アメリカン・ドリーム1929
時:1929年(昭和四年)、春
場所:ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジの片隅にある小さなジャズクラブのVIPルーム
外の喧騒とは裏腹に、その部屋は紫煙とバーボン、そして二人の男が放つ静かな緊張感で満たされていた。防音扉が、軽快なサックスの音色を遠い潮騒のように変えている。
一人は日本海軍駐米武官、東郷一成。彼は軍服を脱ぎ、上質なツイードのジャケットに身を包んでいた。その姿は、まるでコロンビア大学の若き教授のようだった。
そしてもう一人は、ハリー・ホプキンス。ニューヨーク州知事フランクリン・デラノ・ルーズベルトの最も信頼する腹心。社会福祉の専門家として、この繁栄の都の最も暗い底辺を知る男。その痩身と疲れを宿した瞳は、この国の「病」を間近で見続けてきた医師のそれだった。
「……感謝します、ミスター・ホプキンス。多忙な中、非公式の会談に応じていただき」
東郷は、流暢な英語で礼を述べた。
「知事からの『ご推薦』とあらば、断るわけにはいきませんからな」
ホプキンスは、皮肉とも本音ともつかぬ口調で応じた。彼の目の前のテーブルには、東郷が持参した一つの封筒が置かれている。中には彼が運営する慈善団体への、多額の寄付を約束する小切手が入っていた。
「もっとも知事が推薦した相手が、今この国で最も厄介な『病人』そのものであるというのは、少々笑えませんがね」
「光栄ですな」
東郷は、少しも動じなかった。
「では、本題に入りましょう」ホプキンスは、身を乗り出した。「知事から伺いましたよ。あなたが知りたいのは、この国の『労働運動』の現状だと。……なぜですかな、大佐。貴方が専門とする金融や軍事とは、まるで畑違いのテーマに見えるが」
「だからこそ、です」
東郷は、水を一口含んだ。
「私は、このアメリカという巨大な軍艦の、機関室の本当の温度を知りたいのです。甲板の上で士官たちが踊っている華やかなダンスではなく、その足元でボイラーがどれほどの圧力に耐えているのかを」
ホプキンスは、初めてその目に興味の光を宿した。
「……面白い比喩だ。続けてください」
「私がワシントンやニューヨークで会う政府高官や銀行家たちは、皆口を揃えてこう言います。『アメリカの労働者は満足している。ストライキは減り、生産性は向上し、彼らはフォードの車を買い、ラジオを聴いている』と。
……しかしそれは本当ですかな、ミスター・ホプキンス? 私は、アナポリスで貴国の歴史を学びました。この国は、資本家であろうと労働者であろうと人民が自らの権利を血と汗で勝ち取ってきた国のはずだ。その牙がそう簡単に抜けるものだろうか、と」
そのあまりにも的確な問いに、ホプキンスはしばし言葉を失った。そして深く息を吐き出した。
「……大佐。あなたは医者だ。それも極めて優秀な外科医だ。あなたは、この国の美しい皮膚を一枚めくった下にある、静かに壊死しつつある筋肉を、正確に見抜いておられる」
彼は、ウィスキーで乾いた喉を潤した。
「おっしゃる通り、ストライキは低調です。しかしそれは病が癒えたからではない。患者が痛み止め(モルヒネ)を打たれ、声を出せなくなっているだけなのです」
ホプキンスは、そこから堰を切ったように語り始めた。それは政府の公式統計には決して現れない、もう一つのアメリカの姿だった。
第一次大戦後の「赤の恐怖」による、組合活動家への徹底的な弾圧。
企業スパイと、黄犬契約という名の「思想統制」。
そして、フォードに代表される一部の大企業が提供する「福祉資本主義」という名の、甘いアメ。
「彼らは労働者を『団結する市民』から、『従順な消費者』へと巧みに作り替えたのです」
ホプキンスの声は次第に熱を帯びていった。
「組合に入って権利を叫ぶよりも、会社に従ってボーナスをもらい、新しい自動車を買う方が『賢い生き方』だと。そして株価が上がり続けるこの市場で一攫千金を夢見る方が『アメリカン・ドリーム』なのだと。……彼らは労働者から団結という武器を奪い、その代わりに個人主義という名の麻薬を与えたのです」
東郷は、黙ってホプキンスの言葉を脳裏に刻みつけていた。
「……しかし、その麻薬はいずれ切れますな」
「その通り」ホプキンスは頷いた。
「生産性の向上によって生み出された莫大な富は、決して労働者には還元されない。それは全てウォール街の株主と、経営者の懐へと吸い上げられていく。モノは工場に溢れているのに、それを買うべき大多数の国民の財布は、空っぽのまま。……大佐、これがこの狂騒の時代の最もシンプルで、最も致命的な病巣です。『過剰生産と過少消費』……この矛盾が臨界点に達した時、何が起きるか。お分かりでしょう」
「恐慌、ですな」
東郷は静かに言った。
「ええ。そしてその時こそ、麻薬から覚めた患者たちが、本当の痛みを叫び始める時です。彼らは気づくでしょう。自分たちが見ていた夢が、ただの幻想に過ぎなかったことに。そしてその怒りの矛先は、ウォール街へ、そしてホワイトハウスへと向かう。この国は内側から燃え上がることになる」
二人の間に重い沈黙が落ちた。ジャズの物悲しいブルースの旋律が、扉の隙間から漏れ聞こえてくる。
「……ミスター・ホプキンス」
東郷は、静かに問いかけた。
「あなたと、あなたのボスであるルーズベルト知事は、その時どうされるおつもりか」
「……我々は、患者に新しい『希望』という名の薬を処方します」
ホプキンスはきっぱりと言った。
「労働者の権利を法的に保護し、彼らが再び団結し、自らの分け前を正当に要求できる社会を作る。富の再分配機能を、国家の手で再生させるのです。……それが、我々の『ニューディール』の核心です」
「……素晴らしい」
東郷は、心からの賞賛の響きを込めて言った。
「それは、まさに国家の外科手術だ」
彼は、テーブルの上の封筒を、ホプキンスの方へそっと押しやった。
「……これはその手術のための、ささやかなメス代だとお考えください。我々もまた、貴国の健全な回復を心から願っておりますので」
その言葉の裏にある冷たい計算を、ホプキンスは敢えて見ないふりをした。
東郷はアメリカの崩壊を望んでいるのではない。彼は崩壊の「後」に、この国の権力を握るのが誰なのかを、正確に見極めに来たのだ。そしてその新しい権力者との、パイプを築くために。
会談が終わり、東郷は一人暖かくなりだしたニューヨークの夜道を歩いていた。
彼の頭の中では、ホプキンスから得た生々しい情報が一つの報告書として再構成されていく。それは霞が関の海軍省にいる堀や沢本、そして日本海軍らに宛てた、この国の未来を予言する極秘のカルテだった。
宛先:海軍省軍務局長 堀悌吉 殿
発信:駐米武官 東郷一成
件名:米国社会構造分析(第一報)―『静かなる時限爆弾』について
1. 総論
当地における経済的繁栄は、その外見とは裏腹に、極めて脆弱な社会基盤の上に成り立っている。生産力の飛躍的向上に対し、国内の購買力が追いついていない「構造的矛盾」を内包しており、これは遠からず深刻な経済的カタストロフィ(恐慌)を引き起こす可能性が極めて高い。
2. 労働運動の形骸化
表面的にはストライキの減少など、労使関係は安定しているように見える。しかしその実態は政府および企業による巧みな弾圧と、「福祉資本主義」という名のアメによって、労働者が団結し富の再分配を要求する機能を完全に麻痺させられた結果に過ぎない。
これは、国家経済の血流における「動脈硬化」に等しい。富は資本家という心臓部にのみ滞留し、末端の細胞(労働者)には行き渡っていない。
3. 「アメリカン・ドリーム」という名の麻薬
株式市場の異常な高騰は、労働者階級に対し「個人としての成功」という幻想を振りまき、階級としての連帯感を希薄化させている。これは社会的不満という名のマグマを一時的に冷却しているに過ぎない。市場が崩壊した時、この麻薬から覚めた大衆の怒りは既存の政治・経済システムそのものに向けられるであろう。
4. 結論および我が国への示唆
来るべき恐慌は、単なる経済的後退ではない。それはアメリカという国家の社会契約そのものが問われる、革命的な状況を生み出す可能性がある。
この混乱の中から、必ずや新しい政治指導者が台頭する。その最有力候補は現ニューヨーク州知事、フランクリン・デラノ・ルーズベルトであると推察される。彼は国家による富の再分配と、労働者の権利保護を掲げており、恐慌後のアメリカ国民の新たな「希望」となる可能性が高い。
来るべき嵐の中で、我々は高みの見物を決め込むのではない。嵐の後の新しい世界の設計図を描くのだ。
詳細は、次回の報告にて。
追伸:
当地のジャズという音楽は、実に興味深い。それは抑圧された者たちの魂の叫びであり、同時に新しい時代のリズムを告げる産声でもあるようだ。この国の本当の心臓の鼓動は、ウォール街のティッカーテープの音ではなく、ハーレムの薄暗い地下室で鳴り響いているのかもしれない。
東郷は報告書の最後の行を書き終えると、ペンを置いた。
春の風は、いつの間にか激しさを増していた。
彼は窓の外を見つめながら、静かにつぶやいた。
「……嵐は、近いな」
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