三店方式
時はしばし遡る。
時:1929年(昭和四年)冬、年明け
場所:横須賀・ドブ板通り
商店街は、冷たい潮風の中にもどこか浮き足立ったような活気に満ちていた。店先には飾りが並び、海軍の工廠から出てきたばかりの工員たちが、NCPCカードを片手に、少しばかりの贅沢な買い物を楽しんでいる。
不況もこの「制度圏」の港町までは、まだ本格的には届いていないようだった。 父・一成がアメリカに旅立ってから、彼女は父から定期的に届く手紙を宝物のように読み返し、そして小百合という新しい「姉」と共に、この家の留守を健気に守っていた。
幸はその喧騒の中を、小百合と共に歩いていた。
平八郎の言いつけで始めた、「経済学」の家庭教師。
その一環として、「現場の経済を学んでこい」と、この海軍のお膝元の繁華街へと、送り出されたのだ。
「……すごい人ですね、小百合さん」
「はい。……皆様、景気がよろしいようで」
小百合の声は、相変わらず平坦だった。
しかしその瞳は、鋭く周囲の金の流れを観察していた。
やがて二人は、一軒の店の前で足を止めた。
そこは古びた看板を掲げた「古物商」だった。
しかしその店の中には、ガラクタのような古道具はほとんどなく。
代わりにショーケースの中に、奇妙なものが並んでいた。
万年筆のインクの染みがついた、小さなガラス玉。
海外の煙草の銘柄が書かれた、美しい金属の板。
そして小さな布切れに包まれた、謎の金属片。
「……なんだろう、これ」
幸が、首をかしげたその時だった。
一人の若い水兵が、店に入ってきた。
彼は懐から、一枚の「制度債」を取り出すと、店の主人に手渡した。
主人はその制度債を受け取ると、ショーケースの中からあの小さなガラス玉を一つ取り出し、水兵に渡した。
水兵はそのガラス玉を手に店を出ると。
今度は隣の両替商へと入っていく。
そして数分後。
彼はその両替商から、満面の笑みで出てきた。
その手には、さっきのガラス玉はなく。
代わりに数枚のくたびれた円の紙幣が、握りしめられていた。
「…………あっ」
その一連の流れを見た瞬間。
幸の口から、思わず声が漏れた。
(……パチンコだ…)
そうだ。
これは21世紀の日本で、当たり前のように行われていた「三店方式」そのものじゃないか。
① 客は、パチンコ店で玉を借りる。
② 勝ったら、玉を特殊景品(ガラス玉や、金属片)に交換する。
③ その特殊景品を、近くの交換所で現金に換える。
法律上パチンコはギャンブルではない。
ただ玉と、景品を交換しているだけ。
しかしこの三つの店を介することで、それは事実上の「換金」を日本でも可能にしている。
「……なるほど…」
幸は、思わず膝を打った。
(……お父様は、ここまで計算していたんだ…)
制度債は、公式には円とは兌換できない。
だから「通貨ではない」と言い張れる。
しかし現場では、こうして古物商と両替商を挟むことで、いとも容易く「現金化」ができてしまう。
しかもこれは、法律上全く問題がない。
「……どうかなさいましたか、幸様」
小百合が怪訝な顔で、幸を覗き込んだ。
「う、ううん!」
幸は慌てて首を横に振った。
「……すごい仕組みだなあって! ……これなら制度債は『お金』じゃないけど、みんなちゃんとお金に換えられるんだね!」
そのあまりにも的確な分析に。
小百合の眉がわずかに動いた。
彼女もまた、この巧妙なシステムの本質を理解していた。
しかしそれを、この十歳にもならない少女が一瞬で見抜いた、という事実に。
彼女は改めて、幸に対する畏怖の念を深めていた。
(……このお方の頭脳は、一体どうなっている…?)
「……感心している場合ではありません、幸様」
小百合は静かに言った。
「……ああいう場所には、悪い虫も寄ってきます」
彼女の視線の先。
そこには、先ほど現金を手にした若い水兵に、二人のチンピラ風の男が絡んでいるのが見えた。
「よぉ、海軍の兄ちゃん。景気がいいじゃねえか。……少し俺たちにも分けてくれよ」
水兵と、一触即発の雰囲気になる。
その時だった。
「……ごめんあそばせ」
小百合が音もなくその男たちの間に滑り込んだ。
その動きは、まるで影のようだった。
「なんだてめえ、小娘!」
チンピラの一人が、小百合の肩を掴もうとした、その瞬間。
小百合の体がしなやかに回転した。
彼女の小さな手が男の手首を掴み、ありえない角度に捻り上げる。
「ぎゃあああああっっ!!」
男の悲鳴が響き渡った。
もう一人の男が、驚いて殴りかかろうとする。
しかしそれよりも、早く。
小百合の下駄のつま先が、男の急所を二回、正確に蹴り上げていた。
「ぐふっ…!」
二人の男はその場に崩れ落ち、うずくまった。
その全ての光景が、ほんの一瞬の出来事だった。
小百合は何事もなかったかのように着物の乱れを直し、幸の元へと戻ってきた。
「……参りましょう、幸様」
その顔は、相変わらず無表情だった。
幸はただ呆然と、その光景を見つめていた。
(……強い…)
彼女は、初めて知った。
この物静かな、そしていつも自分の傍にいてくれる、美しい「お姉さん」が。
ただの女中ではない、ということを。
彼女もまた、この混沌とした時代の中で、自らの「牙」を研いで生きてきた、一匹の「狼」なのだ、ということを。
「……小百合さん」
「はい」
「……ありがとう」
その幸の言葉に。
初めて小百合の唇の片端が、ほんのわずかに上がったような気がした。
二人の少女は何も言わずに、黄昏のドブ板通りを歩き始めた。
その小さな背中の後ろで。
街の喧騒と、そして新しい時代の混沌が、まるで渦を巻いているようだった。
「……小百合さん、見て! お魚、今日は安いのですって」 幸が魚屋の店先で声を弾ませる。
その時だった。幸の視線が、ふと店の隅で、一心不乱に鰯の頭を落とし、腹を捌いている、一人の少女の姿に釘付けになった。 自分と同じくらいの歳だろうか。手は魚の血と脂で汚れ、着ているもんぺは擦り切れている。
しかしその伏し目がちな横顔は、周囲の喧騒や魚の生臭さとは全く不釣り合いなほど、驚くほどに整っていた。 高い鼻梁。大きな憂いを帯びたような瞳。そしてきつく結ばれた唇。それは貧しい漁村の少女が持つには、あまりにも気品に満ちた完璧な造形だった。
(……え……?)
幸の心臓が、どきりと音を立てた。 脳裏に、21世紀の記憶が閃光のように蘇る。 白黒の銀幕。 憂いを帯びた微笑み。 戦後の日本国民の心を一身に集めた、永遠の処女。 伝説の大女優。
(……はら、せつこ……?)
幸は我が目を疑った。まさか。そんなはずはない。彼女はまだ横浜にいるはずだ。女学校に通っているはずだ。 だが目の前の少女の、その圧倒的なまでの存在感は、幸の未来の記憶と寸分違わず一致していた。
「……お嬢ちゃん、どうしたんだい?」
魚屋の親父が、にこにこと声をかけてきた。
「ああ、この子かい? 会田まさ江ってんだ。横浜の方から家がごたついてこっちに来てな。うちの遠縁なんで、店を手伝ってもらってんだ。無口だけど、働き者でね」
会田まさ江。
そうだ。それが彼女の本名だった。 幸は息を呑んだ。 なぜ、彼女がここに? 横浜の生糸商だったはずの、彼女の家。もしかしてお父様の制度債の影響で……。 幸は思わず一歩前に出た。
「……あの…!」
その声に少女――まさ江が、初めて顔を上げた。 そしてその大きな黒い瞳が、幸の姿をまっすぐに捉えた、その瞬間。
幸は呼吸を忘れた。
美しい、だけではない。 その瞳の奥には深い、深い井戸の底のような、静かな悲しみと、そしてそれに負けまいとする、鋼のような強い意志の光が宿っていた。 それはただの美少女の目ではなかった。“女優”の目だった。
「……何か、御用でしょうか」
まさ江の声は低く、そして少しかすれていた。 幸は我に返ると、慌てて首を横に振った。
「う、ううん! ごめんなさい! ……あの、お魚を買いに……」
そのぎこちないやり取りを、少し離れた場所で小百合が静かに観察していた。彼女の鋭い観察眼が、幸の尋常でない動揺と、そしてその視線の先にいる魚屋の少女の非凡な「何か」を、正確に捉えていた。
その夜。東郷邸の幸の部屋。 幸は机に向かい、アメリカの父に宛てて手紙を書いていた。
『……お父様。……今日町で、とてもきれいな女の子に会いました。私と同じ歳くらいなのに、お魚屋さんで、一生懸命働いていました。……家のご都合が大変なのだそうです。……その子の目を見たら、なんだか、胸がきゅっとなって苦しくなりました』
彼女はそこでペンを止めた。 これから書こうとしていることが、どれほど突拍子もないことか分かっていたからだ。 だが書かなければならない、と思った。
(……もし、私が何もしなかったら。……あの星の原石は。……この横須賀の片隅で、魚の鱗にまみれたままその光を失ってしまうかもしれない。……そんなの、絶対にいやだ…!)
それは未来を知る者としての使命感か。 それとも、ただの一人のファンとしてのおせっかいか。 幸には分からなかった。 だが彼女はインクをつけ直すと、決意を込めて続きを書き綴った。
『……お父様。……お願いがあります。……お父様の『制度』で、その子を助けてあげることはできませんか? ……映画の女優さんになるのが、その子の夢なのだそうです(←嘘を書きました。ごめんなさい)。……でも、きっとなれます。あの人なら、絶対に。……そしてもし、その人が映画に出て、たくさんの人を笑顔にできるなら。……それも、立派な『任務』になるのではないでしょうか……?』
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