高原の上の死体
時:1928年(昭和三年)、年末
場所:ニューヨーク州知事公邸
ワシントンD.C.からFDRが夜汽車で戻った執務室は、冷え切っていた。暖炉の火はすでに熾火となり、部屋の隅々には深い影が沈んでいる。
ハリー・ホプキンスは何も言わず、新しいブランデーをFDRのグラスに注いだ。琥珀色の液体がランプの光を吸い込み、重く揺れる。
「……ハリー」
FDRが自分でも驚くほど、声は静かだった。
「財務省の連中は、今頃何と言っているだろうな」
「“こんなはずではなかった”と、言っているでしょうな」
ホプキンスの答えは皮肉に満ちていた。
「だろうな」
FDRは乾いた笑いを漏らした。
「彼らは、自分たちこそドルと金本位制という神聖な秩序の“守護者”だと信じて疑わなかった。
だから東郷の“通貨ではない”という詭弁を逆手に取り、偽の債券をばら撒き、信用の源泉たる銀の価値を暴落させれば、その異端の神を殺せるとでも思ったのだ」
FDRはグラスを手に取った。
氷がカランと鳴り、まるで悲鳴のように響いた。
「……だが、結果はどうだ。彼らは墓穴を掘った。
それも、アメリカ経済そのものを埋葬しかねないほどの巨大な墓穴をな」
「……フランク。君は一体、何が見えている?」
ホプキンスの問いに、FDRはゆっくりと首を横に振った。
「見えているのではない。見えてしまったのだよ、ハリー。我々が犯した致命的な過ちの、その恐るべき結末が」
FDRは車椅子をきしませた。
「考えてもみろ、金本位制――その本質は何だ?それは“金といつでも交換できる”という国家の約束、その一点の信用によって支えられた砂上の楼閣だ」
「そうだ。そして、その信用を担保しているのがNY連銀など全米各地に眠る世界最大の金の量。だからこそドルは最強なのだと……」
ケンタッキー州のフォートノックスに、あの有名な金塊保管庫が建設されるのは1936年のことである。
「その最強のドルが、今まさに足元から崩れ始めているのだとしたら?」
FDRは地図の上の小さな日本を指さした。
「東郷の制度債は“金と兌換しない”――それが奴の理屈だった。ゆえに我々の金本位制の土俵の外にある、ただの奇妙な化け物に過ぎなかった。
しかし、我々の愚かな諜報員どもは何をした?
彼らは偽の制度債を作り、それを闇市場で“金”や“銀”と交換できるという前例を、自らの手で作ってしまった。そして東郷は、その前例に便乗したのだ」
FDRの声は怒りで震えていた。
「奴は今やこう言うだろう。“我々は望んでいなかった。しかし市場がそれを求める。ならば非公式に、限定的に交換に応じよう”と。――その結果、何が起きた?本来金とは無縁だった化け物が、我々の土俵に上がり、金と直接殴り合う力を手に入れてしまったのだ!」
「……だが、フランク」ホプキンスが反論する。
「それでも我々には、世界一の金塊がある。日本の海軍ふぜいがどれだけ銀を集めようと、ドルの信用には到底及ばないはずだ」
「本当か?」
FDRはホプキンスを振り返った。
「ハリー、今この国で一番金を持っているのは誰だ? 政府か?FRBか?違う。ウォール街の銀行家と投機家たちだ。そして今、その連中がこぞって何をしている?」
「制度債を買い漁っている……」
「そうだ。では、なぜ彼らが制度債を買うのか?非課税だからか?アービトラージができるからか?それもある。だが本質は違う。彼らはこう考えているのだ。“制度債は日本の軍事力という絶対に破綻しない実力で裏打ちされている。それに比べてドルの価値とは何か?政府の気まぐれな金融政策と、いつ暴落してもおかしくない狂った株価だけだ”――とな」
FDRは、窓の外の凍てついた闇を見つめた。
「ハリー。ウォール街の株価は今、“永遠に続く高原”にあると言われている。フーヴァー新大統領もそう信じている。だがな、私には見える。あの美しい高原の上には、すでにアメリカ経済という巨大な死体が横たわっている。ただ熱狂という熱病のせいで、まだ誰もその死臭に気づいていないだけだ。
そしてその死体の上を、ハイエナのように嗅ぎ回っているのが制度債なのだ。考えてみろ。もし明日、この株価の高原が崩れ落ちたらどうなる?人々は紙くずになった株券を投げ捨て、一斉に“安全な資産”へと殺到する。――金へ。そしてもう一つ。非課税であり、日本の軍事力で価値が保証された制度債へとな」
そう言ってFDRは、グラスのブランデーをあおった。
「その時、万が一アメリカの企業も国民も政府が発行するドルより、日本の海軍が発行する制度債を信用し始めたらどうする?財務省とFRBは、それでも“米ドルは無敵だ”と言い張れるのか?」
ホプキンスは言葉を失い、青ざめた顔で私を見つめていた。
FDRは、最後通告のように告げた。
「我々の失敗はな、ハリー。偽の通貨を作ったことそのものではない。彼らが犯した最大の罪は、ドルの競争相手をこの地上に誕生させてしまったことだ。それも、我々自身の手でな」
FDRは車椅子をきしませながら、壁の世界地図の前に移動した。
「ハリー、君は聡明な男だ。だが金融の専門家ではない。今から私が君が理解できる言葉で、我々が何をしでかしたのか、そのシミュレーションを見せてやろう。黒板を持ってきてくれ」
ホプキンスが戸惑いながらも黒板を運んでくると、FDRはチョークを手に取った。車椅子からでは書きにくいが、構わなかった。
「まず前提だ、ハリー。東郷の“制度債”は、日本の制度圏においては『任務コスト』で発行される。例えば、スタンダード・オイル社が100万ドル相当の石油を日本海軍に納入するという“任務”を遂行したとしよう。その対価として、彼らは100万制度円のNCPC債を手に入れる。仮にここでの交換レートは『1ドル=1制度円』で、これが原価だとしよう。いいかね?」
ホプキンスは頷いた。
「次に、メロン長官の愚行だ。彼は銀価格を暴落させた。仮に20%下落したとしよう。銀本位制の中国経済は大混乱に陥り、蒋介石は悲鳴を上げる。だがメロンはこれでNCPC債の価値も下がると信じた。現実はどうだ? 東郷は『銀は決済手段の一つに過ぎない』と言い放ち、その信用の源泉は揺らがなかった。それどころか、彼はこの混乱を利用して我々の市場に存在する“もう一つの敵”に接触した」
「敵……ですか?」
「そうだ。ウォール街の投機家たちだ」
FDRは黒板に『ウォール街』と大きく書いた。
「東郷は彼らにこう囁いた。『銀が暴落してアジア市場が不安定? ご心配なく。私のNCPC債は、いつでもドルや金と交換して差し上げますよ。ただし非公式に、ね』と。ONIの偽札作戦が作った闇ルートを、彼は公式に追認したのだ。
その結果、何が起きたか? ウォール街の連中は、NCPC債を『アジアの金融不安をヘッジする最高の安全資産』だと見なし始めた。価値が暴落する銀よりも、日本の軍事力に裏打ちされたNCPC債の方が安全だと判断したのだ。結果、NCPC債の“市場価格”は、投機的な需要によって原価の20%増し、つまり『1.2ドル=1制度円』で取引されるようになった。これが、我々が作り出した“価値の歪み”だ」
FDRは黒板に二つのレートを書き記した。
【日本(原価)】 1ドル = 1.0 制度円
【米国(市場)】 1.2ドル = 1.0制度円
「さあ、ハリー。ここからが本番だ。君がスタンダード・オイルの経営者ならどうする? 石油を売って手に入れた100万制度円。これを君ならどう使う?」
「それはもちろん、アメリカに持ち帰ってドルに換金します」
「その通りだ! 君は100万制度円をウォール街に持ち込み、市場価格で売りさばく。すると、君の手元にはいくらのドルが入る?」
ホプキンスは一瞬考え、そして目を見開いた。
「……120万ドル、か?」
「正解だ!」
FDRは黒板に計算式を書き殴った。
100万制度円 × 1.2 = 120万ドル
「石油を売っただけで、20万ドルの利益が生まれる。そしてスティムソンとメロンのおかげで、この20万ドルは『任務の記録』の価値変動益だから、非課税だ! これが、FDR流【必勝アービトラージ法】の第一幕だ。アメリカの大企業が日本の軍事活動に協力すればするほど、非課税で儲かるという地獄のサイクルが完成した」
「……信じられん」ホプキンスは呻いた。
「だが、これはまだ序の口だ、ハリー。本当の悪夢は、このアービトラージで誰が『損』をしているかだ。スタンダード・オイルが20万ドル儲けた。では、その20万ドルはどこから来た? 答えは、ウォール街の投機家たちだ。彼らは将来の値上がりを期待して、割高なNCPC債を買っている」
「では、日本海軍の懐は痛まないのですか?」
「全く痛まない! それどころか、彼らは笑いが止まらないだろう。なぜなら、ここからが東郷の仕掛けた第二の罠だからだ……」
いつもお読みいただきありがとうございます。次回に続きます。
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