担保の王様
時:1929年(昭和四年)、春
場所:ニューヨーク、ウォール街。「ギャツビー&カンパニー」トレーディングフロア
その部屋は、人間の欲望を凝縮して沸騰させた坩堝だった。ティッカーテープが吐き出す数字の滝、鳴り響く電話のベル、そして「買え!」「売るな!」という男たちの獣のような絶叫。誰もが永遠に続くと信じられている「高原」の上で、目先の利益に狂っていた。
若きトレーダー、レオは受話器を肩と顎で挟み、汗ばむ手で別の注文票を殴り書きしていた。彼の目は血走り、アドレナリンで瞳孔が開いている。
「分かってる! ラジオ株(RCA)を全部売れ! その金でNCPC債の先物を、買えるだけ買うんだ! レバレッジは最大でかけろ!」
その狂気じみた指示を聞き咎めたのは、このフロアで唯一、南北戦争の話を祖父から聞いたことがあるという古参のトレーダー、スチュアートだった。彼は酒の匂いがする息で、レオの耳元に囁いた。
「おい小僧。正気か。NCPC債はもう天井だ。あんな紙切れに、会社の信用を全部つぎ込む気か」
「じいさん、あんたは時代遅れなんだよ!」
レオは、軽蔑と憐憫の入り混じった目でスチュアートを見返した。
「いいか、よく聞け。NCPC債はただの紙切れじゃない。これは『担保の王様』なんだ。俺たちは今、顧客が持ち込んできたNCPC債を担保に、その評価額の95%までブローカーズ・ローンを貸し付けている。分かるか? ほぼ現金と同じ扱いだ。いや、現金以上だ!」
「現金以上だと?」
「当たり前だろ!」レオは、黒板に走り書きされたNCPC債の異常な価格曲線を指さした。「現金はインフレで目減りする。国債は利回りがクソだ。だがNCPC債は非課税で、しかもほぼ毎日値上がりする! こんな完璧な担保がどこにある!? 顧客はNCPC債を担保に借りた金でまた株を買い、そして値上がりした株を売って、またNCPC債を買うんだ! これは無限に儲かる永久機関なんだよ!」
スチュアートはその「永久機関」という言葉に、背筋が凍るのを感じた。
(……違う。これは永久機関などではない。これは自分自身の尻尾を、猛烈な速度で食い始めた蛇だ)
彼は知っていた。この狂乱の裏で、連邦準備制度理事会(FRB)が市場の過熱を抑えるために、密かに公定歩合を引き上げ始めていることを。しかしその効果は全くなかった。
「FRBが金利を上げたところで、誰が気にするんだ?」レオは嘲笑った。「ブローカーズ・ローンの金利が5%になろうが10%になろうが、NCPC債は月に20%は値上がりするんだ。借りなきゃ損だろうが!」
スチュアートは、震える手でポケットから手帳を取り出した。ここ数ヶ月の悪夢のような数字の羅列。
【1929年1月〜3月 株価・債券価格推移(抜粋)】
ラジオ株 (RCA):
1月始値: $80 → 3月終値: $105(伸び率: +31%)
備考: 驚異的な伸びだが、まだ理解の範疇。
米国スチール (U.S. Steel):
1月始値:$150 → 3月終値: $170(伸び率: +13%)
備考:実体経済の停滞を反映し、伸びは緩やか。
NCPC債先物 (シカゴCMX):
1月始値: $1.2→ 3月終値:$2.5(伸び率: +108%)
備考:異常。もはや資産価値ではなく、ただの記号。最高裁の判決後、その伸びは垂直に近づいている。
スチュアートは手帳を閉じた。もはや分析など意味がない。驚異的な伸びを見せていたラジオ株ですら、NCPC債の前では子供の遊びに過ぎなかった。そしてこのNCPC債の異常な価格が、ブローカーズ・ローンの担保価値を膨張させ、その金が再びラジオ株へと流れ込んでいる。
(……NCPC債は、この市場全体の“ドーピング”だ。そしてその注射針を嬉々として腕に突き刺しているのは、我々自身なのだ)
その時、フロアの奥からマネージャーの絶叫が響き渡った。
「スタンダード・オイルからの大口の買いだ! またNCPC債だ! 奴ら自社の株を売って、日本の紙切れに乗り換える気だぞ!」
スチュアートは天を仰いだ。もはやこの国は正常ではなかった。アメリカを代表する優良企業が、自らの事業を放棄して日本の軍事力を担保にした投機に狂奔している。
スチュアートは、昼食のためにいつものダイナーに入った。壁の黒板には日替わりランチのメニューと並んで、今日の主要株価がチョークで殴り書きされている。それがこの時代の日常だった。
【本日のスペシャルランチ:ローストビーフサンド $1.50】
RCA(ラジオ株):$110 (+5.5) ↗
U.S. Steel:$172 (+2.0) →
NCPC Bond (Futures):$2.80 (+$0.30) ⚓️⚓️
最後のNCPC債の横には店主の悪ふざけだろう、錨の絵が二つも描かれていた。隣のテーブルでは肉体労働者風の男たちが、油まみれの手でウォール・ストリート・ジャーナルを広げ、その錨の絵を指さしては下品な笑い声を上げている。
「おい見たか、今日も日本のカイグン様は絶好調だぜ!」
「ああ! うちのカミさんが、へそくりで先物を一枚買ったらしい。今じゃ俺の月給より稼いでやがる!」
スチュアートは、ローストビーフサンドを喉に通すのがやっとだった。
サンドイッチの値段は変わらないのに、その横で錨のマークが毎日増えていく。この国の価値の尺度は、もう完全に壊れてしまっていた。
彼はダイナーからの帰り道、信じられない光景を目にした。
靴磨きの少年が客の革靴を磨きながら、得意げに別の客に語っている。
「旦那、株はもう古いね。これからは日本のカイグンさんの紙切れさ。俺も先週チップを全部つぎ込んで、先物を一枚買ったんだ。来週には、この靴磨きセットがフォードのT型に化けるぜ!」
その言葉に、客の紳士は感心したように頷いている。
スチュアートはめまいを覚えた。
ニューヨークの靴磨きの少年までが、レバレッジをかけた金融派生商品を語る国。
(……トーゴー。お前は一体、どんな地獄の門を開けてしまったんだ……)
⸻
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
ワシントンの日本大使館武官室は、いつからかウォール街の重鎮たちが密かに訪れる「巡礼地」となっていた。その日東郷一成の前で頭を下げていたのは、他ならぬJPモルガンのトーマス・ラモントだった。
「東郷大佐。我々は貴殿の偉大なる『制度』に、心からの敬意を表するものです」
ラモントはまるで教祖に謁見する信者のように恭しく、一枚の企画書を差し出した。
「つきましては、我々が新たに開発したこの金融商品――『NCPC債・インデックスファンド』に、貴国海軍のお墨付きを頂けないかと…」
それはNCPC債の価格に連動する、さらにハイリスクなデリバティブ商品だった。東郷はその書類を一瞥しただけで、その悪魔的な仕組みを完全に理解した。
「……ラモントさん」東郷は静かに言った。「これは、あまりにも危険すぎる。市場を過熱させるだけだ」
「ご心配なく!」ラモントは、満面の笑みを浮かべた。
「リスク管理は我々プロにお任せを。これは市場にさらなる流動性をもたらし、結果として日米両国の友好に貢献するものです。ぜひ、ご一考を…」
東郷は、目の前の男の欲望に爛々と輝く瞳を見つめた。
(……この男は、もう何も聞こえていない。私が作った制度は今や、彼ら自身の欲望を餌にして彼らの手で育てられている……)
彼は知っていた。自分がここで何を言おうと、もはやこの狂乱は止められないことを。そして心の声が漏れそうになるのを必死で堪えた。
(おいおいおい、待て待て待て。アメリカ人、正気か?)
(「NCPC債を担保に評価額の95%まで貸す?」馬鹿なのか? 私はあれを「任務の記録」だと言ったはずだ。「円とは交換できん」とも言ったはずだ。なぜそれが現金以上の担保になるんだ。貴様らの国の銀行家は、聖書を担保にカネを貸すのか? 「この聖句は将来値上がりしますから95%まで融資します」とでも言うつもりか?)
(スタンダード・オイルが自社株を売ってNCPC債に乗り換え? ……意味が分からん。石油会社が石油を掘らずに、外国の軍隊の「任務記録」で投機を始める? それは会社ではない、ただの博打打ちだ。貴様らの資本主義は、事業を放棄してまで投機に走ることが「合理的経営判断」になるのか?私がアナポリスで、アメリカで学んだ経済学の教科書にはそんなことは一言も書いてなかったぞ)
(そして、ラモント君。君は天才か、それともただのイカれた錬金術師か。『NCPC債・インデックスファンド』にお墨付きを?君たちは制度という鉛を溶かして無数の弾丸を作り、金にするべくロシアンルーレットを始めた。しかもその銃口を自分たちのこめかみに突きつけて。私が「危険だ」と言っても「リスク管理はプロにお任せを」?)
「……検討しましょう」
東郷は、ただ静かにそう答えた。目の前の男の欲望に爛々と輝く瞳を見つめながら。
(いいだろう。せいぜいその引き金を引く瞬間まで、プロの腕前とやらを見せてもらおうじゃないか)
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