奉天の冬、パリの春
時:1929年(昭和四年)、年明け
場所:奉天、張作霖大元帥府
奉天の冬は、刃のように鋭利だった。凍てついた空気が肺を刺し、吐く息は瞬時に白い針となって砕け散る。大元帥府の奥深く、虎の毛皮が敷き詰められた執務室だけが、燃え盛る暖炉の熱でかろうじて外界の厳しさから守られていた。
しかしその部屋の主、張作霖の心は外の冬よりも遥かに冷え切っていた。
「……まただ」
彼は机の上に叩きつけられた上海からの電文を睨みつけ、低く唸った。アメリカが仕掛けたという「銀売介入」。その毒は南京の蒋介石だけでなく、この満州の経済をも静かに、しかし確実に蝕み始めていた。
銀貨の価値は日ごとに下落し、兵士たちに支払う給金も、欧州や日本から買い付ける兵器の代金も、その目減りはもはや無視できぬレベルに達していた。
関東軍の魔手から奇跡的に逃れたというのに、今度はアメリカというより巨大で、より顔の見えない怪物が、海の向こうからその首を絞めに来ている。
「親父、だから言ったでしょう」
傍らに立つ息子の張学良が、苛立ちを隠せない声で言った。
「アメリカもイギリスも、そして日本も、所詮は我ら中国を食い物にする豺狼に過ぎないのだ! 我々は誰とも組まず、我々の力だけでこの国を…」
「学良!」
張作霖の怒声が、部屋を震わせた。
「お前にはまだ分からんのか。この大陸で生き残るということは、豺狼の群れの中で、どの豺狼が最も信用でき、そしてどの豺狼の牙を借りて他の豺狼を牽制するか、その見極めにあるのだ。独りで立てるほど、この世界は甘くないわ」
老いた虎の瞳が、暖炉の炎を反射してギラリと光る。彼の脳裏にはただ一人、あの北京の祝宴で、蚕のさなぎを美味そうに食してみせた、一人の日本人の顔が浮かんでいた。東郷一成。あの男だけは、他の日本人とは違う匂いがした。
まさにその時、侍従が息を切らして駆け込んできた。
「大元帥! 日本海軍の東郷大佐より、極秘の使者が……!」
現れたのは、かつて陸軍の軍服を着ていたという、黒田と名乗る精悍な男だった。彼は軍人の礼を尽くし、一つの桐箱を恭しく差し出した。中には分厚い和紙に認められた親書と数枚の地図、そして膨大な数字が並ぶ計画書が収められていた。
張作霖はその計画書に目を通すうちに、自らの目を疑った。
『中華民国国家再建事業計画(雲南銅開発案)』
「……銅、だと?」
老軍閥の長は、訝しげに呟いた。銀の暴落で国が揺らいでいるこの時に、なぜ銅なのだ。
だが読み進めるうちに彼の表情は驚愕へ、そして興奮へと変わっていった。計画はあまりにも壮大で、そして悪魔的なまでに魅力的だった。
銀に代わる新しい価値の錨として、雲南の銅に着目する。
その開発資金は、全て日本海軍が「制度債」で負担する。
産出された銅は、雲南からフランス領インドシナのハノイまで、老朽化した滇越鉄道を我々の手で修復して運び、そこから海路で日本へと輸送する。
そして自分、張作霖が中華民国大元帥としてこの国家事業の総責任者となる――。
「……親父、これは罠だ」
学良が、即座に警戒の声を上げた。
「雲南は、我々の力が及ばぬ蛮地。そこに我々を誘い込み、日本海軍がその利権を独占するつもりだ。それにこのルート…」
彼は地図を指さした。
「なぜ、わざわざ南のフランス領へ? 満州へ直接運んだ方が遥かに早いではないか!」
「だから良いのだ、学良!」
張作霖は地図を拳で叩き、歓喜の声を上げた。若い学良にはまだ見えていないこの計画の真の価値が、老獪な彼の目にははっきりと見えていた。
「東郷閣下は、分かっておられるのだ! 満州の人民が関東軍の小僧どもをどれほど憎み、そして奴らの生命線である南満州鉄道を、どれほど忌々しく思っているかを!」
この計画は、関東軍を完全に蚊帳の外に置くものだった。資金も、物資も、そして産出された銅も、満鉄には一指も触れさせない。それは満州における日本の「二つの顔」――陸軍と海軍――の対立を巧みに利用し、自分を海軍側のパートナーとして引き込む、絶妙の一手だった。
そして何より、この事業は「国家再建」という大義名分を掲げている。蒋介石の北伐で失墜した「中華民国大元帥」としての権威を、これ以上ない形で回復させるための、最高の舞台ではないか。
「黒田殿」張作霖は、使者に向き直った。その顔にはもはや冬の厳しさも、経済への不安もなかった。それは、新しい狩場を見つけた老いた虎の、獰猛な笑みだった。
「東郷大佐に、こうお伝え願いたい。この張作霖、ただ感謝するのみ、と。これはもはや、単なる商談ではない。関東軍の小僧どもと、南京の若造(蒋介石)に、どちらがこの中国を率いるにふさわしいかを思い知らせるための、我々の“共同作戦”だ!」
その熱狂を、学良はまだ理解できないという顔で見ていた。だが彼の父の瞳の奥に、かつての覇王としての輝きが戻っていることだけは、確かだった。
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場所:パリ、フランス外務省
セーヌ川の鉛色の水面が、冬の曇天を映していた。外務省の一室で駐仏日本大使・安達峰一郎は、フランス外務大臣アリスティード・ブリアンを前に、極めて機密性の高い提案を行っていた。
「……つまり、安達大使」
ブリアンはその銀縁眼鏡の奥で鋭い光を宿しながら、指を組んだ。彼は欧州大戦後のヨーロッパに平和と協調をもたらしたロカルノ条約の立役者であり、現実的な国益の計算に長けた老練な外交官だった。
「貴国は、我が国の植民地であるインドシナを経由して、中国の雲南から銅を運び出したい、と。そしてその見返りに、我が国の滇越鉄道の近代化とハノイ・ハイフォン港の整備に、貴国の“制度債”とやらで投資する。……そういうお話ですかな?」
「ご理解感謝いたします、ブリアン大臣閣下」
安達は静かに頭を下げた。
ブリアンの頭脳が、高速で回転を始めた。
日本の真の狙いは何か。アジアにおける影響力の拡大か。それもあろう。だがそれだけではない。彼らはアメリカが引き起こした銀価格の暴落という嵐から逃れるための、新しい「港」を探しているのだ。
そしてその港として、我らがフランス領インドシナが選ばれた。
これは、フランスにとって千載一遇の好機ではないのか?
欧州大戦で疲弊したフランス。その財政は常に火の車だった。極東の広大な植民地は、むしろ本国にとって重荷にすらなりつつあった。そこに日本の巨大な資本(制度債)が流れ込み、鉄道を直し、港を整備し、雇用を生み出してくれるというのだ。しかもその見返りは、ただ銅の通過を認めるだけ。
「……大使」ブリアンの声は、もはや外交官の儀礼的なものではなかった。それは、巨大な商機を前にした商人の声だった。
「その話、実に興味深い。……例えば、その投資の決済業務を、我が国の東方銀行(Banque de l'Indochine)が独占的に請け負う、というようなことは可能かな? もちろんNCPC債の仏国債への兌換も、我が銀行が最も有利なレートで引き受けるが」
安達は、内心の勝利を悟った。東郷の描いた設計図通りだ。
「大臣閣下のご賢察、恐れ入ります。その点につきましては我が海軍も、フランス政府および東方銀行と、最も緊密なパートナーシップを築きたいと願っております」
ブリアンは、満足げに頷いた。
この取引は、フランスに経済的な利益をもたらすだけではない。アジアにおけるイギリスとアメリカの覇権に、見事な楔を打ち込むことができる。日本という新しいパートナーを得ることで、フランスの国際社会における発言力は、格段に増すだろう。
「安達大使、本国にこう伝えたまえ」
ブリアンは立ち上がり、安達の手を固く握った。
「フランス共和国は、極東の平和と繁栄に貢献する、貴国のこの勇気ある、そして極めて建設的な提案を、最大の友好の意をもって全面的に支持する、と」
その握手は、アジアの地政学を静かに、しかし決定的に塗り替える新しい時代の幕開けを告げていた。
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場所:ロンドン、外務・英連邦省
霧深いテムズ川を望む執務室で、英国外務大臣オースティン・チェンバレンは、駐英日本大使・松平恒雄から、パリで交わされた会話とほぼ同じ内容の報告を、苦虫を噛み潰したような顔で聞いていた。
(……フランスめ、抜け目がない)
チェンバレンの胸中は複雑だった。日本の海軍が、陸軍の関東軍のように満州で暴発するよりは、経済活動に専念してくれる方が遥かに好ましい。張作霖をパートナーに選んだという点も、中国の急進的なナショナリズムを抑える上では、むしろ歓迎すべき動きだ。
しかし、そのパートナーがフランスとなると話は別だ。アジアにおけるイギリスの権益の最大の競争相手は、常にフランスだった。そのフランスが日本と手を組み、インドシナを拠点に新しい経済圏を築き始める。これは、シンガポールと香港を繋ぐ大英帝国の生命線を脅かしかねない。
だが、ここで強硬に反対すればどうなる? 日本とフランスを、より強固に結びつけるだけだ。そしてイギリスは、この新しいアジアのゲームから完全に締め出されることになる。
(……やむを得んか)
チェンバレンは、深く息を吐いた。
「松平大使。貴国のイニシアチブには一定の理解を示そう。我が国としても、極東の安定は望むところだ。……ただし」
彼はその老獪な外交官の目で、松平をまっすぐに射抜いた。
「この新しい銅の流れが我が香港の市場を素通りしていくのを、ただ黙って見ているつもりはない。……香港上海銀行にも、一枚噛ませていただく。それが我が国がこの計画を“静観”するための、最低限の条件だとお考えいただきたい」
それはイギリス流の最も洗練された「脅迫」であり、同時に「取引」の申し出だった。
松平は、全てを理解し静かに頷いた。
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