二つの借金、一つの絶望
11/29 改訂しました
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:カリフォルニア州、ロサンゼルス。「リトル・トーキョー」
ロサンゼルスの乾いた風の中に、ふと懐かしい匂いが混じった。醤油と味噌、そしてたくあんの酸っぱい匂い。リトル・トーキョーの午後は、故郷から遠く離れたこの地で、人々が懸命に根を張って生きている証の香りで満ちていた。
橘小百合は、東郷幸たちの保護者という名目で、この奇妙な街を歩いていた。彼女の硝子のような瞳は、目に映る全てを冷静に、そして正確に記録していく。
道行く日系一世たちの顔に刻まれた深い皺。そこにあるのは希望と、そして諦念が入り混じった、移民特有の複雑な陰影だった。
その陰影が、小百合の脳裏に遠い記憶を呼び覚ます。
シベリア、尼港。凍てついた大地の記憶。
彼女の父も、商人だった。日本の商品をロシアに売り、毛皮や材木を買い付ける。それは新しい時代に夢を賭けた、ささやかな挑戦だった。
その挑戦は多額の「借金」から始まった。横浜正金銀行から借り入れた開業資金。それは父にとって希望の証であり、同時に家族の未来を縛る、冷たく重い鎖でもあった。
「小百合」父はよく言った。
「この借金を返し終えたら、神戸に大きな家を建てよう。お前にはきれいな洋服を着せてやる」
その約束が果たされることはなかった。
1920年、尼港事件。赤軍パルチザンの襲撃。虐殺。炎上する日本人居留地。父も母も、兄も、赤い雪の中に消えた。
生き残った幼い彼女の元に届いたのは、国からの救済ではなかった。横浜正金銀行からの、事務的で冷淡な督促状だけだった。
『……国家の非常時における損害は、個人の責任に帰す…』
それが彼女が祖国から受け取った、最初の、そして最も残酷な教育だった。
国は、守ってくれなかった。銀行は、傘を取り上げた。父の「借金」だけが亡霊のように、彼女の人生に付きまとった。
その亡霊から彼女を救い出し、新しい「任務」を与えてくれたのが、日本陸軍の永田鉄山であり、石原莞爾だった。
だから彼女は、忠誠を誓ったのだ。この身を、国家という冷たい機械の歯車の一つとすることに。
その彼女が今、全く別の種類の「借金」に苦しむ人々の姿を、このアメリカの地で目の当たりにしていた。
修学旅行団が訪れたのは、日系一世の田中氏が営む農場だった。
カリフォルニアの強い日差しに焼かれた田中氏は、子供たちを前に笑顔を見せていたが、その表情には隠しきれない疲労と、何かに怯えるような影があった。
その夜。
幸と小百合が彼の粗末な家屋に招かれた時、台所の隅で田中氏の妻は、音もなく涙を流していた。
「……主人は、無理をして笑っています。本当は、もういつ追い出されてもおかしくないのです」
彼女が語った現実は、小百合が想像していた「成功物語」とは程遠い、法律という名の刃物で切り刻まれた過酷な現実だった。
「……追い出される、とは?」小百合が問うと、田中氏が重い口を開いた。
「この国には、『排日土地法』という法律があるのです」
彼は悔しげに拳を握りしめた。
「我々一世は、市民権を持てない。だから、土地を買うことも、持つことも許されんのです。この農場も、アメリカで生まれた息子――まだ赤ん坊の二世の名義で、ようやく手に入れたものです」
自分の土地なのに、自分の名前ではない。
法的には赤ん坊が地主であり、父である自分は管理人に過ぎない。その法的なねじれが、常に彼らの立場を危うくしていた。
「しかも、不況で野菜の値段は下がる一方だ。銀行は我々が日本人ジャップだというだけで、白人の倍の金利をふっかけてくる。……返済が遅れれば、彼らは容赦なく『管理人の不適格』を理由に、息子の後見人という名目で土地を取り上げるでしょう。我々は夢を買ったのではありません。借金と法律に首を絞められた、奴隷になっただけなのです」
小百合はその話を聞きながら、胸の奥が凍りつくのを感じた。
尼港の父と同じだ。
銀行という巨大なシステムと、国家という冷たい壁。その間に挟まれ、弱者はただ搾り取られる。
その時だった。
「……田中さん」
幸が静かな、しかし芯の通った声で言った。彼女の瞳は同情ではなく、解決策を見据える大人の光を宿していた。
「もしよろしければ、お父様に……海軍の『制度』を使ってみませんか」
数日後。
ワシントンの日本大使館から、田中氏の元に一枚の証券と契約書が届けられた。
そこには東郷一成の署名と共に、こう記されていた。
『北米方面艦隊・兵站供給予約契約書』及び『任務遂行・前払証券(NCPC債)』
それは田中氏の農場が生産する野菜を、将来にわたって日本海軍が「市場価格+プレミアム」で買い上げることを約束する先物契約であり、その代金の一部をNCPC債という形で先払いするものだった。
田中はその紙切れを手に、地元の銀行へ向かった。
窓口に座るのは、いつも彼を虫けらのように見る白人の支店長だ。
「……また来たのか、田中。返済の猶予なら聞かんぞ。来週までだ。さもなくば出て行け」
支店長は葉巻をくゆらせながら、冷淡に言った。
田中は震える手で、NCPC債をカウンターに置いた。
「……これで、頼む」
支店長は鼻で笑い、その紙切れを指先でつまみ上げた。
「なんだこれは? 日本の軍隊の紙切れなんぞ、トイレットペーパ……」
言葉が止まった。
支店長の目が、証券の額面と、そこに刻まれた刻印に釘付けになる。そして、慌てて手元のウォール・ストリート・ジャーナルを広げた。
NCPC債。
今、ウォール街で最も熱い、非課税の安全資産。
支店長の目の色が、侮蔑から、剥き出しの強欲へと変わった。
「……本物か」
彼は舌なめずりをした。この田舎銀行でこの証券を手に入れれば、ニューヨークの本店に転売して莫大な利鞘が稼げる。
「……いいだろう。今日の相場で買い取ってやる」
支店長は素早く計算機を叩き、ドルの札束と、完済証明書をカウンターに放り出した。
田中は深く安堵のため息をついた。これで、土地を守れる。
「……ありがとうございます、支店長さん」
田中が頭を下げた、その時だった。
「用が済んだらさっさと出て行け」
支店長の声は、氷のように冷たかった。彼は手に入れたNCPC債を金庫に大事そうにしまい込むと、汚いものを見るような目で田中を見下ろした。
「勘違いするなよ、田中。俺はこの『紙』の価値を認めただけだ。お前らジャップの信用が上がったわけじゃない」
彼はハンカチで手を拭った。
「金は受け取る。だが、お前らがこの街にいること自体が目障りなんだ。……次は融資なんぞ期待するなよ。二度とこの敷居を跨ぐな」
田中は唇を噛み締め、屈辱に震えながら銀行を出た。
外には、幸と小百合が待っていた。
「……金は、返せました。でも……」
田中は力なく首を振った。
「これで終わりです。銀行との縁は切れました。来年の種籾を買う金も、肥料を買う金も、もうどこからも借りられません」
借金は消えた。だが、それは同時に社会的な「信用」の途絶をも意味していた。この異国の地で、金融から切り離されることは死を意味する。
その時、幸がそっと一枚のカードを差し出した。
「……田中さん。お父様から、これも預かっています」
硬質なセルロイドの感触。表面には碇のマークと、田中氏の名前が刻印されている。
『日本帝国海軍・指定納入業者証明証』
「こ、これは……?」
「NCPCカードです」幸は静かに言った。
「アメリカの銀行が貸してくれないなら、使わなければいいのです。このカードがあれば、サンフランシスコの日本海軍提携商社から、肥料も、農具も、ガソリンも、全て『つけ』で買えます」
「つけ、で?」
「はい。支払いは、収穫した野菜で相殺されますから」
田中はそのカードを握りしめ、膝から崩れ落ちた。
銀行は彼を拒絶した。だが、このカードは彼を受け入れた。
それは、アメリカ社会の中にもう一つ別の、日本人だけが生きられる「見えない経済圏」が誕生した瞬間だった。
その一部始終を見ていた小百合は、戦慄していた。
(……なんて、冷たく、そして強靭な仕組みなのだろう)
東郷の制度は、差別をなくしはしなかった。
銀行家の差別意識も、排日法の理不尽さも、何一つ変わっていない。
だが、東郷はその「差別」すらも計算に入れ、彼らが欲望のままに飲み込む「毒(NCPC債)」と、彼らから切り捨てられた人々を救う「薬」を同時にばら撒いたのだ。
銀行家は欲に駆られて債券を買い、その金で日系人は借金を返す。
そして日系人はアメリカ経済から切り離され、海軍の経済圏システムへと完全に取り込まれていく。
『……小百合さん』
帰り道、幸がぽつりと呟いた。
『お父様は、こう言っていました。「借金とは、本来未来への共同投資であるべきだ。片方だけがリスクを負い、片方だけが利益を得るような制度は、そもそも長続きしない欠陥品だ」と』
その言葉は、雷のように小百合の心を貫いた。
尼港で死んだ父が、もしこの「制度」を知っていたら。
国家がただ「自己責任」と切り捨てるのではなく、父の事業を「国家の任務」として認め、リスクを共有してくれていたら。
父は死なずに済んだのだろうか。あの雪の中で、家族は生きられたのだろうか。
『お父様は、魔法使いじゃありません。人の心までは変えられない。……でも、雨に濡れないための“傘”を渡すことはできる。……たとえその雨が、差別という名前の冷たい雨でも』
本当の救済とは、同情の言葉をかけることではない。
生き延びるための、冷徹な計算式を与えることなのだ。
その夜、小百合はホテルの机で、陸軍の永田に宛てた定時報告書を書いていた。
ペン先が震え、何度も止まった。
彼女は、もはや単なる冷徹な「監視者」ではいられなくなっていた。
彼女は、東郷一成という男がやろうとしていることの本当の恐ろしさと、そしてその底にある、あまりにも深い「慈悲」のようなものに触れてしまったのだ。
彼は、単に富国強兵を目指しているのではない。
彼はこの世界を支配している、「金を持たぬ者は死ぬしかない」という古い呪いそのものを、解き放とうとしているのではないか。
その思想は、永田の「国家総力戦」とも、石原の「最終戦争論」とも、似て非なるものだった。
彼らの思想が「国家のために個人を犠牲にする」ものだとすれば、東郷の思想は「個人の営みを国家が支え、その結果として国家も強くなる」という、全く逆のベクトルを向いていた。
それはより根源的で、より普遍的な、国家と個人の新しい関係性を築こうとする、静かなる革命だった。
(……永田大佐。……私は、一体何を報告すれば良いのですか)
彼女はペンを置いた。白紙の報告書には、インクの滲みが黒い涙のように広がっていた。
窓の外には、カリフォルニアのどこまでも明るい月が浮かんでいた。
だがその月の光は、もはや彼女の心の闇を照らしてはくれなかった。
尼港の冷たい雪の記憶と、カリフォルニアの暖かい太陽の光。
二つの風景が彼女の中で一つに溶け合い、そして問いかけていた。
本当の「祖国」とは、一体どこにあるのか、と。
小百合は初めて自らの任務に迷いを抱いたまま、眠れぬ夜を過ごした。
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