デカップリング
時:1929年(昭和四年)、年明け
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
若きジャーナリスト、ベン・カーターが嵐のように去った後、東郷一成の執務室には再び静寂が戻っていた。しかしその静寂はもはや、以前のような盤石のものではなかった。窓の外の凍てついたポトマック川の水面のように、表面は穏やかだがその水面下では恐ろしい速度で氷塊がぶつかり合い、軋みを上げている。
東郷の片頭痛は、まだ治まっていなかった。
カーターとの対話は彼に一つの確信をもたらしていた。
(……もう、持たない)
ウォール街の狂乱。NCPC債の異常なまでの価格高騰。そしてその熱狂を支える、あまりにも脆い砂上の楼閣。
東郷は、自分が作り出した怪物が今や自分のコントロールを完全に離れ、アメリカという巨大な宿主と共に、破滅の崖っぷちで最後のダンスを踊っているのを肌で感じていた。
その時、上海から一本の暗号電文が届いた。
発信者は華僑商人のリーダー、林文蘭。その文面は、悲鳴に近かった。
『……銀価格ノ暴落止マラズ。各地ノ銀号(伝統的な銀行)倒産相次グ。我ガ一族ノ資産モ半減セリ。……大佐。貴殿ノ“制度”ニヨル救済ヲ、切ニ願ウ…』
副官の伊藤が、険しい顔で言った。
「大佐。いかがなさいますか。我々が保有する銀で得た資金の一部を市場に放出すれば、一時的な価格の安定は図れるやもしれませんが…」
「無意味だ」
東郷はきっぱりと首を横に振った。その声には、珍しく苛立ちが滲んでいた。
「伊藤君、これはもはやアジアだけの問題ではない。世界的な“信用収縮”の始まりなのだ。ここで我々が小手先の救済策を打っても、それは燃え盛る森にバケツで水をかけるようなもの。戦力の逐次投入にしかならん」
東郷は立ち上がると、壁の世界地図の前に立った。
「メロン長官は、私のNCPC債を潰すというただそれだけの目的のために何をした? 世界最大の銀保有国が、その銀をほぼ全て市場に叩き売るという、前代未聞の市場介入だ。彼は自分の庭のハチを殺すために、戦艦の主砲をぶっ放したようなものだ」
彼の指が、アメリカからヨーロッパへと伸びる大西洋航路をなぞった。
「その結果どうなるか。まず、銀本位制の中国経済が崩壊した。アジア市場は大混乱に陥り、イギリスは自国の植民地経済を守るためにポンドの防衛に走るだろう。フランスもフランを守るために金をかき集め始める。国際的な金融協力は完全に崩壊し、各国が自国の通貨と金塊を守るための醜い奪い合い(通貨安競争と金本位制からの離脱)が始まる」
彼の指が世界地図のアメリカ、ニューヨークに移る。
「そして、その金塊の奪い合いの最終的な震源地はどこになる? もちろん世界中の金が最も集まっている、このアメリカだ。ヨーロッパに金が流出し始めれば、FRBは国内の金を繋ぎ止めるために、金利を引き上げざるを得なくなる」
「金利の引き上げ……」伊藤は息を呑んだ。
「それは、今のこの狂乱の株式市場にとっては…」
「致命傷だ」
東郷は断言した。
「今のNCPC債の異常な高騰も、ウォール街の株価もその本質は同じだ。FRBが供給する安い金利の、有り余るカネが流れ込んでいるだけのバブルに過ぎない。その蛇口が締められた瞬間、全ての資産価格は暴落する。……その日は近いぞ、伊藤君」
東郷は、自分がウォール街で目撃した光景を思い出していた。
『NCPC-SWAP』――銀行家たちは、彼の制度債を“原資産”として無数のデリバティブ(金融派生商品)を創り出し、投機の対象にしていた。それらの価値は全て、NCPC債の価格が上昇し続けるという幻想の上に成り立っている。金利が上がれば、その幻想は一瞬にして吹き飛ぶ。
(……まずい。このままでは、NCPC債が恐慌の“戦犯”にされかねん)
「大佐、では我々はどうすれば…」
「……少し、頭を冷やす」
東郷は言った。
「この国を、この目で見ておく必要がある。東から、西へ。……汽車を二人分手配してくれたまえ。サンフランシスコまで行く」
それは戦略的な「時間稼ぎ」であり、同時に嵐の中心から一度離れ、この巨大な国家の全体像を捉え直すための、思索の旅の始まりだった。
⸻
大陸横断鉄道の車窓から流れる景色は雄大で、しかしどこか病んでいた。
シカゴの活気ある操車場を過ぎると、風景は一変する。アイオワ、ネブラスカ――どこまでも続くトウモロコシ畑。しかしその穂は力なく垂れ、農家の納屋はペンキが剥げ落ちている。駅で停車するたびに、職を求める人々の希望のない目が車窓を覗き込んだ。
ベン・カーターが言っていた通りだ。この国の心臓部であるはずの中西部は、すでに死にかけている。東海岸と西海岸の金融の中心地だけが、熱に浮かされたように踊っているだけなのだ。
東郷は、個室のテーブルに一枚の白紙を広げた。
そして、ペンで一つの単語を書きつけた。
『Decoupling』
(……切り離せ。NCPC債を、来るべきアメリカ経済の崩壊から、切り離さねばならん)
だが、どうやって? もはやウォール街の投機システムに深く組み込まれてしまったNCPC債を、どうすればそこから引き剥がせる?
(……価値の源泉を、多様化させるのだ)
これまでNCPC債の信用の源泉は、二つだった。
一つは、日本海軍の「任務遂行能力」だ。
そしてもう一つが、アメリカ市場が勝手に付与した「ドルや金との交換可能性」という、投機的な価値。
今暴落の危機にあるのは、後者だ。ならば、それに代わる新しい「価値の錨」をアメリカの外に作らねばならない。
彼の思考が、アジアの地図へと飛んだ。
林文蘭の悲痛なSOS。銀の暴落で、中国経済は死んだ。
華僑たちは、銀に代わる新しい価値の保存手段を渇望しているはずだ。
(銀ではない、別の金属…? 中国が、自ら産出できるもの……)
その瞬間、東郷の脳裏に、かつて読んだ日本陸軍からの地質調査の報告書の一節が蘇った。
『……中国雲南省。その山岳地帯には、アジア最大級の銅鉱床が眠っている。ただしこれらの鉱山は設備が古く、採掘・精錬能力が極めて限定的。さらに、戦乱(軍閥割拠)とインフラ不足……』
銅。
それは、銀や金のような華やかな貴金属ではない。だが、電線、弾薬の薬莢、そしてあらゆる工業製品に不可欠な「産業の血」とも言うべき金属。
(これだ…!)
東郷のペンが、紙の上を走り始めた。
雲南への投資: 我々がアービトラージなどで得た9,000万ドルの銀の一部を、制度債を介して雲南省の銅山開発に投資する。これはメロンの銀売介入で苦しむ中国経済への「支援」という、完璧な大義名分が立つ。
兌換対象の追加: これまで「銀」を主な兌換対象としてきたNCPC債に、新たに「銅」および「白銅(ニッケルとの合金)」を加える。これにより、NCPC債の価値は暴落する銀の価格から部分的に切り離され、安定した銅の産業需要に連動するようになる。
硬貨の発行: 日本政府(大蔵省)に対し、「中国経済安定化支援」の名目でこの雲南の銅を日本に輸入し、それを原料として新しい補助硬貨(例えば、十銭白銅貨など)を発行するよう働きかける。紙幣の発行は日銀の権限だが、硬貨の発行は政府の裁量(通貨発行益は政府の収入)であり、大蔵省も乗りやすい。
この三つの手を組み合わせれば、どうなるか。
NCPC債は、アメリカの金融危機から距離を置き、アジアの産業基盤という新しい、より強固な錨を持つことができる。
我々は、中国経済の救済者という「善人」の仮面を被りながら、その産業の生命線である銅の生産と流通を、制度を通じて支配することができる。
そして日本国内では新しい硬貨が流通することで、政府は通貨発行益を得、国民は不況下での新しい決済手段を手にすることができる。
それは、アメリカ発の恐慌という巨大な津波を乗り切るための新しい「方舟」の設計図だった。
汽車は、ロッキー山脈の雄大な景色の中を走っていた。
東郷は、ペンを置いた。
片頭痛は、いつの間にか消えていた。
目の前の白紙の上には、嵐の海を乗り切るための新しい海図が描き出されていた。
彼の目は、もはやウォール街の狂乱を追ってはいなかった。
その視線は、太平洋の遥か彼方、雲南の山奥に眠る、赤い金属の輝きを捉えていた。それは、凍った世界のただ一つの血の色だった。
(メロン君、スティムソン君。君たちが主砲をぶっ放してくれたおかげで、新しい鉱脈が見つかりましたよ。……礼を言うべきかな)
東郷の唇に静かな笑みが浮かんだ。
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