アービトラージ
時:1928年(昭和三年)、年末
場所:ワシントンD.C. メトロポリタン・クラブ、書斎
暖炉の火が、磨き上げられたマホガニーの壁に深い影を落としていた。部屋の空気は上質な葉巻の香りと、数世紀分の革張りの蔵書の匂いで満たされている。
しかし、その静謐な空間に座る二人の男――アンドリュー・メロンとヘンリー・スティムソン――の周りだけは、オーバルオフィスから持ち帰った氷のような空気が渦巻いていた。
「……好景気、だと?」
メロンは、バーボンのグラスを神経質に揺らしながら吐き捨てた。グラスの中の氷が、彼の内心を表すかのようにカランと乾いた音を立てる。
「あの『沈黙のカル』め。我々が引き起こしたこの国家的な醜態を、こともあろうに『好景気』と賞賛させ、その上で『何もしない』と宣言させるとは。これ以上の屈辱があるか」
「……我々の失態だ、アンドリュー」
スティムソンは、手つかずのブランデーを見つめたまま力なく言った。彼の正義感と矜持は、公聴会での完敗と、その後の大統領からの叱責で、粉々に打ち砕かれていた。
まさにその時だった。車椅子が分厚い絨毯の上を滑る、静かな、しかし有無を言わせぬ音と共に、一人の男がその輪の中に加わったのは。
「やあ、両長官。歴史的な記者会見、ご苦労だったね」
フランクリン・デラノ・ルーズベルト。ニューヨーク州知事。その人懐っこい笑顔は、敗北に打ちひしがれた二人の男にとって、悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「フランクリンか。……我々を笑いに来たのかね」
スティムソンが、棘のある声で言った。
「まさか。祝福しに来たのだよ」
FDRは、にこやかに言った。その声は、暖炉の火のように暖かかったが、その言葉は北極の氷のように鋭利だった。
「メロン長官、スティムソン長官、おめでとうございます! あなたたちの偉大な功績によって、ウォール街に新しいビジネスが誕生しました。その名も『日米“定義”裁定取引(Japan-US Definition Arbitrage)』!」
FDRはまるで新しい発明品を披露するかのように、その言葉を響かせた。メロンとスティムソンの顔から、さっと血の気が引いていく。
「君たちはまだ、気づいていないようだね」
FDRは憐れむような目で二人を見つめた。
「君たちが、あの忌々しい公聴会でどれほど素晴らしく、どれほど創造的な仕事をしてのけたのかを。……私が説明してやろう。君たちがこの国に何をもたらしたのかを」
彼は、車椅子を二人の正面に進めた。
「まず、アメリカ(ウォール街)では……NCPC債は『非課税で』『ドルや金と交換できる』『価値が上昇中の』『外国為替(金融商品)』となった。これは、君たちが法廷闘争ごっこに敗れた結果、市場が下した結論だ」
「そして、日本では……NCPC債は『通貨ではなく』『円とは交換できず』『価値は任務記録に固定された』『ただの証憑』のままだ。これは、東郷が最初から主張し続けている定義だ」
FDRはそこで一度言葉を切り、二人を交互に見つめた。
「分かりますか? 同じ一枚の紙切れが、太平洋を挟んで全く異なる『定義』を持っている。こんなに儲かる話はありません。なぜなら二つの市場の間に、巨大な『価値の歪み』が生まれたからです。そしてその歪みを利用して無限に利益を生み出す魔法……それこそが、アービトラージ(裁定取引)だ」
FDRはまるで授業の出来の悪い生徒に教え諭すかのように、指を折りながら続けた。
「では、諸君のために【必勝アービトラージ法】を伝授しよう。よく聞きたまえ」
「第一段階。日本の制度圏で『任務』を遂行する。例えば、スタンダード・オイル社が日本海軍に石油を納入する。その対価として、NCPC債を『原価(任務コスト)』で手に入れる」
「第二段階。そのNCPC債をアメリカに持ち込む。そして、君たちがその存在を公認し、ウォール街がお祭り騒ぎで取引しているこの市場で、『市場価格(投機的価値)』で売りさばく」
「第三段階。――そして、ここが一番素晴らしいところだが――その差額は、まるまる非課税の利益となる! なぜなら、これは君たち自身が『通貨ではないかもしれない何か』であり『所得ではないかもしれない何か』だと、お墨付きを与えてしまったからだ!」
書斎にFDRの静かな、しかし全てを断罪するような声だけが響き渡った。メロンのグラスを持つ手が、かすかに震えている。スティムソンの顔は、もはや真っ白だった。
「この『アービトラージ天国』を制度的に作り出し、その合法性を国家として保証してしまったのが、誰あろう、メロン長官とスティムソン長官、あなたたち自身なのです!」
FDRは、机を指で叩いた。
「あなたたちは、東郷のために世界最大の『錬金術』の装置を、アメリカの国家予算と威信をかけて作り上げてしまったんですよ! あなたたちは彼と戦ったのではない。彼の神殿を、我々の税金で、金ピカに飾り付けてやっただけだ!」
もはや、言葉はなかった。
メロンはバーボンを呷ろうとして、グラスを落としそうになった。スティムソンは、ただ俯いて肩を震わせている。
FDRは、車椅子を反転させた。その背中に向かって、スティムソンが絞り出すような声で言った。
「……我々は、どうすれば……」
「どうもしないさ」
FDRは振り返らずに言った。
「君たちの偉大な大統領が言っただろう。『政府は何もしない』と。……君たちは自らが掘った墓穴の中で、この国が作り出した好景気をただ黙って祝福し続けるしかない。……東郷が、その墓穴に土をかけ終えるその日までな」
そして彼は、最後に付け加えることを忘れなかった。その声はもはや怒りではなく、深い深い哀しみを帯びていた。
「……本当の問題はこの錬金術で誰が儲けるか、ではない。メロン君、スティムソン君。本当の問題は、この狂乱の宴がいつか必ず終わるということだ。そして音楽が止まった時、この馬鹿げた椅子取りゲームの代金を支払わされるのが、誰なのか。……君たちに、その請求書を読む覚悟があるのかね?」
車椅子の去った後、書斎には暖炉の火が燃える音と、二人の男の死んだような沈黙だけが残された。
彼らは自らが「正義」と信じた行いが、この国に史上最大の「皮肉」をもたらしたことをようやく理解した。
そしてその皮肉の名を「好景気」と呼ぶのである。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




