利回り難民
時:1929年(昭和四年)、年明け
場所:ニューヨーク、ウォール街
その日のウォール街は、まるで巨大なカジノだった。ティッカーテープが滝のように流れ落ち、トレーディングフロアには、男たちの怒号と歓声が渦巻いている。誰もが、終わらないと信じている上昇気流の中で、金の匂いに狂っていた。
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の若き経済記者、ベンジャミン・“ベン”・カーターは、ウォール街の熱狂がもはや正気の沙汰ではないことを肌で感じていた。
彼の父親はアイオワのとうもろこし農家だったが、農産物価格の暴落で破産し、その心労で亡くなった。だからこそベンには分かった。鉄道株が死に、農村が死に絶えようとしているこの国で、株価だけが天を衝くなどという馬鹿げた奇跡が、長く続くはずはないと。
彼は編集局で孤立していた。
「不景気の到来を煽る陰気な若造」――それがベテラン記者たちの彼に対する評価だった。誰もがフーヴァー大統領の言う「永遠の繁栄」を信じ、市場の熱狂をただ賞賛する記事を書き散らしていた。
(……何かが、この狂乱を無理やり支えている。だが、それは一体何だ?)
その答えの糸口は、ある日の午後、ウォール街の片隅にある場末のバーで、不意に彼の目の前に現れた。
「見たか、ベン! 神の恵みだ!」
情報屋の同期が、血走った目でウォール・ストリート・ジャーナルの速報版を突きつけてきた。
『“NCPC Bond”、シカゴ商品取引所に、試験上場決定!』
NCPC債――あの、日本の海軍が発行しているという、非課税の奇妙な紙切れ。ベンもその噂は耳にしていた。だが、それがまさかアメリカで最も権威ある取引所に上場されるとは。
「利回りは国債並み。なのに非課税。そして担保は、あのロシア艦隊を沈めた日本海軍の『任務の記録』だと? ……これは神が我々“利回り難民”に与えてくれた、最後の福音だ!」
情報屋の狂喜乱舞する姿を見て、ベンの背筋に冷たいものが走った。
(これだ……。この紙切れが、最後のバブルの起爆剤か)
彼はその日から、NCPC債という怪物の正体を、憑かれたように追い始めた。その調査は、彼をニューヨークの熱狂から、ワシントンD.C.のより冷たく、より深い闇へと導いていった。
⸻
ワシントンの空気は、偽善と欺瞞の匂いがした。
ベンはキャピトル・ヒルの記者席で、二つの全く異なる、しかし、同じくらい狂った光景を目の当たりにしていた。
下院の委員会室では、保守派の重鎮議員が『NCPC債流通禁止法案』の必要性を絶叫していた。
「これは、日本の見えざる金融侵略である!」
だが、その正義の叫びは空虚だった。財務省の役人たちは「軍事機密の壁」という言い訳の後ろに隠れ、誰もその「侵略」の具体的な証拠を提示しようとしない。議論は空転し、法案は骨抜きにされようとしていた。
そして廊下を挟んだ、上院の公聴会室。
そこでは『国際商品先物市場の近代化法案』が、ウォール街から来たロビイストたちの賞賛の声に包まれていた。
「……シカゴやニューヨークの取引所を、あらゆる金融商品のハブとすることこそ、この偉大なるアメリカの繁栄を約束するのです!」
そのあまりにシュールな光景に、ベンは吐き気を覚えた。この国は、もはや正常ではない。
その夜、ベンは馴染みの酒場で、議会の若いスタッフ、ピートとグラスを傾けていた。ピートは理想に燃えてこの街に来たが、今ではすっかりシニカルな現実主義者になり果てていた。
「聞いたか、ベン。近代化法案、来週にも採決らしいぜ。ウォール街の連中の完全勝利だ」
「ああ、見たよ。今日も素晴らしい演説だったな」
「だが、何かおかしいんだ」ピートは声を潜めた。
「あの公聴会、近代化の話のはずなのに、証言に立つ銀行家もロビイストも、なぜかやたらと日本の『制度債』の話ばかりするんだ。『あらゆる可能性に開かれた市場を』とか言ってな。まるであの法案が、あの日本の紙切れのためにあるみたいじゃないか」
その一言が、ベンのジャーナリストとしての勘に火をつけた。
(……まさか)
彼はピートと別れると、タクシーを飛ばして議会図書館へと向かった。閉館間際の薄暗い書庫で、彼は『国際商品先物市場の近代化法案』の、電話帳のように分厚い原文の束を借り出した。
深夜、安ホテルの部屋。ウイスキーを呷りながら、彼はその法文の砂漠を彷徨った。複雑怪奇な法律用語の羅列。眠気と戦いながら、彼はピートの言葉を手がかりに、「証券」「外国」「信用」といった単語を、指で追い続けた。
そして、午前三時を回った頃。
彼は、ついにそれを見つけ出した。
膨大な条文の、その片隅。他の条項の影に隠れるように、まるで毒蛇のようにとぐろを巻いていた、悪魔の一文を。
『……尚、本法案ニオイテ取引対象トスル商品ニハ、外国政府ノ信用ニ基ヅク証券類、例エバ“制度信用証券(Institutional Credit Security)”等ヲ含ムモノトス…』
「……………っ!!」
ベンは、息を呑んだ。声にならない叫びが、喉の奥で詰まった。
これだ。これが、全てだったのか。
表では「禁止法案」で国民の目を欺き、その裏で、ウォール街は自らの利益のために、NCPC債を合法化する「時限爆弾」を、国家の法律に仕込んでいたのだ。
これは、陰謀だ。国家に対する、巨大な裏切り行為だ。
翌日、彼は震える手で編集長に電話をかけた。
「……見つけました。ウォール街と議会が結託した、国家的なスキャンダルです!」
だが受話器の向こうの編集長の反応は、氷のように冷たかった。
「……ベン、落ち着け。……そのネタは、追うな」
「な、なぜです! これは世紀の大スクープだ!」
「分からんのか!」編集長の声が、苛立ちに変わった。
「その法案の最大の推進者は、誰だと思っている。我が社の筆頭株主である、ナショナル・シティ・バンクだぞ! ……君は、自分の会社を潰したいのかね?」
電話は、一方的に切られた。
ベンは崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
正義も、真実も、この国にはもう存在しないのか。
その絶望の淵で、彼は最後の賭けに出ることを決意した。
この全ての混乱の元凶である、あの男に直接会うしかない、と。
⸻
ワシントンの日本大使館。駐米武官、東郷一成は、ベンの荒々しい詰問を、ただ静かに、まるで興味深い研究対象を観察するかのように聞いていた。
「……大佐! あなたは、全て知っていたはずだ! 我が国の議会が、ウォール街の金で腐りきっていることを! そして、その腐敗を利用して、あなたのその怪物を、我が国の心臓部に合法的に寄生させようとしていることを!」
ベンは、取材であることすら忘れ、怒りに任せて叫んでいた。それは単なる正義感からの怒りではなかった。自らが信じてきた「市場の合理性」という美しい信仰が、目の前の男によって汚され、利用されていることへの、裏切られた信者の絶望の叫びだった。
しかし、東郷はまるで、嵐の海を凪いだ港から眺めている船乗りのように、どこまでも穏やかだった。
「カーター君。私は、何も利用などしてはおりませんよ」
東郷は静かに言った。その声には一切の悪意も、嘲りもなかった。ただ、揺るぎない事実だけがそこにあった。
「私はただ、貴方が、そして貴方が学ばれた偉大なシカゴの碩学たちが信じておられるような、市場の“合理的な判断”を、静かに見守っていたに過ぎません」
「……何だと?」
「考えてもみなさい」東郷は、まるで大学の講義をするように、指を折りながら続けた。
「ウォール街の銀行家たちは、なぜNCPC債を買うのか? それが、非課税で、国債よりも安全で、高い利回り(アービトラージ益)を生む『最も合理的な投資先』だからです。彼らは、自らの利益を最大化するという、極めて合理的な経済人として行動しているに過ぎない」
「スタンダード・オイル社は、なぜNCPC債で石油を売るのか? それが、法人税を回避し、株主の利益を最大化する『最も合理的な経営判断』だからです。彼らもまた、教科書通りの合理的な企業として行動している」
「そして、貴国の偉大なる議員たちは、なぜ『近代化法案』を通そうとしているのか? それが、最大の支持基盤であるウォール街の利益に応え、自らの再選を確実にするための『最も合理的な政治的選択』だからです。彼らもまた、民主主義のルールの上で、極めて合理的に行動している」
東郷は立ち上がると、窓の外の凍てついたポトマック川を見つめた。
「カーター君。貴方が告発しようとしている陰謀など、どこにも存在しない。そこに在るのは、無数の個人と組織が、それぞれにとっての“最適解”を追求した結果として生まれた、必然の帰結だけです。私はただ、彼らが合理的に振る舞うための、新しい『選択肢』を市場に提示したに過ぎない」
ベンは、言葉を失った。全身から力が抜けていく。
目の前の男は、自分の信仰の核心を完璧に理解した上で、それを逆手に取っているのだ。
「……それは、詭弁だ!」ベンは、絞り出すように言った。
「個人の合理的な選択が、全体として国家を破滅させるような非合理な結果を生むことがある! それを経済学では『合成の誤謬』と呼ぶ! あなたはそれを知っていて、この悲劇を仕組んだんだ!」
「その通りです」
東郷は、こともなげに頷いた。
「そして、その『合成の誤謬』が起きることを知りながら、誰もそれを止められない。なぜなら、全てのプレイヤーが、自らの合理性に基づいて行動することをやめられないからです。……それこそが、貴方が信じる『市場の神の見えざる手』の、本当の姿なのではないですか?」
東郷はまるで、嵐の海を凪いだ港から眺めている船乗りのように、どこまでも穏やかだった。
「カーター君。私は、何度も申し上げている。制度債は通貨ではない。……それを貴国の偉大な市場と、民主的な議会が、自由な取引の中で価値あるものとして見出してくださるのであれば、それは貴国の自由であり、資本主義の健全な発露というものでしょう」
だがその顔の裏に、大粒の冷や汗が浮かんでいることを、ベンは知らなかった。
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