雪の夜
山猫の月旅行が横丁の間で取り沙汰されたのは、たったの二日間だけだった。
その両日とも、この時期には珍しい雨が夜半まで続いて、結局夜空を見ることが出来ず、更に雨雲が去った後も、夜になると何処からか、分厚い雲が吹き込まれたかの如く湧いてきて、肝心の星空が見えることが殆ど無く、そのうちにみんな、彼のことを忘れていった。
横丁の連中には各々の生活があり、その種類は違えど、夜空にかまけていられる時間は、何処もそう多くはなかったのである。タマナも例外ではなかった。魔女は再び夫を陥れるための策を練りはじめ、哀れな彼はまんまと引っかかったりして、普段通りに時は過ぎていった。
何日か経った日の夜、パーキングは自室で帳簿を相手に大立ち回りを演じていた。彼はそうやって家庭の経済と格闘することを殆ど唯一の趣味としていたが、その日の家計簿は難敵で、何度計算してみても支出額が多すぎるという事実を覆すことが出来ないでいた。
「こんなに支払った覚えはないんだけどなあ……」
ぶつくさ言いながら伸びをすると、何の気もなく窓辺に寄りかかって、気が付くと、庭の向こうに見える横丁をぼんやりと眺めていた。その日は朝から重たい雪がぼたぼたと落ちてきていて、今はもう、町中が白にのしかかられているようである。
まず目に入ったのは水銀屋の窓辺で、白々とした光の中を、馬面の影がせわしなく行き来して、そのうちにぱちんと灯りが消えてしまった。
ついさっき、おぼろげながらも晩課の鐘が鳴っていたのを聞いたから、大方親父が「こんな時間に油の無駄だ」と消してしまったのだろう、けち臭い奴。と自分のことはすっかり棚に上げて鼻を鳴らすと、もっと目を凝らして街中を見渡した。
香木煙草屋の煙突からは、いつにもまして体に悪そうな煙が噴出している。シャレコウベの喉を通って部屋を満たす銀の煙を想像して、パーキングは奇妙な心持ちがした。
「寒さが骨身に染みるから」と親父臭いことを言って、晴れの日以外は外に出ようとしない煙草屋の主人は、しかしこの街で一番雪景色に似合うような気がしたのである。
そうして窓々を順繰りに眺めているうちに、ゆっくりと瞼が降りてきて、これはそろそろベッドに入った方が良いかもしれない、とむにゃむにゃ呟いたのか考えたのか、とろとろと視線を空の方に向けた。
奇妙な点は、二つあった。雲がないというのに、相変わらずあの重たげな雪が、しとしとと降り続けていること。そしてもう一つ、夜空があまりにも明るすぎるということ。
星々が破けてしまったようだった。暗闇に浮かぶ銀の光の一つ一つが、あまりにも強く輝いているのである。
パーキングは腰を抜かさんばかりに驚いて椅子から転げ落ち、その音でいつの間にか部屋に入ってきていたタマナが驚いて声をあげ、その声と魔女の侵入に驚いた彼は腰を抜かさんばかりに驚こうとしたが、それはもうやっている最中だったので、ついに彼は腰を抜かした。
それから二人は顔を見合わせると、まったく同時に「まさか!」と呟いた。
○
「この世は神の持つ革袋の中にあるのです」
カルナボーンはそう言って、傍に置いていた長物の覆いを音もなく外してゆく。受け取ったばかりの前金を、用心深く懐にしまいながら、パーキングは上の空で彼の言葉を聞いていた。彼にとって重要なのは懐の中身であり、相手の腹の中は殆どどうでもよかったのである。
「お分かりですか? 夜になると空は暗闇に覆われる。ところが星々の光は、それは袋の裂け目なのです。あの光は、袋の外にある神の国からの光なのです」
淡々とした言葉の中に、熱っぽい何かが混じりはじめて、その時ようやくパーキングは彼の姿をまじまじと見、実に驚いた。いつの間にやら、彼は物騒な武器を携えて、雲ばかりの空をじっと睨んでいたのである。
「月がなぜ、あんなにも輝いて人を誘うか、貴方は考えたことがありますか? 月は革袋の口なのです。太古の昔から月はああやって、この世の出口として夜空に浮かんでいた」
ハルバードという奴だ、とすぐに分かったのは、香木煙草屋の主人の家に、同じような形の錆びついた武器が、ごろりと転がしてあったのを思い出したからである。「扱いの難しい武器だ」と問わず語りに話し出す骸骨の姿が、何故だか妙に鮮やかに思い出される。
「ですが、近年この革袋は、あまりにもくたびれてきた。星は綻び、月は口。忘れもしないあれは六年前のことです。私は真の夜空を見た! その輝きは、私を射殺さんばかりだった! 神の威光を、私は直に浴びることが出来たのです」
山猫の瞳孔は開いたままで、ハルバードを握りしめた毛深い手から、目に見えるほど大粒の汗がとめどなく溢れてくる。
「私はあの時誓いました。この革袋を、取り替える時期が来た。そのことを神にお伝えせねばならない。周りに受け入れられることはありませんでした。なにせこの私でさえ、その時まで事実を受け止めきれないでいた」
タマナは設計のために自室へ帰ってしまった。いつもなら憎たらしく見えるはずの魔女の脱力した笑顔が、焦がれるほど必要だと感じたのは今日が初めてである。パーキングはひたすらに乾いた笑顔を振りまき続けた。口を挟んだらどうなることか、想像もしたくない!
「方々を訪ね歩いて、この長物を手に入れました。私はこれで、夜空を裂くのです。夜の皮を裂き、星の綻びを広げてしまえば、神がお気づきになるのが早いか、袋が破れてしまうのが早いか、それは私にも分かりません」
目に痛いほど磨き抜かれたそれを、ゆっくりと横に払って、それから覆いにしていた布を手に取ると、愛おしむように巻き付け始める。
「だから、私に必要なのは、あとは何処までも私を連れて行ってくれる、魔法の気球なのです」
すっかり穂先を隠し終えたハルバードを杖の代わりにして、機敏に立ち上がると、山猫は丁寧にお辞儀をした。
「くれぐれも、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」と言ったつもりだったが、口の中が乾ききっていたせいで、墓場を吹き抜ける風のような掠れた声しか出なかった。カルナボーンが応接間を出て行った後も、しばらくは動くことも出来ず、ややあってぺたりと床にへたりこんで、それからようやく這うようにして部屋の外へ出た。計算尺やら設計用紙やら、必要なものを宙に浮かべながら降りてきたタマナに抱き起されるまで、パーキングの震えは止まらなかった。山猫の真黒な瞳が、彼をとらえて離さなかったのである。
○
「まさかとは思うけど、君がやったんじゃないよな」
「冗談!」と呟いたタマナも、いつもの軽薄な笑みを浮かべる余裕が無く、けれど不安そうな彼をこれ以上怯えさせるわけにもいかない、と無理に胡散臭い笑顔を見せると、
「アタシだったら、もっと楽しいことを考えるね。例えば君の肢体を……」
「そうだろうな」
彼女の言葉を遮ってそういうと、にこりともせず、ただじっと窓の外を見ていた。
○
終課の鐘が鳴る頃になると、雪は一層激しさを増し、屋敷の窓にまでべたべたと貼り付きだしたので、ようやく二人は窓辺から離れることが出来た。
星々は、その次の夜から徐々に輝きを失い、ひと月ほどでまた前と同じ程度にしか煌めかなくなった。横丁の住民は、既にカルナボーンという山猫がこの街を訪れたことも忘れていたが、タマナとパーキングだけは、そのことをいつまでも覚えていた。魔女夫妻の、これが最初に共有された、二人だけの秘密である。
気球はついに見つかることはなかった。山猫の願いがどうなったのか、それを知る術は何処にもない。




