雨の日も風の日も特許局へ向かい、そして帝国陸軍と海軍の圧力に屈する事無く企業経営した者達
東京芝浦電気こと東芝の者達がほぼ毎日のように特許局に向かい、最終的に終戦時までそれが続いたのは事実だが、では東芝は1941年から1945年までの4年間、どういう状況に立たされていたのかについて今回は説明したい。
知財部門が来る日も来る日も特許局へ向かう間、東芝内部の開発者などは実はGEの製品にだけ頼ることなく、自社の技術を高めようと日夜躍起になっていたわけだが、そもそも当時のこの会社は何を作っていたかである。
実はこの時点でインフラ関係や家電製品など、様々な分野において東芝の製品は世に溢れていた。
そもそもこの時点での東芝は多数の子会社を保有し、周囲からは「東芝コンツェルン」などと呼ばれた存在。
ラジオ、蓄音機、などから始まり、発電機や電源施設など、ありとあらゆる電化製品を生産し、それだけではなく発電用タービンや特殊合金など、GEからもたらされる技術を生かした製品を生産しては国内で流通させていた。
それもGEのライセンス生産だけではなく、GEですら部品調達するような製造部品を多数抱えていたのである。
そして、もっと恐ろしい事実がある。
1939年に合併して誕生した東京芝浦電気が1944年までの間にとてつもない急成長をしていることである。
1939年、GEなどの導きによって合併した両者は、東京電気側をマツダ支社、芝浦製作所側を芝浦支社とし、会社としては融合してもあくまで2つはまだ独立した存在にちかいものであった。
この時の工場の数は両者を合計して9つ。
そこからGEが最後に確認できた1944年の時点での東芝のもつ工場は何と59である。
それも上記9つと同規模のものを、1939年~1944年までの5年間で新たに50箇所も展開していた。
1944年に東芝によってGEに報告された純利益は6倍、売上総額は何と9倍である。
これにはGEのCEOであるウィルソンらも大いに驚いたが、1944年時点でもGEは51%の取得株式が無効となっていなかった。
つまり、1944年の時点で終戦したとしても、株式売却だけでGEは戦時中に受けた損失を補填できるだけのものを得る可能性が大きかったが、何よりもGEが驚いたのはピアーズら、米国の優秀な経営者たちが帰国し、日本人のみとなった東芝単独の経営能力であった。
そのいくつかは軍需工業ではあったものの、8割以上は民間向けの製品を製造しており、東芝の日本人幹部らはGEが知らないうちにGEの優秀な経営者達が持つ経営能力を身に着けていたのだ。
そしてGEが終戦後になってから知ることになるが、1944年、GEが最後に東芝の状況を理解できた後、終戦までに東芝は何と工場をさらに倍増させ、115箇所というとてつもない数字にまで至っている。
ただしこれらは生産能力を保持するために地方に展開した小規模から中規模なる疎開工場や帝国政府の圧力によって無理やり作らされた軍需工場が中心で、実際に民業として成立していた工場は30箇所程度である。
それでも1944年、日本が空襲などで苦しみ喘いでいた状況で、30箇所もの工場を拡張している点については驚くべき事実であり、三菱電機や日立製作所などと比較しても驚くべき躍進であった。
前回の話でGEが出したソ連侵攻による被害額は、この1944年時点での東芝の経営状態から算出されているわけだが、米国企業が出資し、経営にもある程度関わった日本企業というのは、どれも皆国内で重用されて大きく成長していたのだ。
前回の話において米国政府が日本に勝利しても利益が少ないと見積もった原因はまさにここに起因しており、まさか米国企業が出資した会社が開戦した41年から44年までの間に会社規模換算で日本全体で20倍という比率で成長していたことは1944年にGEなどの米国企業が答申にて打ち明けるまで知るわけもなく、なんらかの方法で1944年末日まで戦時交流によって経営状況が上向きであることを知っていたGEなどが、その実体を正確に把握できていた。
そのGEですら1945年まで、さらに東芝が成長していったことは知らなかった。
何しろ1944年の時点で空襲の規模は尋常ではなく、流石の東芝も「生産能力に支障が出始めた」と言っていたからである。
(そもそも1944年になってようやく支障が出始めた言うのはどう考えてもおかしい話なのだが……)
こういった正確な日本の経営状況を理解した米国だからこそ、ソ連との共同歩調からすぐさま手の平を返すに至ったわけだが、それもこれも米国企業によってもたらされる最新技術が日本で正当評価され、市場において独走状態となったためである。
こういった事実は当然ながら当時は伏せられていたが、では特許局などはその実情をどこまで把握していたかという所で疑問が残る。
正直な所、1944年に至るまで、日本政府や帝国陸軍、海軍はこれらに対して特に対策を講じることはなかったが、実体について実は把握していた。
どう考えても米国の息がかかった企業だけ、明らかに製品改良スピードが速すぎたのだ。
日本独自で成り立つ企業は資源不足などから開発が滞り、製品の成長スピードが鈍化し、特許出願件数も下降路線である。
一方で東芝を含めた企業は「まるで米国」のように毎週のように新製品を開発し、それを特許出願しようとするのだから、当然その状況を周囲の日本独自企業や帝国海軍、陸軍が怪しまないわけがない。
しかし、あえてそれについては策を講じて阻害することはなかった。
黙殺という言葉が最も正しいが、理由は2つある。
1つは、米国内に送り込んだ偵察要員、いわゆる産業スパイは正確な情報を持ってくることができておらず、もってくる技術は中途半端なものばかり。
ドイツなどから正規の方法でもたらされる技術でないと正確性が確保できない。
一方で東芝などはどういう方法を用いて交流しているか知らないが、彼らが密かに保持している明細書は米国トップ企業たるGEなどが持つ最新の技術そのものであり、それを用いて製造された製品の性能は確かなもので、モンキーモデルではないため、日本国にとって必要。
もう1つは、特許法独自のシステムが関係している。
それは、特許は「公開」という形で公になるわけである。
そして研究などを目的に実施することは当時の特許法などにおいても許されていた。
つまり東芝に許可を得なくとも、海軍工廠などが米国の最新鋭の技術を用いて軍事関係の開発を行うことは可能であり、特許局への働きかけは審査中の明細書をコッソリ海軍工廠や陸軍工廠に横流ししてもらう方法によって正確無比な技術を取得可能であったし、他の企業も特許が公開されることでその技術について理解することができたので、特許出願などを妨害するよりも大量の特許を東芝に出願してもらうほうが得であることに早期から気づいていた。
ただし、1943年ともなると流石に状況が変わってくる。
無差別空襲によって攻撃が加えられるようになると、それに対する対策として東芝が持つ技術が必要になったからだ。
1つはレーダー関係、つまり電探関係に用いる真空管やアンテナ、制御機器などのパーツ、そしてもう1つは……排気タービンやジェットエンジン、そしてソレを成立させるタービン用などの特殊合金の製造などである。
これらはGEの思惑通り、東芝の息がかかった関連子会社や東芝自体しか製造できなかった。
真空管やアンテナなどの性能は通信関係などに大きく影響するため、早期警戒による迎撃体制を整えるためにどうしても必要なものであった。
特に帝国陸軍と海軍が強く圧力をかけたのが、1943年より日本軍でも開発が盛んになる排気タービンとジェットエンジン、そしてガスタービンエンジンである。
両軍は東芝が出願する特許の中にあるものを見つけていた。
それは1942年にGEが完成させ、1942年にそのまま東芝が出願した「ウォータージェットエンジンの基礎技術」と「ジェットエンジンの基礎技術」そして「ガスタービンエンジン」などといったものである。
これらは全て基礎理論でしかなかったが、東芝の子会社である石川芝浦タービンなどでは試作品などをコッソリと開発していた。
事実、下記の東芝のHPにも
ttp://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1949gas/index_j.htm
――当時、わが国にはまだガスタービンの技術はなく、欧米のわずかな資料をもとに、技術者たちは文字通り寝食を忘れて、その開発に取り組んだ。――
と記載があるが、この「欧米」とは「GEからもたらされた技術文書」であり、ドイツからもたらされたものではなかった。
ドイツが製造に成功したのはジェットエンジンだけであり、ウォータージェット、ガスタービンエンジンなどの製造には成功していないし、おまけに基礎技術すら渡ってくることなく終戦してしまった。
これらの基礎技術の開発に一応成功していたのはGEで、後にターボなどの製品で国産トップシェアを誇るIHI、当時の石川芝浦タービンがその基礎技術を基に生み出したのである。
両軍はこれらを三菱重工などでも製造が可能となるよう、技術公開させ、人員を向かわて製造させようとしたが、そもそもが基礎的知識すら0な状態の三菱などではちんぷんかんぷんな代物であり失敗、そのため両軍は直接彼らにそれらの開発を依頼する。
これは余談であるが、GEはB-29の排気タービンについてついに製造権を得ることが出来なかった。
彼らが開発したのは自社の流体力学チームによって作り出されたB-29用のプロペラで、排気タービンは空冷エンジンなどで有名なアリソン社が造り、そしてエンジン自体はライト社が製造している。
基礎技術の開発に成功したからといって、実用化、量産化まで至るわけではないという重要なエピソードである。
一方でGEの基礎技術を得た石川芝浦タービンは排気タービンの開発に成功、そしてGEがこれまた製造にまで至らなかったガスタービンエンジンの製造にも成功、そしてさらにGEに先駆けてもっと恐ろしいもののまで製造してしまう。
それはネ12及びネ20である。
日本で生まれ、実用化されたジェットエンジンである。
石川芝浦タービンでは1942年の段階でジェットエンジンについての基礎技術をGEによりもたらされていたが、国内におけるジェットエンジンの開発自体は1938年には開始されていた。
しかし全く上手く行かず、海軍工廠も密かにガスタービン航空機などを秘密裏に製造していたが実用化には程遠い状況であった。
そんな中で技術者達は貪欲にヨダレを垂らしながらコソコソとそれらを造り、それどころかガスタービン関係の特許などは海軍が秘密特許として出願したかったにも関わらず、東芝に先行される形で正規に特許出願していた状況を把握していて、両軍はついに我慢の限界に達し、招集することにしたのだった。
一例として、石川芝浦タービンは陸軍上層部の意向によって1943年に新たな実用型ジェットエンジンの開発チームに加わるが、当然その理由は石川芝浦タービンがコッソリと米国のジェットエンジンの技術書類を親会社である東芝を通して保持していたからである。
ネ12の開発においては様々な企業が開発にかかわり、石川芝浦タービンもネ12及びネ20の量産に関わっているが、最終的にこの時の開発主任であり、国産ジェットエンジンの生みの親とされる永野治は戦後この会社で終生過ごすこととなり、先述の関係でGE製のJ79ジェットエンジンに触れることになるのはまた別の話である。
まとめると、東芝とその関係各社は1943年ごろまでは帝国海軍や帝国海軍とはやや距離を置きつつも軍需工業などを一部営んでいたが、会社としての成長はもっぱら民業によってであって、1943年を境にして軍からの圧力によって、より軍需工業部分が強化されることとなる。
ただし本格的に軍需工業が日本国や両軍によって強制されるのは1944年以降であり、東芝自体が軍事関係に深く関係した期間は短い。
実はGEも開発や製造県争いにこそ積極的に参加したものの、ほぼ同様の立場であった。
これは前回触れたとおり、GE自体がルーズヴェルトや米国政府に対して懐疑的な視線を持っていたことであり、マンハッタン計画への参画を実質的に拒否し、終戦後から原子力分野に関わるようになったように、東芝とGE自体は他の企業と比較すると戦争との関係はやや薄かったのだった。
最後に気になるのは、東芝のスタンスであるのだが、実はこの頃の東芝がどういう意志でもって企業経営を行っていたかというのは経済学を含めて研究者達がいるぐらいでよくわかっていない。
マスコミはGEとの関係などを絡めてこれらを曲解し、米国の傀儡であったなどと主張するが、それは大きな間違いである。
東芝が主として製造していた製品は一般生活に用いる製品やインフラといった国家運営において重要なポジションを担うものであり、当時の者達も「国を下から支える仕事である」という自負があった。
よって、日本国の勝敗や将来においての感情についてはさておき、日本を支えるために工場などを拡張し続け、雇用を確保しつつ終戦まで至ったというのが実情である。
雇用人数からいってもかなりの人間を保護しており、その数6万人以上。
技術者だけで4万名。
多くの技術者を戦地に向かわせることなく国内で囲い込んだ功績というのは後の日本の戦後復興において非常に重要な意味を持つのだった――




