未来への賭け、過去への信頼
ラモントが満足げに退室した後、東郷は一人、窓の外のまだ肌寒いワシントンの春を眺めていた。彼はこの狂乱の裏で蠢く、もう一つの真実に気づいていた。このバブルは、単なる市場の暴走ではない。一部のエリートたちによって、意図的に作り出された巨大な詐欺の側面を持っている。
最高裁で会ったハーヴィー・サリヴァンのような法律家が、「NCPC債は、アメリカの法体系が認めた最も安全な資産である」という内容の、もっともらしい投資家向けレポートを発表する。
ラモントのような銀行家が、新聞のインタビューで「NCPC債は、日米の新しい友好関係の象徴である」と白々しいコメントを出す。そしてラジオの経済評論家が、連日その素晴らしさを説き、一般大衆を投機へと誘う。「今NCPC債を買わない者は、時代の敗北者だ!」と。
東郷一成の執務室は、まるで大学の研究室のようだった。壁にはアメリカの工業生産量と株価の推移を示す巨大なグラフが貼られ、机の上にはFRBの金融政策に関する報告書や、ウォール街の金融専門誌が山と積まれている。彼はもはや一介の武官ではなかった。アメリカという巨大な国家の「病状」を分析し、そのカルテを書き続ける、ただ一人の臨床医だった。
その日、彼は本業の米海軍の動向に関する報告書を書き上げ、さらに本国の海軍省に宛てた、極秘の報告書の最終稿を推敲していた。それは単なる現状報告ではない。来るべき世界恐慌という名の巨大な嵐の中で、日本という船がいかにして生き残るべきか、その航路を示すための、思想的な海図であった。
傍らで副官の伊藤整一が、固唾を呑んでそのペン先を見守っている。
「……伊藤君」
東郷はペンを置くと、静かに問いかけた。
「君は今のこのアメリカという国と、我々が作り上げた『制度』との、根本的な違いが何か分かるかね?」
「はっ。それは…」伊藤は、言葉を選びながら答えた。
「彼らが『利益』を追求するのに対し、我々は『任務』を遂行する、という点かと…」
「それも一つの答えだ。だが、本質はもっと深いところにある」
東郷は、壁のグラフを指さした。天を衝くように伸び続ける、アメリカの株価を示す曲線。
「彼らのシステムは“未来への賭け”で動いている」
彼は静かに語り始めた。その言葉はまるで歴史の教科書を読み上げるかのように明晰で、そして冷徹だった。
「ラジオが普及すれば、ラジオ会社の株価は上がるだろうという“予測”。自動車が売れれば、フォードの株価は上がるだろうという“期待”。ウォール街の銀行家たちは、その不確実な『未来の収益予測』を担保に、信用を創造し、カネを刷り、そして人々はそのカネを借金してさらに未来に賭ける。……それは美しい夢だ。そして夢を見ている間は、誰もが幸福になれる。だが…」
彼は、グラフの頂点を指で叩いた。
「その夢が、ただの幻想に過ぎなかったと気づいた時、全ての信用は一瞬にして蒸発する。なぜなら、その信用の根拠は、どこにも実体を伴わないただの“期待”だったからだ。未来は常に裏切るものだよ、伊藤君」
そして彼は机の上に置かれた、一枚の制度債の見本券を手に取った。
「それに引き換え、我々のシステムは“過去への信頼”で動いている」
彼の声に、静かな力がこもった。
「この一枚の紙の価値は『未来』にはない。『過去』にある。
我々が済南で同胞を無事に救出したという、動かぬ“実績”。
我々が軍艦『長門』を、世界で最も精強な軍艦として完成させたという、揺るぎない“証明”。
我々が発行する全ての信用の根拠は、すでに完了し、記録され、そして誰にも覆すことのできない『過去の実績証明(Proof of Past Performance)』にあるのだ」
伊藤は息を呑んだ。
あまりにもシンプルで、しかしあまりにも根源的な違い。
「未来は常に不確実だが、過去は決して揺るがない」
東郷は続けた。
「だからこそ我々の制度は、市場の熱狂や、人々の欲望といった、不確実なものに左右されない。その価値は、我々がこれまで積み重ねてきた、汗と血と涙の記録そのものによって、絶対的に保証されている。……伊藤君、どちらのシステムが、これから来る嵐の中で、より強靭だと思うかね?」
もはや、答えは言うまでもなかった。
アメリカのシステムは、未来という名の「追い風」を受けている間だけ高く飛べる、脆い凧のようなものだ。ひとたび風が止み、逆風が吹けば、あっという間に地面に叩きつけられる。
対して東郷のシステムは、過去の実績という名の、深く重い「錨」によって、どんな嵐の中でもその場に踏みとどまることができる、堅牢な要塞だった。
「……大佐」伊藤は、絞り出すように言った。
「……では、我々が今なすべきことは…」
東郷一成は、分厚い新聞の束に顔を向けた。その視線の先には、一枚の絵が大きく掲載されている。
霧の中に浮かび上がる、巨大な鉄の骨格。サンフランシスコで建設開始予定のゴールデンゲートブリッジの完成予想図だった。
「……見事なものだな」
東郷は独り言のようにつぶやいた。それはアメリカという国家の底知れない工業力と、未来への揺るぎない楽観を象徴する光景だった。記事の本文は建設資金の一部が、ウォール街で流行している新しい非課税投資商品――『NCPC債』の運用益から賄われることになるだろう、などと景気の良い話で締めくくられている。
「……伊藤君」東郷は新聞を置いた。
「君は、この国の本当の強さが何だと思うかね?」
「はっ。それはやはり、圧倒的な工業生産力と、豊富な資源かと」
「半分正解だ」東郷は、かつてのワシントン軍縮条約の頃の自分を思い出すような回答に、静かに首を横に振った。
「だが半分は違う。この国の本当の強さは“矛盾”を抱え込む、その巨大な胃袋だ」
彼は、別の新聞記事を指さした。サンフランシスコの港湾労働者たちが、賃上げを求めて大規模なストライキに突入したという、小さな三面記事だった。写真には移民の労働者たちが、厳しい顔でプラカードを掲げている。
「……片や天を衝くような橋を架け、未来を夢見る。片やその足元で、明日のパンのために人々が争う。……ウォール街の連中は、我々のNCPC債を投機の道具にして儲けた金で橋を架け、その橋を作るための鉄を運ぶ船は、ストライキで港に足止めされている。……滑稽だろう? だがこの巨大な矛盾こそが、この国のエネルギーなのだ」
伊藤は、黙ってその二つの記事を見比べていた。
「……この光景を」東郷は静かに続けた。
「私や、君のような軍人だけが見ていても意味がない。この国の本当の姿を、これから日本を背負っていく子供たちにこそ、見せてやりたいのだ」
「……子供たち、でありますか?」
「そうだ」東郷は、伊藤の目をまっすぐに見据えた。
「伊藤君、君に一つ任務を命じる」
彼は一枚の企画書を伊藤の前に滑らせた。その表題は、伊藤の想像を絶するものだった。
『帝国海軍・西海岸“修学旅行”派遣計画』
「……修学旅行、でありますか?」伊藤は我が耳を疑った。
「そうだ。横須賀、呉、佐世保、舞鶴。各鎮守府の管轄にある尋常小学校から、交代で児童全員を西海岸へ送る。サンフランシスコで、あの大橋の建設現場を見学させ、ロサンゼルスの日系人社会を訪ね、彼らがこの異国の地で、いかにして尊厳を保ち、生きているか、その肌で感じさせるのだ」
「し、しかし大佐! そのような莫大な費用は一体どこから…!」
「心配は要らん」東郷はこともなげに言った。
「旅費は全て、制度債で賄う。参加する児童と、審査を経た保護者の渡航費、滞在費、そして保護者が仕事を休む間の補償金に至るまで、全て海軍が支給する」
伊藤は絶句した。それはもはや修学旅行などという生易しいものではない。国家的な規模の一大文化交流事業だった。
「……大佐。正気でありますか。制度債は、円とは直接兌換できませぬ。アメリカ国内で、一体どうやって…」
「それも問題ない」東郷の口元に、例の悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「メロン長官が、我々のために素晴らしい“両替所”を用意してくれたではないか」
彼は、公聴会以降のNCPC債の市場価格の推移を示すグラフを指さした。銀売介入の失敗後、NCPC債はウォール街で「変動相場制の安全資産」としての地位を確立し、いつでもドルに換金できる、事実上の国際通貨と化していた。
「我々は、メロン長官のおかげで手に入れた莫大な銀の一部を、このウォール街の“両替所”でドルに換える。そのドルで、子供たちのための船とホテルを予約する。……まさに我々の敵が用意してくれた資金で、我々の未来への投資を行うのだ。これほど痛快な話があるかね?」
伊藤は、もはや何も言えなかった。目の前の上官が描いている絵図は、あまりにも壮大で、そしてあまりにも大胆不敵だった。
「……なぜ、そこまで」伊藤は絞り出すように尋ねた。
「なぜ子供たちに、アメリカを…?」
その問いに、東郷は窓の外の雪景色を見つめた。
「……伊藤君。我々が今戦っている相手は、アメリカの軍艦ではない。アメリカという“概念”そのものだ。自由、豊かさ、そして矛盾。その全てを、この目で見て、肌で感じ、そして考える。その経験こそが、十年後、二十年後の日本を守る最強の“兵器”となる」
そういって東郷は、机の上に置かれた堀からの国家漂白化計画の通知を伊藤に見せた。
「彼らは、西海岸の工場や街並みを見て、アメリカの豊かさに驚くだろう。日系人たちの苦労を見て、人種という壁の非情さを知るだろう。そしてストライキの現場を見て、この国の“自由”が、決して美しいだけのものではないことを学ぶだろう。……その経験を持つ子供たちが、将来この国を動かすようになった時、我々は初めてアメリカという怪物を、正しく恐れ、そして正しく渡り合うことができるようになる」
それは軍人としての発想ではなかった。国家百年の計を見据える、壮大な教育者の視点だった。
伊藤は静かに、そして深く頭を下げた。
「……御意。……直ちに本国各鎮守府と、連携を開始いたします」
その春、日本海軍が買い占めた膨大な銀の一部は、静かにドルへと姿を変え、アメリカの海運会社とホテルチェーンへと流れ込んでいった。
そして初夏、横浜港や神戸港から、アメリカン・プレジデント・ラインや日本郵船・大阪商船の豪華客船に乗って、目を輝かせた日本の子供たちの第一団が、太平洋の彼方へと旅立っていくことになる。
彼らはまだ知らない。
自分たちのこのささやかな修学旅行が、日米関係という巨大な歴史の歯車を、静かに、しかし決定的に動かす、その最初の一押しとなるということを。
そして、やがてその船のデッキから遠ざかる日本を見つめる子供たちの中に、橘小百合に付き添われた東郷幸の姿があることを、まだ誰も知らなかった。
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