平沼騏一郎
東京・麹町。
重厚な造りの国本社の建物は、1921年に創設されてからまだ一年しか経っていなかったが、すでに法曹界・官僚・軍人の往来が絶えなかった。ここは、国家の“正義”を論ずる場であり、時には政府そのものに圧力をかける影の舞台でもあった。そこでは政府の公式見解とは別に、もう一つの日本の『国是』が静かに、しかし確実に形作られようとしていた。
東郷一成は、父が副会長を務める関係で、若き軍人としては異例の立場で招き入れられた。
大広間の一角、黒い羽織を纏った平沼騏一郎が座していた。大審院長として司法界の頂点を極め、同時に国本社の精神的支柱ともされる人物である。
平八郎が言う。
「平沼閣下、本日は息子の無礼なる願いを聞き入れていただき、感謝申し上げる。この男の言葉に、一片でも国家を思う真心があれば、ご判断を賜りたい」
「――父上のお顔はよく存じておりますよ。だが、あなたは初めてですな」
平沼の声は低く、しかし鋭い。
東郷は深く一礼した。
「東郷一成にございます。先般、ワシントン会議において、日本の利益を一部ながら守ることができました。しかし、ここに帰ってなお、我が国が真に生き残るための仕組みを模索しておりまして……」
「仕組み?」
平沼の目が細くなる。
東郷は一息置き、言葉を選んだ。
「……軍功や歴史を“与信”とし、制度として記録に変えること。これにより、軍の活動は単なる費消ではなく、未来を支える証明となりましょう。ただし――これは通貨ではありません。円とは兌換せず、国家の財政権を侵すものでもない。あくまで“軍務証明”として、統帥権の範囲にとどまるのです」
平沼は黙したまま、扇を軽く打ち合わせた。
「……なるほど。通貨であれば大蔵省が噛みつく。だが“証明”と位置づけるのならば、司法が担保できる。枢密院、大審院、軍法会議……いずれも制度に目を通す立場にある。そこに“軍功の記録”という法的根拠を与える、と」
東郷は深く頷いた。
「ゆえに、まずは国本社において法の重鎮たる先生方のお墨付きを得たいのです。軍の“紙切れ”ではなく、国家の“正義の証文”であると」
平沼はしばし扇を弄び、沈黙を守っていた。やがて低く、しかし響きのある声を落とす。
「……条件がある」
東郷は身を正した。
「制度債が“任務達成の証明”である以上、証明には記録と監査が伴わねばならぬ。年度ごとに、その発行と運用を点検する。枢密院、大審院、軍法会議――これらが三重に監査を行う仕組みにせよ。そうすれば、制度は軍の恣意ではなく、国家の法の下に立つ」
平沼は扇を畳み、指先で卓を軽く叩いた。
「例えば、私は大正の頃から言ってきた。略式命令に異議期間を設けても無意味だ、と。手続きの煩雑さは実益を殺す。制度とは、使える形で存在せねばならん。だからこそ監査も簡明にする。異議があるならば常に正式裁判に付す――それで十分だ」
彼の言葉に、一成は息を呑んだ。
繁雑を嫌い、しかし根幹の監査は外さない。そこに司法家としての平沼の一貫した姿勢があった。
平沼は鋭い眼差しを若き軍人に向けた。
「……東郷中佐。制度債は通貨ではないという。ならば“法的証明”とすることだ。記録を残し、年度ごとの監査を経て、誰も否定できぬ“判決文”として積み重ねるのだ。これならば、たとえ財閥も議会も吠えたとしても、その履歴の前には無力であろう」
東郷は深く頭を垂れた。
「はい。必ず、その骨格を守ります」
背後で平八郎が一度だけ、小さく頷くのが見えた。
その日の夕刻、東郷が「大審院長・平沼騏一郎の支持を取り付けた」と密かに伝えると、部屋に沈黙が落ちた。
最初に声を発したのは南雲だった。
「……本気か。司法の頂点が、お前の“紙切れ”に頷いたというのか」
彼は無骨な手で煙草の火を揉み消し、苦笑を浮かべた。
「俺たち艦隊派は、戦い方を磨けば国は守れると信じてきた。だが、制度を盾にすれば戦う前から勝てる、ってか。……笑えんな」
沢本は逆に眼鏡を押し上げ、鋭い目を東郷に向けた。
「条約派の我々にとって、国際社会に“顔向けできる論理”こそ全てだ。司法の判決文は、外国の批判に対しても最強の証文になる。つまり、お前は“制度で戦う軍人”に道を開いたわけだ」
二人は視線を交わした。そこに、従来の派閥対立にありがちな刺々しさはなかった。
南雲が低く呟く。
「日露以来、俺たちは砲雷、操艦、空戦と、戦術ばかり追いかけてきた。……だが、もし制度そのものを武器にできるなら、兵学校の枠すら削られていく時代でも、まだ未来はあるのかもしれん」
沢本は小さく笑った。
「戦術の延長にある制度ではなく、制度が戦術を規定する。――それが分かれば、日本海軍はもう一段階強くなれる」
東郷は彼らの言葉を黙って聞きながら、心の奥で頷いた。
この日以降、日本海軍内部における制度債構想は急速に、しかし秘かに進んでいくのであった。




