本券所持者に、帝国海軍は物資を給付する
1923年9月の関東大震災。
大地が裂け、炎が街を呑み込んだあの日。
帝都は瓦礫と煙に覆われ、政府も財界も身動きが取れなかった。だが港では、海軍の艦艇が次々と救援物資を運び込み、被災民は水と食料を求めて殺到していた。
その渦中、東郷一成は内閣総理大臣・山本権兵衛の前に、山本権兵衛の甥である山本英輔の計らいで姿を現した。
「総理閣下。いま必要なのは、即応する信用であります」
煤に汚れた軍服のまま、東郷は畳に正座し、懐から数枚の紙片を差し出した。
「幸いにも、この日のために山本(英輔)閣下と準備を進めていた試作品が手元にございます。あくまで緊急措置ですが……」
「これは、海軍物資との交換券――すなわち“制度債”であります。災害で通貨も物流も混乱する今こそ、これを発行し、食糧や水、医薬品と即時に引き換えられるようにすべきです。円との兌換は不要。ただ、海軍の備蓄と作業力を裏付けとすれば、庶民は明日を生き延びられます」
山本権兵衛は、震える手で紙片を取り上げた。粗末な印刷、しかし簡潔な文字でこう記されている。
「本券所持者に、帝国海軍は物資を給付する」
「……これは通貨ではなく、軍票か」
総理の低い声に、東郷は即座に応じた。
「いえ、軍票ではありません。あくまで“与信証明”です。災害下で海軍が果たした役務を、国民が直接引き換えられる形にしたもの。これを年度ごとに記録し、司法の監査を経れば、制度は濫用されません」
山本は黙し、襖の向こうに控えていた重臣たちへ視線を走らせた。財界出身の者は顔をしかめるだろうが、しかし被災状況を思えば否定の言葉も出せない。
東郷は畳に額が触れるほど深く頭を下げた。
「どうかお許しを。これは一介の中佐の思いつきではありません。大審院長・平沼閣下、元帥・東郷平八郎、そして海軍大学校長・山本英輔の承認を得ております。制度は、必ず国民の生存を支える骨格となるはずです」
長い沈黙ののち、山本権兵衛は、東郷一成の差し出した制度債をしばし見つめ、ふっと目を細めた。
「……まったく、因果なものだな」
周囲の重臣たちが怪訝そうに振り返る。だが山本は構わず、遠い過去を語り出した。
「日露戦争の折、連合艦隊の司令を誰にするかで議論が割れたことがあった。あのとき、私は迷わず東郷平八郎を推した。理由を問われて答えたのは――“運のいい奴だ”という一言だった」
彼は低く笑った。
「世はそれを軽率と笑った。だが、結果はどうであったか。 日本は勝った。いや、勝たせたのは東郷の胆力と、あの不思議なめぐり合わせだった」
山本の目が再び一成に向けられる。
「その息子が、私の甥を通して今ここで“制度”なる紙切れを持ってきた。……奇妙な縁だが、私にはやはりあのときと同じ匂いを感じる。理屈より先に、これは動かすべきものだと」
直後、財界出身の閣僚が慌てて言った。
「総理、それは国法に触れますぞ! 海軍に通貨発行権を与えるも同然です!」と激しく詰め寄る。
重い沈黙が流れる。やがて山本は深く息を吐き、声を低めて結んだ。
「……平八郎に託した運を、今度はお前に託そう。一成。これは運命の延長にある。ならば私は、再び賭けるだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、東郷は拳を強く握りしめた。
――制度債は、今この震災の地で産声を上げた。
最初にその紙片が光を浴びたのは、焦げた街角だった。
「制度債」と印字されたその紙は、海軍兵士の硬い手から、赤子を抱いた母親の震える掌へと渡された。
兵士が母親に制度債を渡す際にこう告げながら。
「この紙があれば、海軍の炊き出し所で食料が手に入る。輸送で困った時も、近くの兵士に見せるといい」
――『本券所持者に、帝国海軍は物資を給付する』
母親は疑わしげに紙を見つめたが、兵士の指が示した先には炊き出し所の大釜があり、彼女の手にはやがて米一升が残った。
その米は近所の商店に持ち込まれる。商店の主人は眉をひそめた。
「こんな紙切れで……」
しかし、母親の必死の目と、次々と持ち込まれる同じ紙片に押され、結局、彼は米を買い取った。帳簿の片隅にその紙を貼り付け、胸中にざらつく不安を覚えながら。
翌日。商店主は仕入れのため、地方から荷を運んできた農民にその紙を差し出した。農民は首を横に振る。
「東京でしか通じぬ紙切れなど、何の役に立つ」
だが同じ荷馬車に同乗していた別の男が囁いた。
「……その紙を持ってりゃ、海軍さんの救援部隊が優先的に荷を運んでくれるらしいぜ」
農民は逡巡の末、紙を受け取った。彼の手の中で、それは米俵と交換される“実益”を帯び始める。
数日後。紙片は幾度もの取引を経て、瓦礫の中で帳簿を整理していた銀行家の机に置かれた。煤に汚れ、折り目だらけになっていたが、まだ鮮やかに文字が読めた。
――「本券所持者に、帝国海軍は物資を給付する」
銀行家はしばらくそれを睨んでいた。
「通貨ではない。だが……信用で回っている。しかも国庫ではなく、海軍の名で」
その背筋を冷たいものが走る。この紙片は、ただの救援券ではない。銀行の金庫を満たす札束より、もしかすれば強靭な信用を宿しつつあるのではないか――。
紙片は静かに風に揺れた。
その旅は、まだ始まったばかりだった。




