったが、日本にて極東より避難してきたユダヤ人と合うことが出来た。


その者からどういった事情を伺ったかは不明だが、この日を境にして、ディロン・リードはその悪魔の手を差し伸べ、凄まじい勢いで緩和政策が加速していく。


センポ・スギハラ。

真の名を「杉原千畝」


第二次大戦の時代にポーランドから流れてきたポーランド系ユダヤ人1万人にビザを発行し、その逃避行を手助けした日本人外交官である。


彼の詳細については他で知ってもらうとして、重要なのはダグラス・ディロンが日本国の外務省に対し、センポ・スギハラ名義で人物照会を行っていたのは全く知られていない事実である。


結果的に門前払いされてしまったようだが、少なくとも彼にとっては確信できるだけの情報は得られたらしく、もう1つの祖国ともいうべき国の同志を助けた人物には多大なる関心をもっていたことが伺える。


この時点ではウィリアム・ドレイパーの話す再軍備が必要となるストーリーも確たる証拠はなく、商売人としては分の悪い賭けであり、無駄骨となる可能性も高かった。


そんな中で自らの背中を押すために、杉原千畝という人物が実在するのか、大戦時において日本人らしい正義感でもって行動した者がいるのか、そんなことをダグラス・ディロンは調べようとし、そして日本にて何かを得た彼は自身だけが唯一可能な力を持って日本の占領政策を緩和させる方向へ向かわせるのだった。


1948年3月上旬。

GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーは、突如として吹き始めた逆風に唇を噛み潰したくなるような状況に立たされる。


始まりは米国外交官ジョージ・ケナンらによるGHQによる政策非難であった。

彼らはわざわざ来日してきて直接マッカーサーに対し政策緩和を行うよう進言したのを皮切りに、様々な人物が毎日のように占領政策を否定するために訪れ、仕事にならない。


3月末にはウィリアム・ドレイパーやC・ダグラス・ディロンらが訪れている。


背後には米国企業連合体、米国陸軍、そして反共主義者達がいたことはわかっていた。


突発的に発生した逆風に、マッカーサーは不気味さすら感じたことを手記にて残しているが、ワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルスといった都市部中心に世論誘導が巻き起こり、一方でこれまで思想の違いで別々に行動していた者達が共闘しはじめたのだった。


これこそ、GEがドレイパーを通してディロン・リードに望んだ圧倒的な状況支配力である。


特にマッカーサーが吐き気を催したくなるほど不気味に感じたのは、ジョセフ・マッカシーの掌返しである。


戦時中、ルーズヴェルトと供託し、原爆使用を推奨し、ソ連との共闘を望み、今現在ですら中国共産党を支持し、日本人を「猿」と呼称していた者が突如として対日政策緩和を訴える側の席にまわったのだ。


ジョセフ・マッカシーは1948年の突然の心変わりについて何1つ理由を話さなかったが、その背後には悪魔の爪が突き刺さっていた。


ディロン・リードは米陸軍と長年の付き合いがあり、その人脈によって人事や予算関係にすら影響を及ぼせる力があった。

そんなディロン・リードが政策緩和側に周り、世論への訴えかけまで行い始めた段階で対日政策について強硬路線を支持すれば、即座に閑職に追いやられるのは目に見えていた。



本来なら穏健派に所属するジョセフ・グルーがこのどう見ても仲良く手を繋ぎそうにない人物と同じ立場で共闘しはじめている状況も「何が一体どうなっているのか理解できない」という状況であった。


マッカーサーにとってこれほど屈辱的なことはない。

そもそも彼は対日参戦には否定的な立場で、さらにソ連との共闘も否定的な立場で、原爆にも反対の立場であったのだ。


ルーズヴェルトやコーデル・ハルといった者達に散々振り回され、むしろ振り回す側にいたジョセフ・マッカシーらが当たり前のように信念を曲げずに穏健派として行動し続けるジョセフ・グルーらと並んでロビー活動を行い始めた状況は、常人では耐えられない程の精神的圧力であったように思う。


それだけではなかった。

占領政策においては肯定派でGHQの後ろ盾の1つであったイギリスの首相チャーチルが突然にして声のトーンを落としたのである。


マッカーサーにとってはこれについても理解できなかった。


だが、ディロン・リードが第二次大戦にて一体なにをやって利益を得ていたのか、蓋を開けてみれば簡単にわかることである。


第二次大戦、欧州各国へ融資していた米国は欧州の戦力不足に対し、自国の兵器を輸出する政策をとった。


これにより、シャーマンといった戦車や簡易空母など大量の米国製兵器が欧州各国へ渡り、戦局が覆る手助けとなった。


この一連の武器の売買の仲介人になった企業こそ「ディロン・リード」である。


実はディロン・リードがドレイパーを通して西ドイツを早期に復帰させたい理由は、この時の負債の返済を英国や仏国といった欧州の代表的な国が踏み倒そうとしていた所にあった。


彼らは支払い能力に乏しく、返済緩和措置などを求めたのだ。

当然にして戦後に支払う約束を交わしていたディロン・リードはこのまま踏み倒されるとかなりの負債を抱えることとなる。


そんな時に考え付いたのが「西ドイツを復権させることで欧州全体が復活し、彼らに踏み倒させない」というものだったのだ。


献身的なユダヤ教徒であるダグラス・ディロンは西ドイツを助けたかったわけではなく、単純に英国や仏国からの借金返済のためと、対ソ連への当て馬としてドイツを復興させようと思ったのである。

早期に経済を復活させて米国とパートナーシップを結べば、この「もうかつての列強としての力は無い癖にプライドだけ一人前で口だけ達者な」両国を少しでも黙らせることが出来ると考えたのだった。


ディロン・リードはこの第二次大戦時の負債を用いて英国や仏国を揺さぶり、対日政策に関しての口出しをしないよう、ロビー活動を開始していたのだった。


それもそれはドイツの占領政策緩和と同時に行ったのだが、マッカーサーが知らない所でおきたものだから、突然の状況と感じるのは無理はない。


余談だが、この時のディロン・リードによる行動はフランスの政策方針を転換させることとなる。

ドイツを復活させて米国に従属化させ、欧州をかき回せるような力を米国が持つというのはフランスにとっては非常に危惧すべき状況であった。


そこでフランスはこの1948年を境に政策緩和に肯定的姿勢を示すようになるが、背後では「早期に復活したドイツと手を組み、欧州だけの国家共同体を作り上げて米国に好き勝手にされない状況を作ろう」と考え始める。後のEUである。


それはいうなれば「ヒトラー」が考えた欧州の姿そのものであって、ナチズムという考えがそこに入るか入らないかの違いしかなかったが、この状況について一番理解能力が低かったのがチャーチル含めた英国勢だった。


チャーチルは政治家として優秀だと日本の世界史の教科書などに書かれているが、彼が優秀なのは英国という国家に対しての行動と英国という国家の維持に成功したという功績だけで、100年後を見据えた状況では何1つ成果を残していないという点では無能に近い。

ただし、当人もそれはある程度理解していたようで、衰退する未来を晩年のチャーチルは予言していて、誇りと過去の栄光だけではどうにもならないのだといった回想録が残っている。



話を戻すが、この集団は1948年6月ともなると、ついにチームを結成してしまう。

「アメリカ対日協議会」通称「ACJ」である。


ロビー活動、世論誘導、そして米国議会への圧力。

それまでそれぞれ別々の方向性で戦っていた者達。

米国企業連合体、ジョセフ・グルーら穏健派、反共主義者、親日家、ディロン・リードによって参加を余儀なくされた米国陸軍将校、そしてここにさらにGEといった企業の宣伝によって新たに参加したW・アヴェレル・ハリマンら「米国の投資家、資産家達」が合流する。


W・アヴェレル・ハリマン。

前回話題に名前が出た「ブラウンハリマン」の元CEOであり、ディロン・リードとも関係が深い投資銀行の長であった男は、「乗るしかない。このビッグウェーブに」とばかりにACJに参加を表明。


ジョセフ・グルーといった資金に乏しい活動家のスポンサーとなる傍ら、アヴェレル・ハリマン当人はこの当時商務省長官であり、米国組織の予算関係について大きな影響力を持っていた立場を利用してGHQの中核を成す米国海軍に予算関係での圧力をかけ、行動不能に陥れようとした。


これにはチェスター・ニミッツをしてマッカーサーに対して政策緩和をするよう促すほどであり、ディロン・リードが100年以上に及ぶ死の商人としての企業経営にて築いた人脈などが、もはや凶悪すぎて手が付けられないレベルであるのがよくわかる状況であった。


この活動は1948年を通して拡大していくが、1949年、ついに転機の日が訪れる。

世論誘導によって国民による対日政策への緩和運動などが広がり、米国政府は対日政策を再検討する使節団を組織することを表明。


この使節団には政策関係について具体的に活動中止勧告なども行える権限が与えられた。


当初こそ中立的な立場の者達が集められた使節団であったが、マッカーサーが反対したにも関わらず、土壇場で人員入れ替えが起こり、メンバーの10割がACJの者達となるという「実質的に占領政策転換のための使節団」として日本に送り込まれ、使節団は即座にGHQの一連の政策の中止を勧告。


GHQによる4年に及ぶ対日政策は、この日にて完全に覆ったのだった――

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