87『夜の星』
『……』
「……」
さわさわと草が揺れ、冷たい風が頬を撫でる。
耳を澄ませば涼やかな虫の音が聞こえてくるような、そんな場所。
藤野家の静かな縁側に、スミレとキャロルは座っていた。
「……のぼせちゃった、かな」
スミレは小さく呟いてバラ色に染まった頬を撫でる。
キャロルは深々とフードを被って俯いている。
覆い隠されたその顔は赤く、息遣いも荒い。
「大丈夫……?」
『……っ』
キャロルはこくこくと頷き、深いため息をついた
スミレは自らの胸の内に何か熱い物がこみあげてくるのを感じた。
次第に鼓動が早くなり、艶のあるため息が漏れる
「何……? これ……」
~
静かに波が押し寄せては引いてゆき、白い泡を砂浜に残す。
夜闇に包まれたその場所に、闇と同化した魔女。校長が佇んでいた
「……」
常闇に輝く星の如く、光る金色の瞳が砂浜をじっと見つめていた
『……きゅー……』
その視線の先には、魚の下半身を持つ少女が呻いている。
少女の腹部は大きく抉れ、その肌はボロボロ。下半身も切り傷だらけである
少女の周辺では、決して少なくない量の血が砂を紅く染め上げていた
『ケッ……天魔族も堕ちたもんだな』
校長の背後に音もなく現れたヘリオスが、吐き捨てるように言う。
「……『海を司る』貴女も、こうなればただの人魚ね。私の封印が効いているようで安心したわ」
校長は潤いを失った少女の尾を掴み、ぐいっと引き上げる。
大量の砂が落ち、傷口から鮮血が溢れた。少女は苦しげに表情を歪めている
「抵抗する気力も無いのかしら……?」
『きゅう……』
逆さまに吊り下げても、少女は小さく呻いてぽろぽろと涙を流すのみ。
その哀れな姿に、校長はやれやれと肩を落とした
「ヘリオス。海に還してあげなさい」
『……いいのか? 襲い掛かってくるかもしれねぇぞ』
「いざとなったら私が封じて見せるわ」
ヘリオスは血と涙を零す人魚の尾をがっと掴み、暗い海の彼方へと放り投げた。
『きゅああぁぁぁぁぁ……』
夜闇の彼方に透き通る悲鳴が響き、人魚は闇に消えていった。
『で……ここまで来たはいいが、どうするんだ』
「全く……クラウディアの家でゆっくりしすぎたわね」
『いっそ泊まっていきなよとか言ってたしな……久々にお前と会えて嬉しかったんだろ』
ヘリオスはしゅるんと帽子に滑り込み、校長に軽くマントを羽織らせる。
冷たい夜の風が、闇色のマントを大きく煽る
「そうね……かれこれ十年ぶりになるかしら。元気そうで良かったわ」
『……ったく……お前にも友人がいるんだな……』
「……どういう意味かしら」
~
「……お姉ちゃんの匂いがする」
黒く淀んだ海の上。
軽く揺れる闇色の海面に立つ妖紀は、虚空を見つめて呟いた。
『……』
その足元。暗い海中には紅い眼が光っている。
「お姉ちゃんが近くに居るのかなぁ……ねぇ、でぃあぼろ」
『オオォ……ン』
海中から響く低い唸りと同時に、十数メートルはあろうかという『一本の触手』が姿を現す。
鋭い触手は大きく虚空を裂き、再び海中へと戻って行った。
轟音と共に巨大な水柱が生まれ、妖紀の足元でとてつもなく大きな闇が蠢く。
「……そう。じゃあやっぱり近くに居るのね」
妖紀は軽く微笑んで海の彼方を見つめた。『姉』とよく似た金色の瞳が、怪しく光る。
すると――
『――ぁぁぁぁぁああああ!』
どこからか透き通る悲鳴が聞こえ、妖紀の視界にズタズタの人魚が映った。
妖紀が指示を下すよりも早く、海中のディアボロスが目にもとまらぬ速さで触手を伸ばし、細く何本にも分かれた鋭い触手で傷つけぬように人魚を絡め取った。
尻尾の付け根に絡んだ触手は恐怖に怯える人魚をしっかりと掴み、
巨大な『闇』そのものが、ざばぁっと海中から姿を現した。
光り輝く紅い眼が、人魚をギロリと睨みつける
『オオォ……!』
大きく開かれた口から、禍々しい邪気が漏れる。
その頭部と思わしき場所にちょこんと腰を下ろした妖紀はクスクスと笑っている。
『きゅあぁ……っ』
触手によりディアボロスの眼前に吊り下げられた人魚は傷だらけの身体で必死にもがく。
その表情は苦痛と恐怖に歪み、とめどなく涙が溢れている
「あらら。何かと思ったらリヴァイアサンじゃない、夜の海を散歩中だったかしら?」
妖紀はニタニタと笑いながら話しかける。
「あなた、この辺りの海を統べるお魚さんなのよね。どうしてそんなに怯えているの?」
『きゅ……』
人魚は震える手で自分の髪を掻きあげてみせた。
露わになったその額には、3という数字をあしらった術式の跡が光っている。
「その数字……『第三術式・バビロン』じゃない。お姉ちゃんの仕業ね」
『……』
抵抗を諦め、ぐったりと項垂れる人魚。
ディアボロスは赤い舌で人魚の傷を舐め、そのまま口に運ぼうとする
「食べちゃダメだよ。でぃあぼろ」
『……オオォ……』
ディアボロスは残念そうに口を閉じ、触手で謝るように人魚を撫でる
『きゅうぅ……』
「そうだ。あなたはきっと海水に浸かれば元気になるのよね……でぃあぼろ、浸けてあげて」
――じゃぼ。
尻尾を掴んだ触手がそのまま海中に人魚を下ろし、軽く上下させる。
するとみるみるうちに人魚の傷は塞がり、その肌は瑞々しい潤いを取り戻し始めた
暗い海が蒼く輝き、その尻尾は大きく形を変えてゆく……
ディアボロスが膨れ上がる尻尾の戒めを解くと、人魚は美しく光り輝く大魚となった。
闇に包まれる海中に、蒼い光が満ちる。
「……流石、伝説のお魚さんね。すごく綺麗」
クスクスと微笑む妖紀の眼前で輝く海は音もなく割れ、リヴァイアサンがその姿を現した。
大きなヒレを翼代わりに浮遊し、光る鱗はその全身を美しく彩る。
「ねぇお魚さん。貴方を封じたあの魔女に、復讐したいと思わない……?」




