時空を超えた絶叫
合衆国最高裁判所が下した判決――否、それは判決という名の「白旗」だった。その報は凍てつく冬のアメリカ大陸を瞬く間に駆け巡り、それぞれの場所で、それぞれの絶叫を生んだ。それは一つの神殿が崩れ落ちる時に響き渡る、無数の断末魔の叫びだった。
第一の絶叫はウォール街、JPモルガン商会で起きた。
ニューヨークの空を突き刺す摩天楼の一室。世界経済の心臓部で、トーマス・ラモントはティッカーテープが吐き出す文字を、もはや神の啓示でも見るかのように見つめていた。
『最高裁、NCPC債ヲ違法ト断ゼズ。議会判断へ』
「…………勝った」
彼の唇から漏れたのは歓喜というよりも、むしろ畏怖に近い囁きだった。
隣でシャンパンの栓を抜く音が、祝砲のように響く。若いトレーダーたちが雄叫びを上げ、抱き合っている。
「見たか! 国債よりも安全で、非課税! 神は我々を見捨ててはいなかった!」
「“制度債先物”、リミットストップ高だ! 今夜は女と酒だ!」
熱狂の渦の中心で、ラモントは一人冷めていた。
彼は、この勝利が自分たちの手によるものではないことを知っていた。これはあの東郷という日本人が、アメリカの法体系そのものを人質にとって勝ち取った勝利だ。
(我々は、神輿の上で踊っているだけだ。そしてその神輿を担いでいるのは、我々が最も警戒すべき異教の神官なのだ)
だが、そんなことはどうでもよかった。
若手法律顧問のジェンキンスが、血走った目で駆け寄ってきた。
「ラモントさん! これで我々の“聖域”は、国家の最高権威によって保証された! もはや怖いものはない! 新しいデリバティブを、今すぐ市場に投入しましょう!」
そうだ。怖いものなど、何もない。
儲かるのなら、担がれる神輿が日本の軍神であろうと、悪魔であろうと、知ったことか。
ラモントは、窓の外に広がるニューヨークの街並みを見下ろした。その摩天楼が、まるで巨大な墓標のように見えた。
「……ああ」彼は、乾いた声で言った。
「祝杯を挙げよう。……この、偉大なるアメリカの“好景気”に」
彼の絶叫は、シャンパンの泡の音にかき消された。それは、理性が欲望に完全に屈服した瞬間の、静かな、そして心地よい絶叫だった。
財務省のメロン長官は、その報を執務室の電話で聞いた。受話器を置いた彼の手はかすかに震えていた。彼は自らが信奉してきた「市場の自由」という名の怪物に、自らの手足を食べられているのをただ黙って見ているしかない。止める術は、もうない。彼の神殿は、自らが信仰する神によって内側から食い荒らされようとしていた。
第二の絶叫はシカゴ、ユニオン駅で起きた。
蒸気機関車の黒い煙が、凍てついた空にわだかまり、汽笛が哀れな獣のように長く尾を引いた。プラットホームのベンチで、アイオワから来たという農夫が古びた新聞を握りしめ、肩を震わせていた。
「……なんでだ」
その声は誰に聞かせるでもなく、冬の風に溶けていった。
「俺たちが汗水流して作ったトウモロコシは、二束三文で買い叩かれる。銀行はびた一文、金を貸してくれねえ。娘の学費も払えねえ。……なのになんだってんだ、この記事は」
彼の指が指し示した、新聞の三面記事。
『日本海軍ノ“制度債”、農村支援ニ成果。東北地方、米ノ収穫量ガ過去最高ニ』
「日本の百姓は、海軍の紙切れで豊かになってるだと? ……俺たちは、この国の百姓じゃなかったのか? フーヴァー大統領は『アメリカの繁栄』とか言ってたじゃねえか。その繁栄はどこにあるんだ!」
彼は、新聞をくしゃりと握り潰した。
「……最高裁がその日本の紙切れを、この国で使ってもいい、だと? ……俺たちが納めた税金で飯を食ってるワシントンの偉い裁判官様が、そう決めたってのか?」
怒り。
いや、違う。それはもはや怒りを通り越した、深い深い絶望だった。
この国は自分たちを見捨てたのだ、と。
遠い東洋の島国の軍隊の方が、自分たちの政府よりも、よほど慈悲深いのではないか、と。
「……ちくしょう……ちくしょうッ!!」
彼の絶叫は、次の汽笛の音に飲み込まれた。それは自らが信じてきた「アメリカ」という名の祖国に、その背中から裏切られた男の、どうしようもない慟哭だった。
――
時:21世紀、現代
場所:ワシントンD.C. 合衆国最高裁判所、ギルバート首席判事の執務室
執務室の窓からは、ライトアップされた国会議事堂の白いドームが、夜の闇に荘厳に浮かび上がっていた。ジョン・ギルバート首席判事は、ローテーブルに置かれた一杯のスコッチにも手を付けず、書斎の壁一面を埋め尽くす革張りの法律書を、ただ黙って眺めていた。どの巻も、アメリカという国家が築き上げてきた「法の支配」という偉大な歴史そのものだ。
しかし今夜、彼の目にはその輝かしい歴史が、自らの首を絞める絞首刑のロープのように見えていた。
「……読んだかね、アメリア」
ギルバートは、部屋の隅のソファに座る司法省訟務秘書のアメリア・サンダースに、背を向けたまま静かに問いかけた。アメリアはこの国で最も優秀な法律家の一人であり、そして彼の最も信頼する友人でもあった。
彼女の膝の上には、タブレット端末が開かれている。画面に映し出されているのは、最近機密指定を解除されたばかりの、1929年の最高裁判決に関する山のような資料だった。
『合衆国対海軍制度信用証券事件』
「ええ、読みましたわ、ジョン」
アメリアの声は、いつもの快活さが嘘のように乾いていた。
「信じられない……。いいえ、信じたくない、というのが本音です。これは本当に私たちの国の最高裁が下した判決なのですか?」
「ああ。悲しいかな、その通りだ」
ギルバートはゆっくりと振り返った。その顔はまるで百年の責め苦を一人で背負ったかのように深く、そして暗かった。
「我々の偉大な先達たちは、たった一人の日本人に、この神殿の、まさに中央で完膚なきまでに打ち負かされたのだ。そしてその敗北の傷跡は今もなお、この国の法体系の最も深い場所に、消えない亡霊として巣食っている」
ギルバートは、タブレットの一文を指さした。それは、当時の首席判事が下した、あの玉虫色の判決文の核心部分だった。
『……本法廷は、当該証券を違法と断ぜず。その大規模流通に関する規制の是非は、立法府たる議会の判断に委ねる…』
「一見すると、これは賢明な判断に見える」
ギルバートは、自嘲気味に言った。
「司法が政治に深入りせず三権分立の原則を守った、と。法学部の教科書にはそう書いてあるだろう。だが、その結果何が起きた?」
彼の声に、静かな怒りがこもり始めた。
「この判決はアメリカの法体系に、決して存在してはならない『例外』を作り出してしまったのだ!『国家の主権が及ぶが、課税権は及ばないかもしれない、謎の金融領域』という名の、法的ブラックホールを!」
彼は執務室を歩き始めた。その足取りは、檻の中を彷徨う獣のようだった。
「その後ウォール街の強欲な法律家たちが、このブラックホールをどれほど悪用してきたか。タックスヘイブンを利用した租税回避スキーム、規制の及ばないデリバティブ取引、そして最近では……」
彼は、忌々しげに吐き捨てた。
「……暗号資産だ」
アメリアは息を呑んだ。
「まさか……ジョン、あなたは今の暗号資産を巡る法的な混乱の根源が、あの1929年の判決にあると?」
「根源そのものだ!」
ギルバートは、机を叩いた。
「見ろ! 彼らの主張は、あの東郷という男のロジックと瓜二つではないか!」
彼は、まるで法廷で弁論を行うかのように、指を折りながら叫んだ。
「彼らは言う!『我々のトークンは、通貨ではない! 分散型のネットワーク上で価値を記録する、ただのデジタルデータだ!』と。……東郷が『NCPC債は任務の記録だ』と言ったのと、全く同じ詭弁だ!」
「彼らは言う!『我々のシステムは、国境を超えたグローバルな存在だ! 特定の国家の規制権は及ばない!』と。……東郷が『旗国主義』と『非法人化領土』の論理で“浮かぶ聖域”を主張したのと、全く同じ論理だ!」
「そして彼らは言う!『この新しい技術を規制しようとすることはイノベーションを阻害し、アメリカの国際競争力を削ぐことになる!』と。……1929年のウォール街が、『市場の自由』を盾にNCPC債を擁護したのと、全く同じ脅し文句だ!」
ギルバートの絶叫が、静かな執務室に響き渡った。
「我々は百年間、同じ悪夢を見続けているのだよ、アメリア!
東郷一成という男が、我々の法体系に埋め込んだ『バグ』。そのバグが、時代と共に形を変え、暗号資産という新しい亡霊となって、今再び我々の前に現れているのだ!そして我々司法は、あの1929年の『前例』がある限り、またしても有効な一手を打てずにいる!」
「我々が『これは証券だ』と言えば、彼らは『いや、コモディティだ』と言う。
『通貨だ』と言えば『いや、ただのプログラムコードだ』と言う。
あの公聴会で、スティムソンとメロンが東郷にやられたのと全く同じ『定義の地獄』に、我々はまたしても引きずり込まれているのだ!」
彼はグラスのスコッチを一気に呷った。喉が焼けるように熱い。
「……ジョン」アメリアが、真っ青な顔でかろうじて声を絞り出した。
「……では、私たちはどうすればいいのですか。このまま、シリコンバレーの天才たちとウォール街の投機家たちが、国家の管理を離れたところで、新しい金融秩序を作り上げていくのをただ黙って見ているしかないのですか」
その問いに、ギルバートは答えられなかった。
彼はただ窓の外の静かで、しかしどこか不気味なワシントンの夜景を見つめるだけだった。
(……東郷一成)
彼は心の中で、百年前の亡霊に語りかけた。
(君は、一体どれほど先まで見えていたのだ。君が放ったあの“法のブーメラン”は、百年という時を超えて、今もなお我々の頭上を飛び続け、我々自身を傷つけている)
(君は、ただアメリカの金融システムを攻撃したのではなかった。君は我々がその根幹に抱える、致命的な自己矛盾――『自由』と『規制』、『革新』と『秩序』という、永遠に解決不能な矛盾そのものを白日の下に晒してしまったのだ……)
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