大西洋の戦慄
時:1929年(昭和四年)、春
場所:ワシントンD.C. 国務省長官室
その日のワシントンは、嵐の前の不気味な静けさに包まれていた。来たるロンドン海軍軍縮条約を前に、国務省、海軍省、そしてホワイトハウスは対日交渉戦略の最終調整に追われていた。議題はただ一つ。日本の補助艦保有量を、いかにして「対米六割」というワシントン体制の軛に縛り付けておくか。
国務長官ヘンリー・スティムソンは、自らが主宰するこの「正義」の戦いに、揺るぎない自信を持っていた。銀売介入の失敗と公聴会での屈辱は、彼の心に深い傷を残した。だが彼はそこから学んだ。東郷一成という男は、金融という闇の世界では悪魔的な力を発揮する。ならば、今度こそ国際法の光が当たる公式な外交の舞台で、その化けの皮を剥いでやればいい。
「……日本の要求は、対米七割。断じて認められん」
スティムソンは、集まった海軍首脳部と外交官たちを前に、力強く言い放った。
「彼らの国力と太平洋における現状を鑑みれば、六割ですら過大だ。イギリスとも完全に連携は取れている。我々アングロサクソンが結束し、断固たる態度で臨めば、彼らは折れるしかない」
その言葉に、海軍作戦部長のヒューズ提督も重々しく頷いた。
「その通りだ。フランスもイタリアも、ヨーロッパのことで頭が一杯のはず。この交渉は日米英、三カ国の問題だ」
誰もがその結論に同意しかけた、その時だった。
執務室の扉が、儀礼を無視するほどの勢いで開かれた。血相を変えた首席秘書官が、一枚の電文を握りしめて駆け込んできた。
「長官! パリの大使館から緊急電です!」
スティムソンはその不躾な闖入に眉をひそめながら、電文を受け取った。そしてその短い一文に目を通した瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
『……日本、フランスニ対シ、最新鋭駆逐艦(特型)及ビ軽巡(夕張型)ノ設計、建造技術及試作艦ヲ供与スル計画アリ。決済ハ全テNCPC債建テ。仏政府、極秘裏ニ受諾ノ構エ…』
「…………馬鹿な」
スティムソンの唇から、血の気の失せた声が漏れた。
執務室の空気が、一瞬にして凍りついた。ヒューズ提督が電文をひったくるように手に取り、その場にいた誰もが、その信じがたい内容に絶句した。
「……駆逐艦を売るだと?」ヒューズは呻いた。
「それも、あの忌々しいNCPC債で? ……あのカエル食いどもめッ!!」
スティムソンの脳裏で、これまでの全てのピースが一つの恐るべき絵図へと組み上がっていく。
雲南の銅。フランス領インドシナを経由する新ルート。そして、その利益の環流。
あれは、単なる経済協力ではなかった。
ロンドンで我々を孤立させるための、壮大な布石だったのだ。
「……裏切られた」スティムソンは絞り出すように言った。「ブリアンは、ロカルノの盟友ではなかったのか。ヨーロッパの平和を、極東の悪魔に売り渡すというのか」
彼の信じてきた「国際協調」という美しい神殿が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。その神殿を破壊したのは、日本の軍艦ではなかった。日本のあの忌々しい「紙切れ」だったのだ。
場所:アメリカ海軍作戦本部
作戦本部の空気はもはや絶望の色さえ失い、純粋な知的混乱に支配されていた。壁一面の巨大な太平洋海図――オレンジ・プラン――は、もはや未来の勝利を約束する設計図ではなく、壮大な間違い探しのパズルのように見えた。
レイモンド・スプルーアンスは、その海図の前でチョークを片手に立ち尽くしていた。その学者然とした冷静な顔は、解けない数式を前にした数学者のように蒼白だった。
「……レイ。もう一度、整理させてくれ」
マーク・ミッチャーが、水の入ったグラスを片手に唸るように言った。
「ジャップどもは、自分たちの虎の子である特型駆逐艦を、フランスに売った。カネではなく、ニッケルと鉄道の通行手形のために。……そこまでは、いい」
「ああ」
「そしてフランスは、そのおかげで地中海でイタリアに対する優位を得る。大西洋でドイツを牽制する力も増す。……結果、イギリスのロイヤルネイビーも極東に割く戦力を減らさざるを得なくなる。……そこも、分かる」
「ああ」
「だが、ここからが分からん」ミッチャーは、グラスの中の氷を睨みつけた。「その結果、我々はどうなる? 我々のオレンジ・プランはどう書き換えればいい? 敵は、日本だけではなくなったのか?」
スプルーアンスは、何も答えなかった。答えられなかった。
彼はチョークで、太平洋を横断するシーレーンを何本も描いた。サンフランシスコからハワイへ。ハワイからフィリピンへ。
「……問題はそこではないのだ、マーク」スプルーアンスは、ようやく口を開いた。その声は乾ききっていた。
「問題は、このシーレーンの“外側”だ」
彼は、南太平洋のニューカレドニアのあたりをチョークで大きく囲った。
「ここから、ニッケルが日本へ向かう。船団を組んでな。誰がその船団を護衛する?」
「……日本の海軍だろう」
「そうだ。そしてその護衛任務は、彼らの『制度』においては何を意味する?」
ミッチャーは、はっと息を呑んだ。
「……新しい、NCPC債の発行……」
「その通りだ!」スプルーアンスは、海図を拳で叩いた。
「奴らは、フランスから戦略物資を手に入れる。その輸送を自ら護衛する。そしてその護衛任務そのものが、新しい『カネ』を生み出すのだ! 奴らは軍事行動と経済活動を、完全に一体化させてしまった! 我々が石油を掘り、それを運ぶために金を使い、その金を税金で賄うという、この面倒な手続きを奴らは全てすっ飛ばしてしまったのだ!」
「奴らの軍艦は、もはやただの戦闘艦ではない。あれは、航行するだけで富を生み出す『移動造幣局』なのだ!」
その絶叫は、作戦室の隅々にまで響き渡った。居並ぶガン・クラブの提督たちも、航空派の若き士官たちも、もはや反論の言葉を失っていた。彼らが議論していたのは、戦艦か空母か、という戦術レベルの話だった。だが東郷ら日本海軍が仕掛けてきたのは、国家の存在様態そのものを変質させる、壮大な戦略レベルの戦争だった。
場所:ニューヨーク州知事公邸、オールバニ
その報せをONI(海軍情報局)の独自ルートから誰よりも早く受け取ったフランクリン・デラノ・ルーズベルトの反応は、怒りでも驚きでもなかった。
「……はっ、ははははは! 見事だ! 実に見事というほかない、東郷ッ!!」
書斎に、彼の腹の底からの哄笑が響き渡った。傍らに立つハリー・ホプキンスは、主君のあまりに意外な反応に、ただ呆然と立ち尽くしている。
「フランク……君は、これが面白いのか?」
「面白い? とんでもない! これは歴史上最もエレガントで、最も悪魔的な外交戦略だ! 私は今、嫉妬で気が狂いそうだ!」
FDRは車椅子をきしませながら、興奮したように語り始めた。
「ハリー、分かるかね? 我々のスティムソン君や、イギリスのチェンバレン卿が、いかに陳腐な芝居を演じていたのかが。彼らはロンドンで日本を『被告人席』に座らせ、アングロサクソンの正義の鉄槌を下すつもりでいた。だが東郷は何をした? 彼は裁判が始まる前に、陪審員の一人を買収してしまったのだ! それも、我々が決して払うことのできない『非課税の最新兵器』という名の最高の賄賂でな!」
FDRの目は、獲物を見つけた狩人のように爛々と輝いていた。
「そして、ハリー。この一手はロンドンの交渉を有利にするだけではない。東郷の本当の狙いは、もっと深い場所にある。……我々の心臓部だ」
彼は、一枚のメモをホプキンスに突きつけた。それは数日後に迫った、合衆国最高裁判所での口頭弁論のスケジュールだった。
『議題:合衆国領内における日本海軍発行“NCPC債”の流通が、課税法及び金融法規に抵触するか否か』
「ハリー、君が最高裁の判事ならどうする?」
FDRは、悪魔のように囁いた。
「もし君が、この日仏の取引を知った上で、『NCPC債は違法な通貨である』と判断すれば、どうなる? 我々は、同盟国であるはずのフランスが国家ぐるみで行っている『違法取引』を、公式に断罪することになる。スティムソンは発狂し、日仏は結束を固め、アメリカは国際社会で完全に孤立するだろう」
「では逆に、『NCPC債は合法である』と判断すれば?」
「そうなれば、我々アメリカの司法が、日本の『見えざる帝国』の存在を、最高の権威をもってお墨付きを与えることになる。財務省のメロンは卒倒し、議会の保守派は君を『売国奴』と罵るだろう」
FDRは、ホプキンスの肩を掴んだ。
「分かるかね、ハリー! 東郷は我々の司法、立法、行政の三権を、完全に三すくみの状態に陥れたのだ! どの部門もNCPC債を裁こうとすれば、他の部門との致命的な対立を引き起こす。結果、誰も何もできなくなる。……彼は、我々の憲法そのものを人質に取ったのだよ!」
それは、もはや外交でも金融でもなかった。
それは、アメリカという国家の統治システムそのものの欠陥を突きその機能を完全に麻痺させる、究極の「制度戦争」だった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




