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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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特型

時:1929年(昭和四年)、春

場所:東京・霞が関、海軍省


 その男の執務室の未決箱は、常に空だった。

海軍省の膨大な書類の奔流は、彼の机の上でだけまるで堰き止められた湖のように静まり返り、そして数分後には的確な指示という名の清流となって再び流れ出していく。


海軍軍務局長、堀悌吉。

海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ、堀の頭脳」と畏敬せしめられた、桁外れの英才。その思考の速度と正確さは、もはや人間の域を超えているとさえ言われた。


その日の午後、彼の執務室には直属の部下であり、東郷一成の同期でもある軍務局第一課長、沢本頼雄が緊張した面持ちで立っていた。


「……以上が、フランス政府からの非公式な打診の概要です」


沢本は手にした報告書を読み終え、上官の顔を窺った。

雲南銅戦略の開始で、日仏関係は急速に改善へと向かっている。その流れの中で、フランス海軍から「日本の最新鋭駆逐艦の技術に、強い関心がある」という秋波が送られてきたのだ。


普通の軍人ならば一笑に付すか、あるいは「軍事機密の漏洩」として激怒しただろう。だが、堀悌吉は違った。

「……面白い」


彼は沢本が一晩かけて熟読し分析した報告書を、わずか数分で読了すると静かに言った。その声には何の感情も浮かんでいない。ただ複雑な数式が解けた後の数学者のような、静かな満足感だけが漂っていた。


「沢本君。君はどう思う」

「はっ。……常識的に考えれば論外です。特型駆逐艦は、我が帝国海軍が世界に誇る最高機密。その設計を外国に渡すなど…」


「常識、か」堀はその言葉を遮った。

「君の同期の東郷君がアメリカでやっていることは、常識の範疇かね?」


その一言に、沢本ははっと息を呑んだ。

そうだ。東郷は、常識の外で戦っている。金融、法律、人心――あらゆるものを武器に変え、国家の形そのものを内側から作り変えようとしている。


堀は立ち上がると、壁に掲げられた世界地図の前に立った。


「沢本君。君が言う『最高機密』とは、何かね? 設計図か? 機関の性能か? 違う。我が海軍の本当の最高機密は、もはや軍艦ではない。東郷君が作り上げた、『制度債』が折り成す制度そのものだ」


彼は、世界地図でフランスの植民地であるインドシナとニューカレドニアを指でなぞった。

「フランスは今、我々の制度債のうまみを、その身で理解し始めている。雲南の銅が滇越鉄道の通行料という『帳簿上の利益』を生み、それがインドシナの港を潤し、本国の財政を助けている。彼らは制度……NCPC債を『魔法の紙切れ』だと思っている」


「ならばその魔法を、もう一つ見せてやろうじゃないか」

堀の目が、初めて冷たい光を放った。


「来年、ロンドンで軍縮会議が開かれる。議題は補助艦だ。我々は対米七割を要求する。だが英米は絶対に認めんだろう。そこで、フランスだ」


彼は、ヨーロッパの地図を指で叩いた。

「フランスは、地中海でイタリアと、大西洋でドイツと睨み合っている。彼らが喉から手が出るほど欲しいのは安価で、強力な艦隊水雷艇。……その需要に、我々が応える」


「特型駆逐艦とあの『夕張』の設計図を、制度債建てで売るのだ」


「なっ……!?」

沢本は、絶句した。それは沢本自身も心のどこかで思い描いていた、しかしあまりにも過激すぎて口には出せなかった選択肢だった。


「フランスは、国庫を一切痛めずに海軍を増強できる。その代金はニューカレドニアのニッケルと、滇越鉄道の権益で支払ってもらう。我々は戦略物資の安定供給ルートを確保し、ロンドン条約でフランスという強力な『カード』を手に入れる。……軍縮と軍備拡張の同時達成。これこそが、東郷君が言う『制度外交』の真骨頂ではないかね?」


沢本は目の前の上官の頭脳に、改めて戦慄を覚えていた。東郷の思想をこれほどまでに深く理解し、そしてそれを具体的な国家戦略へと即座に転換できる人間が、この海軍省にもう一人いたのだ。


「……しかし、堀局長」沢本は、最後の懸念を口にした。「艦隊派の猛反対は、必至です。加藤寛治大将や、末次信正中将が、黙ってこれを見過ごすとは思えません。『国賊』の罵声を浴びることになりましょう」


「ああ、そうだろうな」

堀は、こともなげに言った。

「感情に捉われて大局を見誤る。彼らの、いつもの病気だ。……だが沢本君。君の仕事は、その彼らを説得することだ」


「私が、ですか?」

「そうだ。君は東郷君の同期であり、この制度のことも熟知している。そして何より、君は彼ら艦隊派の人間ではない。冷静で合理的な君の言葉だからこそ、彼らの耳に届くものがあるはずだ」


堀は沢本の肩に手を置いた。その手は、驚くほど軽かった。


「こう言うのだ。『この取引によってもしロンドンで対米七割が達成できれば、我々は結果として、特型駆逐艦の犠牲で巡洋艦三隻、駆逐艦十隻を新しく手に入れることができる。どちらが帝国海軍の戦力増強に資するか、火を見るより明らかではないか』と。……彼らもその単純な算数の前では、沈黙せざるを得んだろう」


沢本は、深く頭を下げた。

「……拝承いたしました。……この沢本、身命を賭して、その任果たしてご覧に入れます」


その時、沢本は確かに感じていた。自分は今、ただの上官の命令を受けているのではない。東郷一成と堀悌吉という二つの巨大な知性が共鳴し合って生まれた、新しい時代の奔流のその最前線に立たされているのだ、と。


「堀さんが頭脳明晰であることは周知の事実でありますが、よく気のついて居るクセに小言に拘泥せず、大綱のみを指示せられたので、私は部下として大変働き易かった」


後年、沢本はそう回想することになる。この日、堀が彼に与えたのは、ただ「大綱」のみ。しかしその大綱は、日本の未来を決定づける、あまりにも重い羅針盤だった。



海軍省の一室は、怒号と罵声で揺れていた。

「国賊ッ!!」

艦隊派の重鎮、加藤寛治大将の雷のような声が部屋の空気を引き裂いた。その怒りの矛先はただ一人、涼しい顔で座っている堀悌吉に向けられていた。


「堀! 貴様、正気か! 帝国海軍の技術の粋を集めた特型駆逐艦を、いかに友好国とはいえ、外国に売り渡すとは! それがどれほどの軍事機密の漏洩に繋がるか、分かっておるのか!」


「お言葉ですが、加藤閣下」

堀は、少しも動じなかった。

「これは『売り渡す』のではありません。『投資』です」


「投資だと?」

「左様。我々はフランスという国の未来に、我々の技術を投資するのです。そしてその見返りとして、我々はロンドンで『対米七割』という、この国の存亡を賭けた国益を勝ち取る。……どちらがより大きな利益を生むか。自明の理かと存じますが」


そのあまりにも冷徹な、東郷一成と寸分違わぬ合理主義の刃。それは艦隊派の精神論を、いとも容易く切り裂いた。


「ぐっ……しかしだな!」

同じく艦隊派の末次信正中将が、苦しげに反論する。

「技術とは、金で買えん国の宝だ! それを……!」


「ならば、お聞きします、末次閣下」

堀の隣に座っていた沢本が静かに、しかし鋭く口を挟んだ。


「その『宝』をただ金庫に仕舞っておくだけで、アメリカの建艦能力に勝てるとお思いか。宝とは、使ってこそ価値がある。そして今こそ、その宝を最も有効に使うべき時です」


その時だった。それまで黙って議論の行方を見守っていた、一人の若い士官が口を開いたのは。南雲忠一。誰よりも強硬な艦隊派として軍縮条約に反対したはずの、水雷一筋の男。しかしこの世界では、東郷の制度債構想に、その最初期から関わっていた。


「……加藤大将、末次閣下」南雲はおずおずと、しかし芯の通った声で言った。


「……私も水雷屋の端くれとして、この特型の価値は、誰よりも理解しているつもりです。我が子を売り渡すような痛みを感じます。……しかし」


彼は、堀と沢本の方をちらりと見た。

「……しかし東郷が作り、そして堀閣下が育てておられる、この『制度』という新しい戦い方。その恐るべき力を、我々は目の当たりにしてきたはずです。……この取引で、もし本当にロンドンで七割を勝ち取れるのならば。……我々は特型の秘密と引き換えに、遥かに多くの『力』を、合法的に手にすることができる。……どちらが、本当の国益か。……もはや答えは出ているのではありますまいか」


艦隊派の若きエースからの、まさかの「裏切り」。加藤も末次も、もはや返す言葉がなかった。彼らの信じる「大艦巨砲」も「精神主義」も、この「制度」という新しい、そしてあまりにも現実的な力の前に、美しいだけの骨董品と化そうとしていた。



場所:パリ、フランス海軍軍令部


海軍大臣ジョルジュ・レーグの執務室は狂喜と、信じられないという驚愕が入り混じった、異様な熱気に包まれていた。彼の目の前には、日本の駐在武官が恭しく差し出した、二隻の軍艦の模型と設計図が置かれている。


「……モン・デュー(我が神よ)……」


作戦部長のヴィオレット提督は特型駆逐艦の模型を、まるで稀代の芸術品でも見るかのように、震える手で持ち上げた。


「この重雷装……この航洋性能……。これさえあれば、イタリア自慢の巡洋艦隊など、もはや恐るるに足らず! 我が地中海の覇権は、不動のものとなるぞ!」


財務省から派遣された監査官もまた、興奮を隠せないでいた。

「大臣、信じられません。この最新鋭の艦隊を、国庫から一フランも支出せずに手に入れられると? 支払い原資は、インドシナの鉄道通行料と、ニューカレドニアのニッケル? ……それは我々にとっては帳簿の上の数字に過ぎない! これは錬金術です!」


そして、外務大臣のアリスティード・ブリアンは、この提案の持つ、真の価値を正確に理解していた。


「諸君、これは単なる軍艦の取引ではない」老練な外交官は静かに、しかし確信を込めて言った。


「これは、来たるロンドン会議で、我々が英米のアングロサクソンどもと対等に渡り合うための、神が与えたもうた『切り札』だ。日本というアジアの新しい獅子を、我々のパートナーとして手に入れるのだ」


もはや、議論の余地はなかった。


「……直ちに、本国政府に受諾の意を伝えるのだ」

レーグは、感極まった声で言った。


フランスは、欧州大戦の莫大な犠牲の末に手に入れた平和を守るため、そして失われた栄光を取り戻すため、この東方の島国から差し伸べられた、悪魔的だが抗いがたいほど魅力的な手を、躊躇なく握り返した。




いつもお読みいただきありがとうございます。


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