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日本で始めて対等なライセンス契約を持ち込んだ会社は日本人を信頼していた

前回はかなりかいつまんでGEと東芝について触れたが、GEが実際に芝浦製作所と東京電気に対して出資したのは1905年から。


1903年の段階ではあくまでその存在を見つけただけに過ぎない。


余談であるが、この1900~1905年あたりに戦時中の開発、そして戦後の日本の高度経済成長を支える様々なモノを開発していった者達が集中的に出生しているわけだが、彼らが物心つく頃にはすでに世は技術書で溢れていて、そして日本独自に生まれた純粋な日本企業は、海外から出資されて華々しく活躍する外資系とも言える企業と熾烈な開発争いを繰り広げていた。


どこぞの「風立ちぬ」の映画の主人公が航空技術関係の図書について取り寄せたりしているのは1916年のことであるが、こういった図書を企業も盛んに取り寄せていたのだった。

企業は少しでも利益になりそうな関連への開発には意欲的だったのだ。


そこから100年以上に渡るGEと東芝の関係が始まる。

出資して2社を育てていったGEは日本が日露戦争に実質勝利すると直接経営にも大きく関わるようになっていき、芝浦製作所と東京電気は幹部に米国人を迎えるようになり、実質的には外資系企業の走りへと向かっていくようになったのだ。


この時期の日本は「大特許時代」とも言うべき時代を迎えていた。

よく言う成金といった者達は当然重工業化された日本の経営に関わった者達であったが、それらを牽引したのは紛れもなく特許技術である。


GEがこの1905年に何をしたのかというと、特許ライセンス協定であるのだが、この契約は実に50:50な存在であり、当時の二社の実力をいかにGEが高く評価していたかがわかる。


内容としては下記のものである。


・二社はライセンス料を支払い、GEの最新技術を自由に生産、実施できる

・これらの最新技術はGEに了承を得ることなく、自由に改良、発展させることができる

・発展させたものは自由に特許出願できるが、これらの技術はGEのみ無償で実施権を獲得する


一見するとGEがやや優位に思えるが、この時代に最新鋭の技術を改良した存在の特許出願を認めるという判断を下したのはGEだけである。

他の海外資本の企業はあくまで「限定的ライセンス生産契約」に留まる所、GEのみ「包括的ライセンス協定」を結んだのだ。


この時の状況としては二社が改良するよりもGE自体が素早く改良してしまうため、二社は殆ど自社独自の製品を作れてはいなかったが、作れるような状況になったといってもGEがこの協定の姿勢を崩すことはなかった。

GEにとっては基礎的技術のライセンス料だけで十分な収益になったし、そもそもそれぞれの会社の株式の51%も取得しているため、二社が成長したほうがより利益になるのだ。


また、改良された製品は自社で無償で実施できるというのもメリットであったが、これは二社においても不利益なことではなかった。

なぜなら無償といっても、それは「GEでも生産できたならば」の話であって、年を経るにつれGEが自社製品向けに二社の製造部品を導入するようになっていったのだ。


この契約は日本において先駆けて結ばれた国際的なライセンス契約であったが、その中でも特に企業間がお互いにパートナーシップを結ぶようなもので、外資系の競合他社はGEの力の入れように驚いたという。


それもそのはずで、この頃の米国内企業間ですら迂闊にそんなことをすれば技術を盗まれて大変なことになったので、通常はライセンス生産だけの限定的なものにするのがリスクヘッジとして妥当であったからだ。


湯水のように二社に対して最新鋭の技術を惜しみなく公開し、それらの改良などを許すというのは他者には全く理解できない蛮行に思えたのである。

事実、1920年代を境にして二社の製造する部品の一部はGEを凌駕しはじめるので、しっぺ返しの不安を考えたら、この当時の外資系企業が同様の手段をとろうなど出来ようもない。



これはGEの日本人による誠実さへの理解と共に、いかにGEが二社を信頼しているかという証左であるわけだが、何しろ敵対的買収などされた日にはどうなるかわかったものではないため、リスクとしては非常に高いものがあった。


それでも尚、GEは二社にこの契約を持ちかけたのだ。


1919年にもなるとGEは協定の一部を変更する。

それはGEで発明された技術を日本国内においては二社を出願人として出願し、二社のものとしてしまうという内容であった。


これは大正時代に生まれた戦時中の特許の取り扱いを巡ってGEが思いついた新たな特許出願方法であったが、この年代ともなると周囲からすればGEは狂っている(クレイジー)としか思われなかった。

重要技術は登録から20年は生きるにも関わらず、ライセンス料支払い契約だけでは会社を乗っ取られるとどうなるかわかったものではない。


しかしGEにとってはこの時点で乗っ取られるよりも恐ろしい状況がすでに想定できていたのだった。

それは日本国以外にパリ条約を締結していた帝政ロシアが1917年に崩壊、ソビエト連邦が誕生したことにより発生した特許関係の取り扱い事情が大いに関係しており、共産主義国となったことで外資系企業を締め出して技術を自国のものとして奪い取ってしまったソビエト連邦の動きを警戒したものであった。


人と組織は信用しても国家は信用しないというのがモットーの1つであるGEは、米国すら信用していなかったりすることで有名だが、その視線は日本国にも向けられていたわけである。


そしてこういった横暴なソビエト連邦のやり方に対してGEは幹部達や組織の上層部の者達が強烈なまでの反共主義者となっていくが、これが後の日本の統治政策の緩和活動の原動力の1つとなったのもここに書き記しておく。


GEが出資した国家には当然帝政ロシアも含まれていたのだが、ソ連の誕生により技術と資産を国家に奪われたことは、特許法や知的財産権の概念からして横暴な行為であり、GEにとってその手痛い損失であったが、戦時中においてはさらに容易に起こりえることとしてこの事態を教訓にするのだった――



――そして時は30年ほど過ぎ1939年。

東京電気と芝浦製作所を合併させた東京芝浦電気が誕生する。

この時、東京芝浦電気はグループ企業の中心体であって、実はその下には様々な子会社を有していた。


まず合併した理由についてだが、1900年代前半では、当時「弱電」と「強電」といわれる2つの分野が電化製品には存在した。


当時の弱電という意味合いは電球や電話、ラジオなどの家電製品を、強電というのは発電機のような存在であったが、1930年代ともなると両者の境界線は曖昧になり、真空管や銅線などを利用してややデジタル的な制御を行う大規模な工業機械は両者の技術によっての開発が必要不可欠であった。


そこでGEはこの両者を合併させ、グループ企業の中心とすることで工業製品の生産と開発を円滑に行えるようにしたのだが、この子会社というのが実に曲者だった。


例えば子会社の中には石川芝浦タービンというタービン関係を中心に扱う企業などがあったが、この企業は戦時中においてとてつもないモノを開発した存在で、そして今日ではIHIと名前を変えて生き残っている。


感の良い読者ならこの時点で何を作ったかわかるだろうが、信じられないことに当時はGEの息がかかった企業なのである。

しかも太平洋戦争の2年前の時点でそんな組織再編成が行われているわけだ。


しかしこの組織再編についてGEにとっては非常に意味があった。

なぜならこの組織再編はすでに太平洋戦争を見据えたGEによる戦時中の東京芝浦電気のありかたを含めた新たな契約を結んだものだったからである。


GEと東京芝浦電気こと東芝による戦時中の交流と戦いの始まりが1939年の時点で始まりを告げていたのだった――

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