国策
作品タイトル変更しました。
時:1929年(昭和四年)、年明け
場所:東京・永田町、首相官邸
官邸の廊下を渡る風は、まだ冬の刺すような冷たさを孕んでいた。しかし総理大臣・田中義一の執務室の空気は、ここ数ヶ月の重苦しい緊張が嘘のように、どこか晴れやかなものに変わっていた。
張作霖爆殺未遂事件という、国家を揺るがす崖っぷちから奇跡的に生還した安堵感。そして何より、自らが育てたはずの帝国陸軍という猛獣にようやく「首輪」をかけることができたという、静かな達成感が彼の心を支配していた。
「……それで、是清さん。海軍の次の手は、雲南の銅だというのかね」
田中は執務椅子に深く身を沈めながら、目の前で飄々と茶をすする大蔵大臣・高橋是清に問いかけた。その声にはもはや陸軍への怒りではなく、海軍という得体の知れない組織への純粋な好奇心が滲んでいた。
「左様ですわい、総理」
是清は湯呑みを置くと、満面の笑みを浮かべた。その顔は財政家というより、新しい金脈を見つけた山師のようだった。
「先ほど、海軍大臣の岡田閣下と軍務局の堀とかいう、あの剃刀のような男が持ってまいりましてな。いやはや、度肝を抜かれましたわい。東郷の小僧がアメリカで描いた絵図は、我々の想像を遥かに超えておりました」
そこへ、海軍大臣・岡田啓介が約束通り、軍務局長の堀悌吉を伴って入室した。堀の理知的な顔には、一切の感情が浮かんでいない。だがその瞳の奥には、これから国家の羅針盤を大きく回すのだという、冷徹な意志の光が宿っていた。
「総理、高橋蔵相。本日はお時間をいただき、感謝いたします」
岡田が儀礼的に挨拶する傍らで、堀は地図や計画書を手際よくテーブルに広げていった。その淀みない所作だけで、この計画が机上の空論ではなく、完全に練り上げられたものであることが伝わってきた。
「……単刀直入に申し上げます」
堀は一枚の図表を指し示した。それはアメリカの銀売却に端を発する、世界的な銀価格の暴落を示す曲線だった。
「今、アジアの経済はアメリカが仕掛けたこの嵐によって沈没寸前であります。このままでは、我が国の制度債もその価値の錨の一つを失いかねない。……故に、我々は新しい錨を打つ」
彼は次に、雲南省の地図を広げた。
「価値の源泉を銀に加え、『銅』を。そしてその事業を、中華民国大元帥である張作霖との『国家再建共同事業』として、大々的に執り行う。これが、東郷大佐がワシントンで描いた次の一手であります」
田中は、黙ってその計画の全容に耳を傾けた。
雲南の銅鉱山開発。滇越鉄道の修復。決済は全て制度債。輸送はフランス領インドシナを経由し、関東軍の支配する満鉄は一切使わない。
聞けば聞くほど、その構想の巧みさと大胆さに舌を巻かざるを得なかった。
「……堀君」田中が、重々しく口を開いた。
「……素晴らしい計画だ。だが、これを国策として進めるには一つ大きな壁がある。……陸軍だ。奴らが、黙ってこれを見過ごすとは思えん」
その言葉に、堀は初めてかすかな笑みを浮かべた。
「総理。その点につきましては、すでに布石を打ってございます」
「布石?」
「この計画で日本に輸入される銅とフランスから新たに輸入するニッケル。これを原料とし、政府が新しい補助硬貨――十銭白銅貨を鋳造するのです」
その提案の意味を隣にいた高橋是清が即座に理解し、目を輝かせた。
「……なるほど! 硬貨の鋳造益! それは政府の収入になる! しかも、その原料は海軍が制度債で『タダ』同然で持ってくる! 総理、これは打ち出の小槌ですぞ! この不況下で、増税も国債も発行せずに、国家に数千万円の歳入が転がり込んでくる!」
田中も、その財政的なうまみには気づいた。だが、彼の視点はもっと別の場所にあった。
「……それだけではないな、是清」田中は、堀の真意を正確に読み取っていた。
「これは、陸軍の口を塞ぐための、最高の『飴』だ。……堀君、君はこう言うつもりだろう。『この計画に反対するのか? この計画から生まれる莫大な歳入は、貴様らが喉から手が出るほど欲しがっている、師団の近代化予算に回してやっても良いのだぞ』と」
「ご明察、恐れ入ります」
堀は、静かに頭を下げた。
それは、陸軍にとって悪魔の選択だった。海軍主導の計画に屈辱を飲み込んで協力すれば、見返りに予算が手に入る。だが反対すれば、国家財政の敵として世論からも孤立する。
「……よろしい」田中は深く頷いた。
「この件、明日の閣議に、政府の正式な議題として提出する。わしが、責任を持って陸軍を抑えよう」
老いた獅子の瞳に、再び闘志の火が灯っていた。陸軍の暴走に振り回されるだけの、無力な宰相ではない。国家の舵を、自らの手で握り直す。そのためのこれ以上ない武器を、海軍がもたらしてくれたのだ。
場所:東京・市ヶ谷、陸軍省
陸軍省の空気は、奉天の冬よりも冷たく、そして重かった。
海軍が提出したという「雲南銅開発計画」の報は省内に瞬く間に広がり、あらゆる部署で激しい怒りと屈辱の嵐を巻き起こしていた。
「ふざけるなッ!!」
若手将校たちが集まる参謀本部の作戦室では、一人の少佐が机を叩きつけて絶叫していた。
「満州は、日露の英霊が眠る我らの聖地だ! それを海軍の商人どもが、不倶戴天の敵である張作霖と手を組み、勝手に切り売りするだと!? 断じて許せん!」
「そうだ!奴らは我々が血を流すのを横目に、南の海で安穏とカネ儲けに耽るつもりか!」
その熱狂的な怒りの中心で、石原莞爾は腕を組み、ただ黙って地図を睨みつけていた。彼の顔は怒りというよりも、むしろ巨大な数式を前にした数学者のように蒼白く、そして緊張していた。
(……やられた。またしても、あの男に……)
彼の脳裏には、東郷一成の静かな顔が浮かんでいた。
この計画は、単なる経済協力ではない。それは、石原がその生涯を賭けて構想してきた「満州国建国」という壮大な夢を、根底から無力化するあまりにも冷徹な一手だった。
この計画が国策として動き出せば、張作霖は単なる地方軍閥ではなく、日本の「公的なパートナー」となる。もはや関東軍が勝手に「天誅」を下すことなど、到底不可能になる。満州は武力で支配する「帝国日本の生命線」ではなく、制度債で結ばれた「海軍の経済特区」へと姿を変えるのだ。
「剣」が再び「紙」に敗北しようとしている。その耐え難い現実に、石原は奥歯をギリリと噛み締めた。
その時、執務室の扉が静かに開かれ、軍事課長の永田鉄山が入ってきた。その表情は能面のように変わらない。だがその瞳の奥には石原と同じか、それ以上に深い思考の光が宿っていた。
「……騒がしいな。まるで負け犬の遠吠えだ」
永田の氷のような一言に、若手将校たちの怒号がぴたりと止んだ。
「永田閣下! ですが、これは!」
「黙れ」
永田は騒ぐ将校たちを一瞥だにせず、石原の前に立つと地図の一点を指さした。雲南からハノイへと続く、赤い鉄路の線を。
「石原。貴様の目は節穴か。これが見えんのか」
「……これは、滇越鉄道…」
「そうだ。そしてこの鉄道が海軍のカネで近代化され、その先に雲南の膨大な銅が眠っている。……それが何を意味するか」
永田の声は低く静かだったが、その場の誰をも黙らせる異様な迫力があった。
「我々が構想する国家総力戦。そのために必要なものは何か? 兵士の数か? 精神力か? 違う。石油、鉄、そして『銅』だ。薬莢も、通信線も、モーターも、銅がなければ作れん。その国家の血液とも言うべき資源を、海軍が今、我々のために確保しに行こうとしているのだ。それも我々の手を一切汚さずに、な」
「しかし、それでは海軍に主導権を!」
「だからどうした!!」
永田は、初めて声を荒らげた。
「主導権争いなどという、ちっぽけなプライドのために、国家百年の計を誤るか! 貴様らが満州で事を起こせば、確かに満州は手に入るやもしれん。だがその代償に英米を敵に回し、国際的に孤立する。その状態でどうやって総力戦を戦うのだ! 絵に描いた餅ではないか!」
彼は、石原の目をまっすぐに見据えた。
「石原。東郷は、我々と同じものを見ている。この国の資源の乏しさという致命的な弱点を、だ。そして彼は、その弱点を克服するための最も合理的で、最も血を流さない方法を提示している。……我々が今すべきことは、感情的に反発することではない。この海軍の計画に、いかにして『相乗り』し、その果実を陸軍の力へと転化させるか。そのための、より狡猾な戦略を練ることだ」
永田の、そのあまりにも冷徹で、あまりにも現実的な言葉。それは若手将校たちの観念的な愛国心とは、全く異質の光を放っていた。
石原は、何も言い返せなかった。
彼は永田の言うことの正しさを、痛いほどに理解していた。そして同時に自らの「最終戦争論」という美しい理想が、この永田という男の、そして東郷という男の、非情なまでのリアリズムの前に、いかに脆いものであるかを再び思い知らされていた。
「……永田さん」石原は、絞り出すように言った。
「……あなたはこの計画を、認めるというのか」
「認めん」永田は、きっぱりと言った。
「だが、反対もしない。……ただ、利用するだけだ。海軍が耕した畑から、我々が最も栄養のある果実を、静かにもぎ取る。……そのための準備を、今から始める」
彼は、懐から一枚の紙を取り出した。それは、海軍から陸軍へ譲渡されることになった「北方戦略準備基金」の、予算配分案だった。
「この基金の一部を使い、我が陸軍は独自の『資源調査部』を創設する。そしてその調査官を『技術協力』の名目で、雲南へ送り込む。……海軍が掘り当てた鉱脈の本当の価値を、我々の目で直接確かめるのだ。……分かるな、石原。戦いはすでに始まっているのだよ。満州の荒野ではなく、この国策の上でな」
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