《書籍発売御礼》飯炊く彼女(後)
珠珠はふらふらとした足取りで釜を掴むと、そこに、猛然と米を注ぎはじめた。
遠くから見守るに……一合、二合、三合……五合、六合……。
「おい、どれだけ炊くつもりだ」
「いっしょうれす!」
答えるやいなや、彼女はざっしゅざっしゅと音を立てて、米をとぎはじめる。
手つきは危ういが、意外に米粒ひとつこぼさない。
邑からすれば貴重な米だが、幸い、礼央の管理下には潤沢な蓄えがあったので、面白がる気持ちがつい勝り、そのまま動向を見守った。
「つづいれ! 菜を、作りまァす!」
水も含ませず、釜をさっさと火に掛けてしまうと、彼女は今度、鍋とまな板を取り出した。
どうやら、菜――おかずもしっかり作るらしい。
「酔~えば、酔~うほろォ、うまくなァるぅう」
左右にふらふら揺れながら、指を切断しそうな瀬戸際でぎりぎり調理を続ける姿は、なんとも危なっかしい。
だが、危険な大道芸ほど面白いものもないので、礼央はやはり、それを黙って見守ることにした。
そういえば、彼女の手料理を食べるのはこれが初めてだ。
いや、厳密に言えば、邑に来た初期に作らせてみたのだが、それまで後宮と花街――専任の料理人がいる環境にしかいなかった彼女はろくに料理ができず、消し炭のような卵料理しか出てこなかった。
以降、礼央は彼女に一切食事をねだることはしなかったのである。
(どうなることやら)
さりげなく爆発に備えながら、礼央は酒杯を傾けていたが、意外にも珠珠は器用に鍋を振るっている。
おそらく、この一年ちょっとでずいぶんと上達したのだろう。
生活がかかっていれば、基本的にこの女は、どんなことでもみるみる得意になるのだ。
「お待ちろォ、さまれした!」
ちょうど飯が炊き上がるのとぴったり時を同じくして、菜が出来上がる。
野菜くずと炙り肉のかけらを炒めただけのものだったが、冷えた夜に白い湯気を立て、てらりと油を弾く一皿は、実に美味しそうに見えた。
珠珠は手際よく飯と菜を盛り付けると、どんっ、と音を立ててそれらを卓に並べた。
「いらァきます!」
そこから、礼央も待たず、一気に箸で掻き込みはじめる。
勢いにつられた礼央も、箸を口に運んでみて、軽く目を瞬かせた。
「……うまい」
少し濃いめで、唐辛子のしっかり効いた、白飯が進む味。
高級妓楼で出される贅を尽くした食事とは比べものにならないが、珠珠がこしらえた食事は、思わず続けて箸が伸びてしまうような、素朴で日常的な美味しさがあった。
「うぅ、おい……おいひい……ごはんと……しおけ……」
「おい。食いながら話すな」
「うん……おいひ……あふっ」
はふはふ言いながら、珠珠は威勢よく飯と菜を口に押し込んでいく。
咀嚼も間に合わぬままに飲み込もうとするので、案の定、途中で喉を詰まらせた。
「ヴッ」
がほっと喉を鳴らし、そのまま口を覆って、卓に額を打ち付ける。
「……大丈夫か」
礼央が問うても、彼女はぷるぷると肩を震わせるだけだった。
「吐くなら厠に行けよ」
「…………」
そのまま、黙り込んでいる。
ややあってから、彼女は小さな、消え入りそうな声で呟いた。
「……のみこむの」
「ああ?」
「のみこんれ……とりこむの」
声は、涙に掠れていた。
「ぜんぶ、わらしの……肉にする。ぜんぶ、ひつようなことらったって……にがいのも、からいのも、ぜんぶ……栄養らったんら、って、おもうの」
静かな室内に、押し殺した嗚咽が響く。
礼央は無言で天井を仰ぎ、内心では、さっさと逃げ出した宇航をひとしきり罵った。
もちろん礼央とて、女の涙なんて大嫌いだ。
(だが、まあ)
やがて、箸を置く。
手を伸ばして、卓に突っ伏している女の顔を、ぐいと持ち上げた。
(こいつの泣き顔は、悪くない)
顔を真っ赤にし、ぼたぼたと涙をこぼす珠珠を、礼央は見つめた。
「――そうだな」
ぼんやりこちらを見返す瞳の、潤んでなんと美しいことか。
「実際、いい栄養になったんじゃないか」
「…………?」
「甘ったるい菓子よりは、辛い料理のほうが、俺は好きだ」
珠珠はしばし言葉を反芻するそぶりを見せてから、こくりと頷いた。
「うん。りおうは、火鍋、好きらよね」
含意はまったく通じず、単に額面通り言葉を受け取ったらしい。
「作れるか?」
「うーん……? うん」
「そうか。なら、今度作ってくれ」
「うん」
素直に頷く女は、愛らしい。
涙で濡れた髪を耳に掛けてやりながら、礼央は、ゆっくりと囁いた。
「なあ。おまえ、こうなってよかったじゃないか。後宮で寵を争うより、妓楼で人気を競うより、おまえにはよほど、家で男のために飯を作る人生のほうが似合ってる」
「うん……」
ただでさえ酒に酔った状態。
ほんの少し頭を揺らしてやれば、人は暗示に掛かりやすくなる。
甘い毒を注ぎ込むように話しながら、礼央もまた内心で思った。
そう、こういうのもいいかもしれない。
たった一人の女を、腕の中に閉じ込めて。
すっかり依存させ、闇にも秘密にも触れさせない。
自分のために飯を作らせ、機を織らせ、あくびが出るほど「平凡な」家庭を作る。
「そうしてやろうか、珠珠――」
頭を支えていた手をするりと頬に滑らせ、ゆっくりと顔を寄せる。
唇同士が、今にも触れそうになった、その瞬間だ。
「ヴッ」
珠珠が再び呻き、ばっと距離を取った。
「りおう」
「おい、なんだよ」
「はく」
咄嗟に礼央は、手近な茶碗を掴んだが、珠珠を襲った衝動はそれ以上の速さのようだった。
彼女は辛うじて顔だけ卓から背けると――。
「おい!」
あとは、ご想像の通り。
「礼央兄ー、おはよ。って言っても、もう辰の刻だけど。ごめんごめん、昨日はあの後どうなった?」
翌朝、けろっとした笑顔で居室に現われた宇航に、寝床にもぐったままの礼央は無言の一瞥をくれた。
「……べつに」
「あ、ばか珠珠、そのまま寝落ちした感じ? 泣き上戸ってわけでもなかったのか」
語るのも億劫で、適当な返事で済ませると、宇航は勝手に納得したらしく、てきぱきと礼央の世話をしはじめた。
着替えを寄越し、水差しから水を汲み、それからくるりと振り返る。
「そうだ。昨夜はちょっと悪いことしたと思ったからさ、兄が好きな火酒を仕入れてきたんだよ。今晩は冷え込むようだし、どう?」
恭しく小ぶりの酒瓶を取り出した子分に、礼央は黙って片方の眉を引き上げた。
酒は好きだが、今はあまりその話をしたい気分でもない。
「いや、いい」
「えー、なんで!? あ、ばか珠珠のぶんもあるから、量は心配しなくても」
「あいつには飲ませるな」
遮るようにして告げると、宇航は大きな瞳をぱちぱちとさせた。
「え? でも……今夜からぐっと冷えるし、一杯くらいは飲ませないと、凍え死ぬんじゃない? 殺したいほどの粗相でもしでかした?」
この邑では、女子どもでさえ、酒精で寒さから身を守るのが普通だ。
「…………」
礼央は眉を寄せ、溜息をついた。
あの女がまだ理性を保っていたのは、何杯目くらいだったろうか。
目尻と頬を赤く染め、瞳を潤ませるまでは、実によかったのに。
「……一杯だ。それ以上は飲ませるな」
「うん? はーい」
宇航は特に気にするでもなかったのか、それとも、厄介事には触れないことを決めたのか、さらりと頷き、窓を開け放った。
「うー、寒」
すでに日は高く昇っているが、それでもなお、窓から流れ込む冷気は全身を刺すようだ。
こんな時には、ぴりりと辛い料理でも腹に入れて、体を温めたいものだが。
(やれやれ)
運び込んだ長屋でいまだに爆睡しているだろう珠珠をぼんやり思い浮かべながら、礼央は溜息を落とした。
8月12日発売の書籍1巻では、花街時代の珠麗の話をたっぷり書き下ろしてあります!
どうぞよろしくお願いいたします。




