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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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国家漂白化計画

時:1929年(昭和四年)、春

場所:東京・丸の内、工業倶楽部の一室


 その部屋は、日本の産業を支配する者たちのための聖域だった。磨き上げられたマホガニーの長テーブル、深く吸い込まれるような革張りの椅子、そして壁にかけられた英国製の風景画。空気は上質な葉巻の香りと、かすかなブランデーの匂いで満たされていた。


三井財閥の総帥團琢磨は、そのテーブルの主賓席で静かに目を閉じていた。彼の前には、海軍軍務局から提出された一枚の奇妙な提案書が置かれている。


『国家生産力維持向上ニ関スル提案(通称:国家漂白化計画)』


馬鹿げている――それが團の第一印象だった。

労働時間を一日八時間に? 寄宿舎に暖房と、清潔な寝具を? 女工たちに定期的な医療検診を?


「……堀大佐」團はゆっくりと目を開けた。その声は穏やかだったが、長年日本の経済を動かしてきた男の揺るぎない権威がこもっていた。


「貴官は、経済というものを御存知ないようだ。この提案を実行すれば、我が国の紡績業は、その国際競争力を完全に失い破綻する。一人当たりの人件費は一.五倍に跳ね上がり、工場の稼働率は三分の二に落ちる。……これは慈善事業ではない。国家の屋台骨を揺るがす、甘美な理想論に過ぎん」


その場に同席していた他の財閥の重鎮たちも、重々しく頷いた。彼らにとって労働者とは「コスト」であり、安価で豊富な労働力こそが、日本の唯一の武器だった。


しかしテーブルの末席に座る海軍の男――軍務局長の堀悌吉は、少しも動じなかった。彼は財界の巨人たちの冷ややかな視線を、まるで凪いだ海のように静かに受け止めていた。


「團男爵。閣下のおっしゃる通りです。もし“円”という古い物差しだけで測るのであれば」

「……何?」

「私は本日、慈善事業のお願いに参ったのではありません。私は、新しい“兵器”の共同開発をご提案しに参りました」


堀は立ち上がると、一枚の青写真をテーブルの上に広げた。そこに描かれていたのは軍艦ではなかった。それは最新鋭の自動織機が並ぶ、巨大な紡績工場の設計図だった。


「来るべき国家総力戦において、我が国がアメリカの物量に対抗するためには何が必要か。それは兵士一人一人の練度と、そして国民一人一人の“生産性”です。閣下、今の我が国の工場は兵器ではなく、病人を生産しております。結核に倒れ、疲弊し、故郷に帰る頃には使い物にならなくなった若者たちを、です」


堀の声は静かだったが、その言葉は鋭く部屋の空気を切り裂いた。


「近代において軍艦の鋼鉄は、最高の品質を求められます。エンジンの部品は、ミクロン単位の精度で管理される。……ならばその軍艦を動かし、そのエンジンを作る“人間”という最も重要な部品が、粗悪なままで良いはずがありましょうか?」


團は、ぐっと言葉に詰まった。

「……詭弁だな。その“部品”を整備するための、天文学的なコストをどうするのだ」


「ですから『円』は使いません」

堀は、懐から一枚の証券を取り出した。『健康維持任務債』と記されている。


「貴社が、労働環境の改善という『任務』を達成なされば、海軍はその功績に対し、この制度債を発行いたします。貴社はこれを用い、我が海軍の制度圏から、新しい寄宿舎を建てるための鉄骨やセメントなどを“現物”で受け取ることができる。海軍病院の医師団も、無償で派遣しましょう。貴社の懐は一円たりとも痛みませぬ」


「……馬鹿な。物々交換で国家が動くものか。生産性の低下はどうする」

「それこそが、この提案の肝であります」

堀の瞳が、鋭い光を放った。

「労働時間が三分の二になる。ならば、生産性を二倍にすれば、何の問題もないはずです。……男爵、我が海軍は先般、アメリカの市場で少々の“臨時収入”を得ましてな」


彼はもう一枚の書類をテーブルに滑らせた。それはアメリカの最新鋭自動織機のカタログだった。


「この機械を、アービトラージで得た潤沢なドル資金で、我々が購入する。そしてこの『国家漂白化計画』に参加された企業に“のみ”優先的に、そして格安でリースする。……どうですかな? 八時間労働の、健康的で意欲に満ちた女工たちが、この世界最新鋭の機械を使って働く。……男爵、彼女たちの生産性は一体どうなると思われますか?」


その瞬間、團琢磨の脳裏で何かが稲妻のように閃いた。

これは、慈善事業ではない。

これは、脅迫だ。


この海軍の男は、「労働環境改善」という甘い飴の裏に、「技術革新」という名の抗いがたい鞭を隠し持っていたのだ。


この計画に乗れば、一時的にコストは増える。しかし、最新の技術と、健康な労働力を手に入れることができる。


この計画を拒否すれば、コストは変わらない。しかし、技術的に陳腐化した工場で、疲弊した労働者を使い続け、やがては海軍と三菱ら海軍に近い財閥が主導する新しい生産体制の前に、競争力を失い滅び去る。


「……堀大佐。貴官は、我々を愚弄しておられるのか」

團の声は、怒りを押し殺した鋼のように硬かった。


「昭和二年、片岡直温蔵相の失言一つで、我が国の金融は恐慌の淵に沈んだ。今もその傷は癒えておらぬ。そんな中で、人件費を一.五倍にしろとは。我が国の産業を、根底から破壊するおつもりか」


その言葉に、他の財閥の重鎮たちも一斉に頷いた。彼らの目は、末席に座る海軍の男をまるで国賊でも見るかのように睨みつけている。


しかし、この堀悌吉は動じなかった。

「團男爵。破壊ではございません。“予防接種”です」

彼の声は静かだったが、その場にいる全員の耳に突き刺さった。


「閣下方は、まだ気づいておられない。今太平洋の向こう、アメリカで何が起きているかを」


堀は、一枚のグラフをテーブルの上に広げた。それは、アメリカの工業生産性の伸び率と、労働者の実質賃金の伸び率を示したものだった。二つの線は1920年代を通じて、絶望的なまでに乖離していった。


「生産性は天井知らずに伸びている。しかしそれを作る労働者たちは、作ったものを買うカネを持っていない。結果、どうなるか。モノは溢れ、しかし誰も買えない。この巨大な矛盾が、今まさに破裂寸前なのです」


彼は、もう一枚の新聞の切り抜きを置いた。ノースカロライナ州で起きた、大規模な紡績工場のストライキ。州兵が出動し死者まで出たという惨状が、そこには写し出されていた。


「アメリカでは今、共産主義の嵐が吹き荒れている。労働者たちは、自らの権利を求め、銃を手に取り始めている。……閣下、この嵐がやがて太平洋を越えてこないと、本当に言い切れますかな?」


その言葉に、部屋の空気が凍りついた。

共産主義。それは彼ら資本家にとって不況よりも、戦争よりも恐ろしい、秩序の崩壊を意味する言葉だった。


「……だから労働環境を改善しろ、と? 赤の扇動に乗る前にアメを与えてやれと、そう言うのか」


「アメではございません」堀はきっぱりと言った。「これは“投資”です。そしてその投資の承認者は、すでにこの私だけではございません」


彼は一枚の書状をテーブルの中央に置いた。そこには菊の紋が描かれた封蝋と荘厳な筆文字で、こう記されていた。


『本計画ハ、国家ノ秩序維持ト共産主義思想ノ防遏ぼうあつニ資スルモノト認ム。依ッテ枢密院ハコレヲ支持スル』


署名は枢密院副議長、平沼騏一郎。司法界の頂点に君臨し、国本社の黒幕として、この国の“国体”を護る男。


「……平沼閣下が…?」

團は、絶句した。

これはもはや海軍の一介の軍人の提案ではない。国家の、もう一つの最高権力からの「勧告」に等しいのだ。平沼はこの計画を単なる経済政策ではなく、共産主義の浸透を防ぐための「防諜作戦」として捉えているのだ。


「そして、男爵」堀は最後の、そして最も抗いがたい一撃を放った。「貴方がたが懸念されるコスト。それについても、もはや心配はご無用かと存じます」


彼は、静かに言った。

「そもそも、この計画の対象となる女工たちの多くは、誰の娘であり、誰の妹でありましょうか。……そう。帝国海軍に、その身を捧げた兵士たちの家族です」


その一言は、重い鉄槌のようにその場にいた全員の胸を打ち抜いた。

そうだ。貧しい農村から都会の工場へ働きに出る少女たち。その兄弟の多くには、給金で国の守りについている海軍の水兵たちがいた。


「……考えてもみてください」堀の声はよく響いた。


「もし海軍の兵士たちが、自分たちの娘や妹が、不衛生な寄宿舎で結核に罹り、一日十二時間の長時間労働で使い潰されていると知ったら、どう思うか。


自分たちが命を懸けて守っているこの国は、一体誰のための国なのだと、そう思わぬでしょうか。……その絶望と怒りの先に、赤旗を振る共産主義の甘い誘惑があったとしたら?」


誰も、何も言えなかった。

反対できる者など、いるはずがなかった。

「海軍の兵士の家族の労働環境を改善することに、財閥がケチをつける」


それは、もはや経済合理性の問題ではない。それはこの国の根幹を支える「忠誠」そのものに、泥を塗る行為に他ならない。そんなことをすれば、明日にも「非国民」「国賊」として、世論の激しい非難に晒されるだろう。 

團琢磨は、ゆっくりと目を閉じた。

完敗だった。

この堀という男は経済合理性、国家の防諜、そして国民感情という、三つの決して逆らえぬ巨大な波を完璧なタイミングで一つに束ね、自分たちの喉元に突きつけてきたのだ。


「……分かった」團は絞り出すように言った。

「……やろう。……ただし、堀大佐。これは貴官の理想に我々が屈したのではない。……帝国に奉公する、兵士たちの家族のためだ。……それだけは忘れるな」


「承知しております」

堀は深く、静かに頭を下げた。その表情に、勝利の笑みはなかった。ただ自らが設計した巨大な機械の歯車がまた一つ、重い音を立てて回り始めたことへの、静かな確信だけがあった。


その日、日本の産業界は歴史的な一歩を踏み出した。

それは、アメリカで吹き荒れるストライキの嵐とは対照的な、あまりにも静かな上からの「革命」だった。

いつもお読みいただきありがとうございます。


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