最後の切り札、最初の墓標
時:1929年(昭和四年)、春
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス、オーバルオフィス
オーバルオフィスの空気は、死体安置所のそれだった。
合衆国最高裁判所が『合衆国対NCPC債事件』で事実上の「敗北宣言」を下してから、数日が過ぎていた。しかしその衝撃は癒えるどころか、日ごとにワシントンの中枢神経を麻痺させていく毒のように、じわじわと全身に回っていた。
ハーバート・フーヴァー第31代合衆国大統領は、その毒の中心で静かに耐えていた。
彼の前には、この国の最も重要な閣僚たちが集まっている。だがその顔にはもはや、世界最強の国家を率いる指導者の威厳はなかった。そこにいるのは巨大な嵐の前でなすすべもなく立ち尽くす、遭難者たちの集団だった。
「……選択肢は、もはや一つしか残されておらん」
最初に沈黙を破ったのは、財務長官アンドリュー・メロンだった。その声は公聴会での敗北と、その後のウォール街の狂乱によってすっかり自信を失い、か細く響いた。
「法があの日本の怪物を裁けぬというのなら。……法を超えた力で、これを叩き潰すしかない」
「……超法規的措置、か」
フーヴァーはその言葉を静かにつぶやいた。それは彼が最も嫌う言葉だった。自由な市場経済を信奉するエンジニアとして、政府による市場への「介入」は最も愚かで、最も危険な行為だと信じてきた。
「具体的にはどうするのだ、アンドリュー」
「大統領令です」メロンは乾いた唇を舐めた。
「『国家安全保障上の脅威』を理由に、合衆国内におけるNCPC債の全ての取引、保有、そしてドルへの兌換を、緊急大統領令によって全面的に禁止するのです。最高裁の判断など関係ない。これはこの国の主権を守るための戦いなのですから」
そのあまりにも過激な提案に、国務長官のヘンリー・スティムソンが、青ざめた顔で割って入った。
「待て、アンドリュー! 正気か! それはアメリカが自ら築き上げてきた『法の支配』という、この国の根幹を自らの手で破壊する行為だぞ!」
「ならばどうしろと言うのだ、ヘンリー!」
メロンは声を荒らげた。
「君の信じる『法』とやらが、あの日本の猿に完膚なきまでに論破されたではないか! 我々は法廷という名の茶番で、これ以上時間を無駄にしている余裕はないのだ!」
「しかし、それでは我々は国際社会から孤立する! 九か国条約の精神を踏みにじり、自らの判決すら守れぬ『ルール破りの偽善者』として、世界中から非難されることになるのだぞ!」
オーバルオフィスは、二人の閣僚の怒号が飛び交う醜い闘鶏場と化した。
フーヴァーは、その光景をただ黙って見つめていた。彼の頭の中では、冷静なエンジニアとしての部分が、この「超法規的措置」という名の機械がもたらすであろう、致命的な副作用を計算し尽くしていた。
まず、国民がこの大統領令をどう受け止めるか。
フーヴァーの脳裏に、数年前にこの国を揺るがしたあの忌まわしい記憶が蘇る。
「オハイオ・ギャング」
「ティーポット・ドーム事件」
共和党政権に深く刻み込まれた、汚職の烙印。
(もし私が今『国家の危機だ!』と叫び、ウォール街が熱狂しているNCPC債を禁止したら、国民は何と思うだろうか?)
シカゴの工場労働者はこう思うだろう。
「またか。ワシントンの金持ちどもが、俺たちの儲け話を横取りするつもりだ」と。
アイオワの農夫はこう吐き捨てるだろう。
「政府の言う『国益』なんぞ信用できるか。奴らは、いつも自分たちのことしか考えていない」と。
政府が「正当性」を失っている。超法規的措置という最後の切り札を切るには、国民からの絶対的な信頼が必要だ。だが今の共和党政権には、それがない。このカードを切った瞬間それは「独裁者の暴走」と見なされ、国内から猛烈な反発を食らうだろう。
次に、市場がどう反応するか。
フーヴァーは、アメリカの街角の現実を思い浮かべた。スピークイージー(闇酒場)の薄暗い灯り。アル・カポネのようなギャングが闊歩するシカゴの裏通り。
「禁酒法」
高潔な理想が、いかに悲惨な現実を生むか。アメリカ国民は、もうそれを嫌というほど学んでしまった。政府が何かを「禁止」すれば、それは必ず闇市場を生み、その価値をかえって高騰させるという皮肉な現実を。
(もし私がNCPC債を『悪しき金融商品だ』と断罪し、禁止したら市場はどう動くだろうか?)
ウォール街の投機家たちはこう叫ぶだろう。
「来たぞ! 金融版の禁酒法だ! これは『金融版の密造酒』になる! 今のうちに買い占めろ!」と。
NCPC債は表の市場から姿を消すだろう。だがその代わりに、アンダーグラウンドの経済でより強力な「闇の通貨」として、深く、広く根を張ることになる。政府の権威は地に落ち、市場の混乱はさらに増幅されるだけだ。
そして最後に、国際社会がどう見るか。
フーヴァーの脳裏には、自らもハーディング政権からその構築に心血を注いできた「ワシントン体制」の、美しい理想が浮かんでいた。法と対話による、新しい国際秩序。
(もし私が最高裁の判断を無視し、大統領令という『一方的な圧力』で日本の金融資産を叩き潰したら、世界は何と言うだろうか?)
ロンドンはこう嘲笑うだろう。「アメリカは自らが作ったルールブックを、気分次第で破り捨てる野蛮人だ」と。
パリは、こう囁くだろう。「銀売といい、アングロサクソンは信用ならん。我々は新しいパートナー(日本)と、新しい秩序を築くべきだ」と。
そして何よりも、東京はこう宣言するだろう。
「見ろ! これがアメリカの正義の正体だ! 我々が法廷闘争で勝ち取った正当な権利を、彼らは暴力で踏みにじろうとしている! もはや対話の余地はない!」と。
日本に「被害者」としての大義名分を与え、アメリカを「ルール破りの偽善者」として、国際社会から孤立させる。それは外交的な自殺行為に他ならなかった。
「……静粛に」
フーヴァーの低く、しかし、有無を言わせぬ声が醜い罵り合いを遮った。
メロンもスティムソンも、はっとしたように口をつぐんだ。
「……アンドリュー」フーヴァーは、メロンに向き直った。
「君の言う通り、これは戦いだ。だが、君は戦う相手を間違えている」
彼は、オーバルオフィスの窓辺に立つと、緑が茂り出したホワイトハウスの庭を見下ろした。
「我々の敵は日本の海軍ではない。我々の敵は、我々自身の中にいるのだ。……この国の腐敗。制御不能な市場。そして何よりも、政府への根深い不信感。……東郷という男は、その我々の弱点をただ静かに突いてきたに過ぎん」
彼は閣僚たちに向き直った。その顔には、もはや迷いはなかった。そこには自らの敗北を認め、そしてその上で、この国をどう導くべきかを決断した指導者の顔があった。
「……超法規的措置は、取らない」
その一言は、最終決定だった。
「……しかし、閣下!」メロンが食い下がろうとした。
「ならん」フーヴァーは、きっぱりと言った。
「私が今ここで独裁者のように振る舞えば、この国は内側から崩壊する。国民の信頼も、法の支配も、そして国際社会からの信用も、全てを失うことになる。……それこそ東郷の思う壺だ。彼は我々が自滅するのを、ただ待っているのだからな」
彼は執務机に戻ると、一枚の白紙の便箋を取った。
「私は、今から日本の首相に親書を書く」
「……何とお書きになるのですか」
「こう書く」フーヴァーは、ペンを走らせ始めた。
「『貴国の制度債とやらが、我が国の市場に、少なからぬ混乱を招いている。……このままでは、両国の友好関係に深刻な亀裂が生じかねん。……来たるロンドンでの軍縮会議の席で、この問題についても率直な意見交換を願いたい』と」
それはアメリカという超大国が、極東の島国に対し、初めて「対話」を求めた瞬間だった。
それは敗北宣言だった。
そして同時に、この国が破滅の淵から這い上がるための最後の、そして唯一の道でもあった。
「……ヘンリー」フーヴァーは、スティムソンに言った。
「君を、ロンドン会議の首席代表に任命する。……君の信じる『法の支配』とやらを、今度こそ、本当の意味で世界に示してきてくれたまえ。……軍艦の数ではなく、対話の力でな」
スティムソンは、何も言えなかった。
ただ、深く深く頭を下げるだけだった。
その日、ホワイトハウスのオーバルオフィスで、一つの戦争が静かに終わった。
そして全く新しい、より困難な戦争が始まろうとしていた。
その戦いの名は「交渉」という。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




