スプルーアンスからの絶叫
時:1928年(昭和三年)
場所:ワシントンD.C.、海軍省作戦本部
ポトマック川から吹き付ける風が、作戦本部の窓ガラスをカタカタと震わせていた。室内に吊るされた太平洋の巨大な海図が、まるで溜息をつくように、静かに揺れる。無数の赤いピンが打たれたその地図――来るべき対日戦争計画「オレンジ・プラン」――は、もはや戦略図ではなく、壮大なジョークの舞台装置のように見えた。
レイモンド・スプルーアンスは、机の上に積み上げられた、山のような報告書の束を前に、もう何度目になるか分からない深い溜息をついた。報告書の送り主は、財務省、国務省、そしてホワイトハウス。だがそのどれもがこの国の危機を救うための処方箋ではなく、互いに責任をなすりつけ合うだけの醜い言い訳の羅列に過ぎなかった。
「……読んだか、レイ」
背後からかけられた声。振り返ると航空局のマーク・ミッチャーが、苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。その手には、バーボンがなみなみと注がれたグラスが握られている。合衆国海軍では勤務中の飲酒はご法度だ。だが、今の彼らを咎める者はいなかった。
「ああ、読んだよ、マーク」スプルーアンスは眼鏡を外し、疲れた目頭を押さえた。「傑作だった。シェイクスピアも裸足で逃げ出すほどの、見事な悲喜劇だ」
彼は、財務省からの報告書を指で弾いた。
「『敵の砲弾は実は市場を活性化させる素晴らしい花火だった』だと? よくもまあ、こんな文章が書けるものだ。いい加減にしろ、この給料泥棒どもが!」
スプルーアンスの声が、珍しく荒らげた。それは、机上の書類に向けられた怒りではなかった。ワシントンD.C.という名の神殿に住まい、この国の運命を弄ぶ「神々」への、腹の底からの絶叫だった。
「貴様らは、この国の金融を守る『盾』ではなかったのか!? それがどうだ! 敵が仕掛けた『論理』という名の見えない砲弾一発で、司令部は大混乱! 互いに『お前のせいだ!』と殴り合いを始め、その醜態を隠すために、こんな意味不明な供述を始めている! 」
「財務省! 貴様は敵の金庫に札束を投げ込んだ! FRB! 貴様は敵前逃亡した! IRS! 貴様は戦意を喪失した! もういい! 貴様ら三馬鹿は全員、軍法会議だ! 貴様らのその専門家ヅラは、国家の危機の前では何の役にも立たんということが、今回よぉく分かった! 貴様らが守っているのはドルでも国家でもない! 自分たちのちっぽけなプライドと、教科書の最初の一ページに書いてある時代遅れの常識だけだ!」
ミッチャーは、黙ってバーボンを呷った。彼の脳裏には、アナポリスで机を並べたあの静かな東洋人の顔が浮かんでいた。
「カズの奴め。俺たちの国の一番醜い部分を、白日の下に晒してくれたものだ」
「醜い、か」スプルーアンスは、次に国務省からの報告書をひったくった。「マーク、君はまだ甘い。これは醜いなどというレベルではない。滑稽だ。あまりにも滑稽すぎて涙も出ん」
彼はまるで舞台役者のように、報告書の要旨を読み上げ始めた。
「スティムソン長官! あんたは一体、何がしたかったんだ!? 『法の支配』? 『国際秩序』? 結構なご身分だな! あんたがその高尚な理想とやらを振りかざして、敵を『法廷』という名のリングに上げた結果どうなった!?」
「あんたが用意した『通貨か、非通貨か』という、あれほど完璧だと思われた二者択一の罠。東郷はその罠を踏むどころか、その罠自体を骨董品のようにひょいと持ち上げこう言っている。
『これは、実に精巧にできた罠ですね。せっかくですから“アメリカ合衆国認定・外国通貨”という、立派なプレートをつけて、貴国のスミソニアン博物館にでも寄贈されてはいかがですかな? 未来の子供たちの、良い教育になるでしょう』と!」
「あんたは、東郷を『被告人席』に座らせたつもりだった。しかし現実は逆だ。東郷があんたと、そしてアメリカ合衆国そのものを『定義せよ』という、法の最も根源的で、最も厄介な『証言台』に立たせたのだ!」
スプルーアンスは、報告書をくしゃりと握り潰した。
この公聴会の後、スティムソンが断罪しようとした『不法行為』は、ウォール街では『史上最も安全で、儲かる投資商品』として熱狂的に祭り上げられることになる。
彼が守ろうとした『法の秩序』は、市場からは『ビジネスの邪魔をする、時代遅れの規制』として公然と嘲笑されることになる。
「あんたが最も嫌うはずの法の支配が及ばない『混沌』を、誰あろうあなた自身が、その正義の拳でこの国に叩き込んでしまったのですよ!おめでとう、長官! あなたは歴史に名を残すだろう! 自らの理想によって、自らの国家をかつてない混乱の渦に叩き込んだ、最も偉大な愛国者としてね!」
その絶叫はもはや誰に向けたものなのか、彼自身にも分からなくなっていた。
ミッチャーが、グラスを机に叩きつけるように置いた。
「レイ、もうよせ。聞いているだけで、頭がどうにかなりそうだ」
「どうにかなっているのは、我々ではない! あのホワイトハウスの主だ!」
スプルーアンスは窓の外、雪化粧を始めたワシントンの街並みの向こうにある、大統領執務室を睨みつけた。
「一番たちが悪いのはあんただ、大統領閣下ッ!!! 『何もしないのが一番』? それは、庭の芝生が勝手に伸びたり枯れたりしている時の話だ! 今、あんたの家の庭には日本という名の巨大なタンクローリーが突っ込んできて、地下の水道管(金融システム)を叩き割り、そこから『制度債』という名の未知の液体を庭中にばら撒いているんだぞ! それを見て『庭師の仕事だ』『水道屋に任せよう』『私は干渉しない』だと!? あんたはこの家の主だろうが!」
彼の声は怒りを通り越して、もはや悲痛な響きを帯びていた。
「あんたの二人の息子が、庭でスコップを持って殴り合いの喧嘩を始め、その隙に隣の家のワニ(東郷)が庭の池で気持ちよさそうに泳いでいるんだぞ! それを窓から眺めて『子供の喧嘩に親は口出ししないものだ』などと呟いている場合か! あんたがやっているのは『不干渉』という名の高尚な哲学じゃない! 『職務放棄』という名の、最も卑劣な怠慢だ! あんたが恐れているのは、国家の混乱じゃない! 自分が面倒な決断を下さなければならなくなることだけだ! 」
スプルーアンスは、その場に崩れ落ちるように椅子に座った。
「……ああ、そうだ。あんたは正しいのかもしれないな、大統領。こんな『文民』どもにこの国の運命を委ねなければならないのなら、いっそカズの言う『任務国家』の方が、よほどマシかもしれん」
作戦室に、暖炉の薪がはぜる音だけが響いていた。二人のこの国の海軍の頭脳を担う男たちが、深い絶望の中でただ沈黙している。
やがて、スプルーアンスは顔を上げた。その目は、赤く充血していた。
「……なあ、マーク。ワシントンの皆さんが快適なオフィスで高尚な議論に興じている間に、一つだけ忘れていやしないか?」
「……何だ?」
「我々米海軍には“オレンジ・プラン”という、この国の存亡を賭けた対日戦争計画があるということだ」
彼は壁の海図の前に立つと、その巨大な太平洋を拳で叩いた。
「この計画の前提は何か? 優勢な経済力で日本を圧倒し、艦隊決戦で勝利して日本を海上封鎖することだ! しかし、貴様らワシントンの皆さんがやったことは何か!? 敵の経済力を、我々の税金で増強してやった! 敵の金融システムを、我々の市場で権威づけてやった! そして我々自身の政府を内側から分裂させ、思考停止に陥らせた! 」
「もう一度聞くぞ! 我々はどうやって日本と戦えばいいんだ!? 予算も、政府の統一した戦略も、そして何より『何のために戦うのか』という大義名分すら、貴様らのせいで全てが揺らいでいる! 我々は今、地図も羅針盤も、そして味方からの補給の約束すらもないまま、太平洋という暗い海に放り出されようとしているんだ! これが貴様らの言う『文民統制』か!?」
彼は机の上に広げられた太平洋の海図の上に、崩れるように突っ伏した。
肩が小刻みに震えている。
それは、怒りではなかった。悲しみだった。
愛する国が、その最も偉大であるはずの指導者たちの手によって、内側から静かに、そして滑稽に腐敗していく様を目の当たりにしている、一人の軍人のどうしようもない悲しみだった。
雨は、まだ降り続いている。
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