9,000万ドル
前話の続きとなります。
FDRは黒板に『銀』と書いた。
「メロンが銀を暴落させた。仮に20%としよう。東郷はこのチャンスを逃さない。彼は、このアービトラージでアメリカに流出したNCPC債を、アジアの市場で買い戻し始める。どうやって? もちろん、ドルを使ってだ」
「ドル? 彼らはどこからドルを?」
「我々自身だよ、ハリー! スタンダード・オイルに石油代金として支払った、あの100万ドル分の石油だ!」
FDRは、金の流れを矢印で示した。
① 米国企業 → 日本海軍(石油100万ドル分)
② 日本海軍 → 米国企業(対価として100万ドル分の100万制度円発行、アメリカで石油を売却して現金化)
③ 米国企業 → ウォール街(100万制度円を120万ドルで売却)
「いいかね。この時点で、日本海軍の手元には100万ドルの現金がある。そして、東郷はこの100万ドルを手に暴落した銀市場へ向かう。銀は20%も安い。つまり彼は100万ドルで、本来なら125万ドル分の銀塊を手に入れることができるのだ!」
100万ドル ÷ (1-0.2) = 125万ドル相当の銀
「そして、その銀塊はどこへ行く? もちろん横須賀の地下金庫だ。どうだね、ハリー。これが錬金術でなくて何だ? 我々アメリカの税金になるはずだった利益が、ウォール街の強欲を経由して、日本の軍事力を支える純銀へと姿を変えているのだ。しかもそのきっかけを作ったのは、他ならぬ我らが財務長官閣下だ!」
FDRの声は震えていた。
「そして、これで終わりではない。最後の仕上げが残っている」
「まだ、あるのですか……」
「ああ。東郷は125万ドル分の銀を手に入れた。彼は次に、この銀を担保にアジア市場で『銀建てNCPC債』を発行する。そしてそのNCPC債で、ウォール街の投機家たちが持っている『ドル建てNCPC債』を買い戻すのだ。市場価格は1.2ドル=1.0制度円。彼は120万ドル分のNCPC債を買い戻すのに、いくらの銀が必要だと思う?」
ホプキンスはもはや、思考を放棄していた。
「……100万ドル分、です……」
「その通りだ!」
120万制度円 × 1.0 = 120万ドル
120万ドル ÷ 1.2 = 100万ドル
FDRは黒板に最終的な収支を書き記した。
【日本海軍の利益】
収入: 125万ドル相当の銀
支出: 100万ドル相当の銀(NCPC債買い戻し)
純利益:25万ドル相当の純銀
「どうだ、ハリー。日本海軍はスタンダード・オイルに石油を納入させただけで、ただの一回の取引で25万ドル分の銀塊を懐に入れた。我々は石油という戦略物資を敵に与える取引で20万ドルの脱税を許し、その上25万ドル分の富まで献上したのだ! これが、我々の偉大なる財務省と国務省が演じた、壮大な茶番劇の結末だ!」
ホプキンスは言葉を失い、青ざめた顔で黒板の数字を見つめていた。
「そして君は、メロンが制度債を暴落させるために、実際にどれだけの銀を売ろうとしていたか、知っているかね? 思い出せ、ハリー。彼が、そしてその後の我々アメリカが、最終的にどれだけの銀を市場に放出したかを」
FDRは黒板に、震える手で一つの数字を書き記した。
『400,000,000オンス』
「……よん、おく……?」
ホプキンスの声が、かすかに上ずった。
「そうだ。4億オンス。これはアメリカ政府が保有していた銀の、ほぼ全てだ。メロンはNCPC債という名の小さな害虫を駆除するために、自国の銀備蓄という名の森全てに火を放とうとしたのだ。もちろん、一度にではない。だがその最初の一撃だけで、市場は完全に破壊された」
FDRは、先ほどのシミュレーションの数字を乱暴に消した。
「さあ、ハリー。もう一度計算し直そう。今度は銀だ」
【前提条件のアップデート】
アメリカの銀売却量(第一波): 総保有量の1/4にあたる1億オンスとする。
銀価格の暴落率: 20%どころではない。世界最大の銀保有国がこれだけの量を放出すれば、市場はパニックに陥る。60%の暴落と仮定しよう。
【介入前】 1オンス = 0.50ドル
【介入後】 1オンス = 0.20ドル
「どうだね、ハリー。銀の価値が、半分以下になった。これが、メロンがNCPC債を潰すために用意した爆弾だ。そしてこの爆弾は目標(NCPC債)には全く当たらず、その爆風は我々の最も重要な同盟国であるはずの中国全土を襲った」
【中国の被害シミュレーション】
「中国の銀保有量は、約10億オンス。その価値は、一夜にしてどうなった?」
【介入前】 10億オンス × 0.50ドル/オンス = 5億ドル
【介入後】 10億オンス × 0.20ドル/オンス = 2億ドル
「分かるかね? メロンは、たった一つの愚かな決定で、中国の国家資産の6割、実に3億ドルを一瞬にして蒸発させたのだ。これはどんな略奪よりも遥かに大規模で、遥かに破壊的な経済的侵略だ。スティムソンが支援していた法幣改革など、もはや塵芥と化した」
ホプキンスは、もはや立っていることさえやっとだった。壁に手をつき、かろうじて体を支えている。
「さあ、ここからが東郷の時間だ、ハリー。この地獄のような焼け野原で、彼がどれだけの富を拾い集めたか、見てみようじゃないか」
【東郷の利益シミュレーション】
「パニックに陥った中国市場から流出する銀。それはもはや10%どころではない。国家の存亡の危機だ。最低でも30%は流出したと見るべきだ。つまり3億オンスの銀が上海の市場に溢れかえった」
流出銀量: 10億オンス × 30% = 3億オンス
「東郷はこの3億オンスの銀を、1オンス=0.20ドルの投げ売り価格で買い占める。必要なドルはいくらかな?」
買付コスト: 3億オンス × 0.20ドル/オンス = 6,000万ドル
「この6,000万ドルを、彼はどこから持ってくる? 心配ご無用だ。米企業との軍需品取引の名目でアービトラージで稼いだドルが、彼の金庫には唸るほどある。あるいは日米間の決済を仲介する際の手数料で得たドルかもしれないな。どちらにせよ出所は我々の金だ」
「そして、彼が手に入れた3億オンスの銀。その“本来の”価値は?」
本来の価値: 3億オンス × 0.50ドル/オンス = 1億5,000万ドル
「さあ、ハリー。引き算の時間だ。東郷がこの一度の“火事場泥棒”で手に入れた純利益はいくらだ?」
純利益:1億5,000万ドル - 6,000万ドル = 9,000万ドル
FDRは黒板に、その天文学的な数字を叩きつけるように書き記した。
『$90,000,000』
「きゅう、せんまん…ドル……」
ホプキンスの声は、もはや音になっていなかった。
「そうだ。9,000万ドル。これは我が国の税金で、日本の陸海軍の年間予算の4割近くを丸ごとプレゼントしてしまったに等しいのだ!しかも基本的に予算の大半は、人件費などの支払いで消える固定費だ。議会の承認なしに、自由に戦略的に使える金として考えれば、この9,000万ドルの持つ価値はそれ以上だ!!
メロンの馬鹿は、たった一人で日本の軍事費の半分以上に匹敵する富を、日本の海軍にプレゼントしてしまったのだ。それも純度100%の、国際決済が可能なハードカレンシー(純銀)という形でな!!!」
FDRは、絶叫とともにチョークを床に叩きつけた。それは粉々に砕け散った。
「ハリー、分かるか? 我々が今、何を見ているのかを。これはもはや、金融政策の失敗などという生易しいものではない。これは歴史上最も高くついた、壮大な利敵行為だ。我々は自らの手で、極東に自分たち自身を滅ぼしかねないほどの力を持つ、巨大な怪物を育て上げてしまったのだ!」
それはもはや分析ではなかった。
それは、まもなくこの国を襲う未曾有の経済的カタストロフィの始まりを告げる、冷たい予言だった。
そして、その引き金を引いたのが他ならぬ我々自身であったという、救いようのない絶望感。
FDRはグラスに残ったブランデーを一気に飲み干した。
その味は、まるで敗北そのものの味だった。
書斎は、完全な沈黙に支配された。
暖炉の熾火が最後の光を放ち、そして静かに消えていく。まるで、この国の輝かしい繁栄の時代の終わりを告げるかのように。
「……フランク」
ホプキンスが、絞り出すような声で言った。
「……もう、手遅れなのか」
その問いに、FDRは答えられなかった。
ただ、黒板に書かれた『$90,000,000』という数字が、ワシントンの冬の夜の闇の中で不気味なまでに白く、そして絶対的な存在感を放っていた。
それは罪の値段だった。
そして、これから始まる長い長い戦争の、最初の軍資金でもあった。
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