酒の注文リスト
前話の続きです。
午後の審理は、判事側の問いが鋭さを増した。ハーロウが、鋼鉄に布を巻いたような声音で問う。
「ミスター東郷、制度債の“記録性”を強調される。だが、記録が市場で売買されるとき、あなたはそれをどう名付ける?」
「我々は“義務の履行証”と呼びます。名付けは、所有を意味しません」
「所有の転移が起きるのに?」
「起きます。が、それは“任務の履行”の権利の譲渡であり、“貨幣の発行”ではない」
モーガンが重い声で追撃する。
「では、米国内でNCPC債を担保に貸付が行われる現状は?」
「貴国の民間銀行の裁量でしょう。われわれが指図することではない。……闘牛士が赤布を振っても、牛が突進するのは牛の自由です」
傍聴席に押し殺した笑いが走る。ハートウェルは奥歯を噛んだ。法廷で比喩は危険だ――だがこの男は比喩を鎖のように使っている。この鎖は見えないが、動けば絡まる。
首席判事が、わずかに身体を前へ。
「ミスター東郷。最後に一つ。あなたは、合衆国の“法の支配”を尊重すると述べた。ならばあなたの発明が、この国の法を内側から食い荒らす可能性を、どう考える?」
東郷は静かにうなずいた。
「法が自らの過去と矛盾する地点に来たとき、それを正す権限を持つのは、司法ではなく立法、すなわち人民の代表でありましょう。――私は、貴国の法を尊重しているからこそ、ここに来ました。決めるのは常に貴国の歴史であり、私ではありません」
沈黙。ほんの一拍、誰も呼吸しなかった。
「……休廷」
槌が落ち、法廷の空気が解ける。
――
評議室。壁に架けられた古い地図、鍵のかかった本棚。コーヒーの浅い香り。九人の判事が半円の机を囲む。書記官は退席し、扉に鍵が回る。
首席判事が、ゆっくり時計を外す癖を抑えながら切り出す。
「さて。われわれはどうする?」
モーガンが最初に口を開いた。手の甲は皺だらけだが、拳はまだ固い。
「政府に肩入れしたい。だがDownes を投げ捨てれば、法廷は自分の影に噛みつく犬になる。DeLima は“場所”を重視した。東郷は、その石を上手に踏む」
ハーロウが頷く。
「本件は“権利のアクセス”の問題に似ている。法は、自らの延べた橋を途中で引っ込めるのが下手だ。……橋を渡ってきたのは、予期せざる客だったとしても」
年長のラングドンは、沈黙ののち低く言った。
「“法のブーメラン”――書記官がいうとおりだ。否定すれば、米比戦争の正当化の一部を否定することになる。承認すれば、異質な金融圏を抱え込む。この部屋で“正解”は出まい。われわれは、玉虫の殻を纏うしかない」
若い判事の一人が、机の縁を指で叩いた。
「議会に投げるのですか?」
首席判事は時計の鎖を指に巻き直し、静かに頷いた。
「司法が単独で答えを出せない問題がある。われわれは否定も肯定もせず、原則だけを敷いて引く。――制度債は通貨ではない。だが課税の直接適用から逃れる場合がある。国内での大規模流通は議会の立法権の範囲だ、と」
「前例がない」とモーガン。
「前例は、今つくる」と首席判事は言い切った。
――
翌朝。判決は「留保」を本旨とする玉虫色となり、法廷はそれを読み上げた。新聞は紙面に困った。勝者の名前を書けない勝負である。タイムズは“最高裁、制度債を違法と断ぜず 議会判断へ”と幅広く書き、ウォール・ストリート・ジャーナルは“法は市場に門を開く――NCPC債、事実上容認”と踊らせた。コラム欄には、翌週の先物会議の話題が早くも乗った。
司法省のハートウェルは、記者に囲まれながら口角を引き上げることに成功した。笑っている顔筋を、両肩の重さが嘲る。
「政府の立場は尊重されました。議会が適切に対応するでしょう」
その言葉が虚しく石段を転がるのを、ハートウェル自身がいちばんよく聞いていた。
被告側卓の端、東郷は、深く頭を下げただけで何も言わなかった。ワシントンの空は透明で、遠くに凍てついた太陽が光っていた。彼はコートの襟を立て、石段をゆっくり降りた。階下で記者が叫ぶ。
「ミスター東郷、コメントを! あなたは勝ったのですか、それとも……」
「私は、御国の法を尊重します。それが貴国の歴史の証明だからです」
それがすべてだった。
彼は群衆をかき分けるように、待たせていた大使館の車へと向かう。その途中彼はふと足を止め、傍聴席から出てきた一人の初老の紳士と視線を交わした。
ハーヴィー・サリヴァン。ウォール街最強の法律家。
二人の間に言葉はなかった。ただ東郷がかすかに、本当に気づかれるか気づかれないかというほどにかすかに、口角を上げた。それは共に最高の仕事をした“共犯者”にだけ分かる、静かな合図だった。
サリヴァンもまた、帽子のつばに軽く指を触れて応えた。彼の目には「お見事でした。さて、ここからは我々の出番ですな」という、冷たい光が宿っていた。
東郷は車に乗り込むと、深く息を吐いた。
司法という神殿は崩れた。いや、自分が崩したのではない。ウォール街というより強欲でより巨大な神殿が、古い神殿を食い破っただけだ。
そして自分は、その新しい神殿の神官たちに最高の「生贄」を捧げたに過ぎない。車窓から見えるワシントンの空はどこまでも高く、そして冷たく澄み渡っていた。
――
【極秘通信】
宛先:合衆国海軍作戦本部 全将校
発信者:作戦部情報課
件名:地獄で飲むための酒の注文リスト
諸君。今夜、我々は飲まなければならない。禁酒法など知ったことか。これは命令だ。飲まずには正気を保てん。以下に我々が直面している喜劇的かつ終末的な状況と、それに対応するための推奨アルコールをリストアップする。各自近所の闇酒場で調達し、今夜2200に作戦本部に参集されたし。ボトルは各自持参のこと。
議題1:最高裁判決という名の「国家の自決」について
最高裁が、NCPC債について「違法と断ぜず議会判断へ」という、歴史上最も無責任な判決を下しやがった。
コントだろ、これ。我が国の最高司法機関が、九人の賢者が寄ってたかって出した結論が「分かりません。議会で決めてください」だぞ。ガキの喧嘩の仲裁か?
しかも、東郷の野郎が法廷で何を言ったか聞いたか? 「フィリピンに適用した論理を、金融に適用して何が違うのです?」だと。我々が帝国主義の汚名を着てまでフィリピンを統治したその「法の歪み」を、今度は奴が自分の金儲けの道具として使いやがった。
アメリカの帝国主義の原罪をアメリカの最高裁に突きつけて、完膚なきまでに黙らせたんだ。もはや喧嘩にすらなっていない。これは法廷ではない。歴史の授業だ。我々が被告席に座らされた。
推奨アルコールはバスタブ・ジン。 自家製の、安くて頭がガンガンするやつだ。どうせこの国の法律など、その程度の価値しかないのだから。法律家たちが作ったような味も素っ気もない代物を飲んで、彼らの無能さに乾杯しよう。
議題2:我らがオレンジ・プランの現状について
1. 敵の軍事予算は、事実上「無限」になった。
2. 敵の同盟国が、大西洋に一つ増えた。
3. 敵の経済力は、我が国のウォール街が嬉々として強化してやっている。
4. 敵の最高機密兵器(特型駆逐艦)は、今頃フランスの造船所でコピーされている。
オレンジ・プラン? あんなものは、もうトイレットペーパーにもならん。敵の戦力も、兵站も、同盟関係も全てが予測不能。
我々は今霧の中で目隠しをされて、片足でボクシングをやらされようとしている。しかもレフェリー(最高裁)は「ルールは自分で考えてね」と言い、観客(ウォール街)は敵に大声援を送っている。冗談じゃない。これ以上、どうやって戦争計画を立てろと言うんだ。
推奨アルコールは純粋なエタノール。 もはや酒の味などどうでもいい。ただ、意識を飛ばしたい。作戦本部の海図を燃やすための燃料としても使えるかもしれん。
諸君、我々はもはや軍人ではないのかもしれん。我々は壮大な国家規模のコントの中で、最も滑稽な役を演じさせられている道化師だ。
敵は、東郷一成ではない。
敵は、日本海軍ですらない。
本当の敵は、この国の“システム”そのものだ。
法の支配を叫びながら、自らの法の矛盾を放置して足をすくわれる司法。
国際協調を訴えながら、同盟国に一瞬で裏切られる外交。
そして、国益よりも目先の利益を優先する強欲な資本主義。
東郷は、我々の艦隊と戦っているのではない。彼はこの国の「建国の理念」そのものと戦っているのだ。そして悲しいかな、今のところ奴が優勢だ。
今夜は飲もう。
そして、明日考えよう。
このどうしようもなく滑稽で、どうしようもなく愛すべき祖国のために、我々に何ができるのかを。
……まあ、どうせ明日はひどい二日酔いで、何も考えられんだろうがな。
以上だ。
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