鏡の中のガバナンス
時:1929年(昭和四年)、春
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
東郷一成は、アナポリス時代の旧友であり、今や海軍作戦本部で情報分析の任にあるレイモンド・スプルーアンスと、暖炉の火を挟んで静かにチェスを指していた。盤上の攻防は、そのまま太平洋を挟んだ両国の静かなる戦争を象徴しているかのようだった。
「……カズ」
スプルーアンスは、クイーンを動かしながら、探るような目で言った。
「君の“制度”、その巧妙さには脱帽するよ。だが一つだけ、我々アメリカ人がどうしても理解できない、そして容認できない点がある」
「と、申されますと?」
東郷はナイトを動かし、相手のビショップに狙いをつけながら応じた。
「ガバナンスの問題だ」
スプルーアンスの声は低く、真剣だった。
「君のNCPC債は、その発行量が海軍という一軍事組織の内部で決められている。君は『軍法会議、枢密院、大審院の三重の監査がある』と言うが、それは全て君たちの“身内”ではないか。外部からの、民主的なチェックが一切効いていない。これはあまりにも独善的で、危険すぎる。いつか必ず暴走する」
その、アメリカの民主主義の根幹から発せられたであろう正論。
しかし東郷は少しも動じなかった。彼はゆっくりと顔を上げ、その唇にかすかな、しかし刃物のように鋭い笑みを浮かべた。
「……面白いことをおっしゃいますね、レイモンド先輩」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「先輩がおっしゃる『外部からの民主的なチェック』……それは例えば貴国のドルにおいては、どのように機能しているのですかな?」
「何?」
スプルーアンスは、予期せぬ反撃に目を見開いた。
「お言葉ですが、先輩」
東郷は続けた。その口調は、まるで大学の講義のようだった。
「貴国の通貨発行の最終的な決定権は、誰が持っていますか? 選挙で選ばれた議会ですか? 国民の代表である大統領ですか? 違いますね。それは誰一人として国民から選挙で選ばれたわけではない、一握りの銀行家たちが支配する、連邦準備制度理事会(FRB)という、極めて“私的”な組織です」
東郷はチェスの駒から手を離し、スプルーアンスの目をまっすぐに見た。
「FRBの理事たちは大統領が指名し、上院が承認する、と貴方たちは言うでしょう。しかしその理事たちを実質的に選出し、その金融政策に絶大な影響力を行使しているのは誰ですかな?
ニューヨークやシカゴの、巨大な民間銀行そのものではありませんか。彼らは自らの利益のために金利を動かし、市場に資金を供給し、そして貴国の経済の生殺与奪の権を握っている。……先輩、これは一体どこが『民主的』なのですかな?」
スプルーアンスは言葉に詰まった。それはアメリカの金融システムの誰もが知っていながら、誰も公には口にしない「不都合な真実」だった。
「我々の制度債は、確かに海軍という組織が主導しています」
東郷は静かに、しかし畳み掛けるように言った。
「しかしその監査を行う枢密院は、元老や各界の重鎮からなる、天皇陛下の最高諮問機関です。大審院はこの国の司法の頂点に立つ、独立した存在です。彼らは決して海軍の“身内”ではない。むしろ我々軍部が暴走せぬよう、国家の最高権威として我々を監視する、正真正銘の『外部機関』です」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「それに引き換え、貴国のFRBはどうです? 彼らを、一体誰が監視しているのですか? 議会は、彼らの専門的で難解な議論の前に、ただ沈黙するしかない。国民は、自分たちの生活を左右する決定が、密室で下されていることすら知らない。……先輩、率直に申し上げて、どちらのシステムがより『独善的』で『危険』に見えますかな?」
それは、完璧なカウンターだった。
東郷はアメリカが振りかざした「ガバナンス」という名の正義の剣を奪い取り、その切っ先を相手自身の心臓部に突きつけていたのだ。
「……詭弁だ、カズ」
スプルーアンスは、絞り出すように言った。
「FRBは、少なくとも政府から独立している。だからこそ政治の気まぐれに左右されない、客観的な金融政策が可能なのだ。議会への定期的な報告義務もあるし、その議事録は公開されている。透明性は確保されているはずだ!」
「独立、ですか」
東郷は、再び冷ややかに微笑んだ。
「政府からは独立しているかもしれませんな。しかし、ウォール街からは独立していない。……違いますかな? そしてその『透明性』ですが、先輩。議事録が公開されるのは、決定が下された後、市場が完全に反応し終わった後ではありませんか? それは『事後報告』であって、国民が意思決定のプロセスそのものに参加する『民主的統制』とは、全く似て非なるものだと私は考えますが」
彼は、暖炉の火を見つめた。
「貴国の偉大な初代大統領、ジョージ・ワシントンは、こう警告されたと聞きます。
『政府が銀行からカネを借りるようになれば、銀行が政府を支配するようになる』
と。……先輩、今の貴国は、まさにその状態にあるのではないですか? 政府はウォール街に莫大な借金を負い、その金融政策は、常にウォール街の顔色をうかがっている。……主人は、一体どちらなのですかな?」
スプルーアンスは、完全に沈黙した。
目の前の男は、アメリカの民主主義の、そして資本主義の最も美しく、そして最も醜い矛盾の核心をいとも容易く暴いてみせた。
「……我々は、少なくとも正直です」
東郷は、静かに言った。
「我々の制度債は、国家の軍事力という、目に見える『力』によってその価値が保証されていると公言している。国民もそれを理解した上で受け入れている。
……しかし、貴方の国のドルは違う。『国民の信用』という、美しい言葉でその価値を飾り立てながら、その実態は、一握りの銀行家の欲望と打算によって動かされている。そしてその欲望が生み出した熱狂が、いつか必ず破綻することを、誰もが見て見ぬふりをしている。……その時本当に国民を守れるのは、どちらの“カネ”だとお思いか?」
東郷は、チェス盤に視線を戻した。
そして先ほどから狙っていたナイトを、静かに動かした。
「……チェックメイト、ですかな」
その一言は、盤上のキングに向けられたものではなかった。
それはアメリカという国家がその建国以来、ひた隠しにしてきた「ガバナンスの不在」という名の王に向けられた静かな、そして揺るぎない最後通牒であった。
スプルーアンスは、ゆっくりと自らのキングを倒した。
彼はこの日、チェスで負けただけではなかった。
自らがその生涯をかけて守ると誓った、この国の「正義」そのものが、実は砂上の楼閣に過ぎなかったのかもしれないという、恐るべき真実を突きつけられたのだ。
「……カズ」
彼は、力なく言った。
「君は、一体何と戦っているんだ」
その問いに、東郷は答えなかった。
ただ暖炉の炎が、彼の静かな横顔に深い影を落としていた。外では、ワシントンの春風が大使館の窓ガラスを、指先で叩くように囁いていた。桜の花びらが、ポトマック川の水面を舞う季節――だがこの部屋の中では、そんな柔らかな風など届くはずもなかった。
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