空虚な福音
時:1929年(昭和四年)、年明け
場所:ワシントンD.C.、国務省長官室
合衆国国務長官ヘンリー・スティムソンは、自らが口述した南京の蒋介石に宛てる電文の最終稿を、満足げに読み返していた。その文面は格調高い言葉と、揺るぎない善意、そして友人への温かい激励に満ちていた。
『親愛なる我が友、蒋介石将軍へ』
『貴国が今直面している経済的困難に対し、合衆国政府および国民は、心より深い同情の念を禁じ得ない。貴殿が、我が国の財務省が断行した銀価格への市場介入について深い憂慮を表明されたこと、承知している。……しかし我が友よ。どうか、大局を見失わないでくれたまえ』
『今回の措置は、断じて貴国の経済を害することを目的としたものではない。むしろ、これは無法な手段でアジアの金融秩序を乱す、日本の軍国主義者たちの企みを挫くための、必要な“外科手術”であったのだ。短期的には痛みを伴うやもしれぬ。しかしこの手術によって、アジアの経済は、より健全で、より安定した未来へと向かうであろう』
『そして現在、世界を覆いつつある、この制度債という名の嵐。……これもまた、神が我々に与えた試練であると、私は信じている。この試練を乗り越えた先にこそ、真の繁栄があるのだ、と』
『我が国は今、貴国の産品に対する門戸を、最大限に開放しようと努めている。これが、貴国の最も優れた友人である、我々アメリカにできる、最大の誠意だ。……どうかこの困難な時期を、我々と共に乗り越えていこうではないか。正義は必ずや、我らの側にあるのだから』
『貴殿の、そして新しい中国の、輝かしい未来を信じて』
『友、ヘンリー・スティムソンより』
スティムソンは、ペンを置いた。完璧な電文だった。 彼は、自らの言葉の誠実さと高潔さに、心から満足していた。
そうだ。これは、試練なのだ。そしてアメリカは、その試練に苦しむ友人(中国)を、見捨てるようなことはしない。我々は彼らのために市場を開放し、彼らの商品を買ってやるのだ。これ以上の友好の証があるだろうか。
彼は、自らがその「外科手術」によって、友人の体に致命傷を負わせたことにも、そして、その「門戸開放」という名の誠意が、弱り切った友人の最後の息の根を止めかねない、ただの自国本位の経済政策であることにも、全く気づいてはいなかった。 彼は白亜の神殿の中で、ただ自らの信じる「正義」の、美しい福音を唱えているだけだった。
⸻
同じ頃日本大使館の武官室で、東郷一成は頭の芯がズキズキと痛むのを感じていた。片頭痛だった。それは彼の知性を直接殴りつけるような、不快な痛みだった。
彼の目の前には、すっかり温くなった茶の入った湯呑みと、国務省の内部にいる数少ない「現実主義者」の友人から、アメリカに出張で来ていた華僑の林文蘭に非公式にリークされた、スティムソンの、あの南京宛ての電文の写しが置かれていた。
「……………読んでくれるかね、伊藤君」
彼はもう、その文字を目で追うことさえうんざりしていた。 副官の伊藤整一が感情を押し殺した声で、その美辞麗句に満ちた電文を読み上げていく。
『……必要な“外科手術”であったのだ…』
「……外科手術、だと?」東郷は、乾いた笑いを漏らした。
「患者の同意も得ずに、麻酔もなしに、錆びた斧を振り下ろしただけではないか。それは、ただの傷害致死だ」
『……神が、我々に与えた試練である…』
「神か。素晴らしいな。自分たちの愚劣な金融政策の失敗の責任を、神になすりつけるとは。……あのメロンという男は、次の日曜日には、教会でどんな顔をして祈りを捧げるのだろうな」
『……門戸を、最大限に開放しようと努めている…』
「ああ、そうだ。門戸を開放するだろう。そしてアメリカの売れ残った自動車や小麦を、洪水の如く彼の国に流し込み、彼の国の貧しい農民や工場労働者たちを、一人残らず失業させるのだ。……なんと、慈悲深いことだろう」
伊藤が電文を読み終えた時、東郷は深く椅子に身を沈めていた。
「……伊藤君」
東郷一成は、こめかみを押さえながら低く言った。片頭痛が、思考の芯を直接金槌で殴りつけてくるようだった。
「……もう一度、最後の部分を読んでくれるかね。あの、最も感動的な部分を」
副官の伊藤整一は、感情を必死にこらえた声で電文の末尾を読み上げた。
『……どうか、この困難な時期を我々と共に乗り越えていこうではないか。正義は、必ずや我らの側にあるのだから』
「…………ぷっ」
東郷は、思わず吹き出した。
しかし、それは笑いではなかった。痛みをこらえるための、痙攣に近い発作だった。
「……素晴らしいな、伊藤君。実に素晴らしい。彼は、自分が突き落とした相手に崖の上から手を差し伸べ、『さあ、共に乗り越えよう! 正義は我らにあり!』と叫んでいるのだ。これはもはや外交ではない。サイコパスによる、壮大なDVだ」
東郷は、椅子に深く身を沈めた。頭痛が思考を麻痺させる。
(スティムソン、君は自分が“正しい”と信じて疑わない。だから、タチが悪いんだ。君の『正義』は、もはや麻薬だ。
それを摂取すると、複雑な現実(アジアの金融秩序)が、『善 vs. 悪(日本の軍国主義)』という、単純で心地よい二元論に見えてくる。
その麻薬に酔っているから、自分の行動(銀売介入)が、友人(中国)を殺しているという現実から、目を背けることができる)
(そして、君は『門戸開放』という、さらに強い麻薬を処方しようとしている。
『我々は、市場を開放するという“善行”をしているのだから、その結果、中国の産業が壊滅しても、それは仕方のない“副作用”だ』と、自分を正当化するために)
「……大佐」伊藤が心配そうに声をかけた。「顔色が…」
「いや、大丈夫だ」東郷は手を上げた。
「ただ、少し眩暈がしただけだ」
彼は、別の電報を手に取った。南京の、蒋介石の側近から、非公式に送られてきた、悲痛なメッセージだった。
『……スティムソン長官ヨリ、不可解ナル電文届ク。……我々ハ見捨テラレタノカ。……日本側ノ真意ヲ問ウ…』
東郷は、その電文を握りつぶした。
「伊藤君、分かるかね、この滑稽さが。
蒋介石はアメリカに裏切られ、その絶望から我々に助けを求めてきている。しかし、そのアメリカの愚行のきっかけを作ったのは、誰だ?我々だ。我々の制度債だ」
そう言うと、東郷はいったん茶をあおった。
「そして我々は、今その蒋介石を助けることができるか?できない。なぜなら、我々は済南で彼に見切りをつけ、新しいパートナーとして北の張作霖を選んだばかりだからだ。今ここで我々が蒋介石に手を差し伸べれば、張作霖の信頼を失い、我々の満州における『制度』の根幹が揺らぐ」
「我々は、済南で『弱腰の日本鬼子』と罵られながら、自腹を切って居留民を撤退させたのだぞ。その舌の根も乾かぬうちに『やっぱり助けてやろう』などと、どの口が言えるか。そんなことをすれば、我々の『任務』の信認そのものが失墜する」
東郷は立ち上がると、窓の外の凍てついたポトマック川を見つめた。
「……この国が、家(中国)に火をつけた。
家主(蒋介石)は、火をつけた相手に絶望し、隣人(日本)に助けを求めている。しかし、その隣人(日本)は、その火事の原因が自分にあることを知っており、しかも別の家(張作霖)と新しい契約を結んだばかりなので、助けに行けない」
「……そして、火をつけた本人は、『大丈夫か! 今、新鮮な空気(アメリカ製品)を送ってやるからな!』と叫びながら、火事場にガソリンを撒こうとしている」
その時であった。大使館の警備員から、ウォール・ストリート・ジャーナルの速報版が東郷の手に渡される。
「……………っ!!」
東郷は絶句した。よりにもよってこのタイミングで。
『“NCPC Bond”、シカゴ商品取引所に、試験上場決定!』
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