聖域
時:1928年(昭和三年)、公聴会の数週間後
場所:ニューヨーク、ウォール街。JPモルガン商会の役員会議室
分厚い絨毯が足音を吸い込む、静寂に包まれた部屋。窓の外では世界経済を動かす喧騒が渦巻いているが、この部屋の中ではただならぬ緊張感が空気を支配していた。集まっているのはJPモルガン、ナショナル・シティ・バンク、クーン・ローブ商会といったアメリカの富を支配する金融機関のトップと、その顧問弁護団である。
議題は一つ――「NCPC債」
ある者はこれを「市場を破壊する脅威」と断じ、ある者はこれを「百年に一度の商機」と見た。しかし彼らが共通して抱いていた疑問は「これは法的に何なのか?」そして「どうすれば我々がコントロールできるのか?」であった。
議論が行き詰まる中、JPモルガンの首席法律顧問である、ハーヴィー・サリヴァンが口を開いた。彼の声は、法廷で判決を読み上げる判事のように重々しかった。
「……諸君、この“NCPC債”を、我々は根本的に見誤っていたようだ。我々はこれを『商品』か『通貨』かという視点でしか見ていなかった。だが日本側は、全く別の土俵で戦いを挑んできている。……ジェンキンス、調査の結果を報告してくれたまえ」
ジェンキンスと呼ばれた、ハーバード・ロー・スクールを首席で卒業したばかりの若い弁護士が、震える手で資料の頁をめくった。彼の顔は、まるで深淵を覗き込んでしまったかのように青ざめていた。
「……はい。結論から申し上げますと、この債は我々アメリカ合衆国の法体系において“驚くほど合法的に保護された存在”である可能性が極めて高い、ということが判明いたしました」
会議室がざわめく。
「まず、課税の問題です。内国歳入庁(IRS)は、当然これを所得と見なして課税しようと動いていますが、そこに第一の地雷が埋まっておりました」
ジェンキンスの声は、かすかに震えていた。
「……米西戦争後のフィリピンで、あるアメリカ人商人が現地政府の依頼で反乱軍の武装解除という『任務』を請け負い、対価として土地の利用権を得ました。国税庁がこれに課税しようとしたところ、連邦裁判所は『外国の主権政府から与えられた任務に対する対価は、合衆国の所得税法が規定する課税所得には該当しない』という判例を下しております。記録によれば、これは米比戦争における地雷のような判例として、今も生きている……」
サリヴァンが、重々しく引き取った。
「そして、日本側はまさにこの論理に乗っている。『NCPC債は、金銭ではなく“任務の記録”であり、国家主権に基づく“主権的信用付与”である』……したがって判例に則れば、課税はできないと」
部屋のあちこちから、呻き声が漏れた。それは自分たちが最も得意とするはずの「法」という名の土俵で、見知らぬ投げ技を食らったかのような驚愕の声だった。
「さらに、より根源的な問題がございます」ジェンキンスは、一呼吸置いて続けた。
「アメリカ合衆国憲法第6条第2項、通称『Supremacy Clause(至上法規条項)』です」
彼は、まるで聖書の一節を読み上げるかのように、その条文を諳んじた。
「『この憲法、およびこれに準拠して制定される合衆国の法律、ならびに合衆国の権限の下に締結され、または将来締結されるすべての条約は、国の最高法規である』……つまり、我が国が批准した条約は、国内法に優越するのです」
サリヴァンが、とどめを刺すように言った。
「そして、我が国はハーグ条約を批准している。この条約は、外国軍の正統な軍事活動とそれに付随する経済活動を、相互に尊重することを義務付けている。日本海軍は、国際連盟にも加盟する国家の正規軍であり、その活動は条約によって保護される。彼らがNCPC債の発行を『任務の一環』と定義する以上、我々がそれを国内法、すなわち税法で縛ろうとすること自体が条約違反と見なされかねんのだ」
会議室は、完全な沈黙に支配された。
そこにいる誰もが理解した。
これは経済戦争ではない。法廷闘争ですらない。
日本側は、アメリカが自ら築き上げてきた「法の支配」と「条約の尊重」という、神聖な理念そのものを盾にして、自分たちの金融商品を合法的に守り抜いているのだ。彼らは、我々の法体系の最も深い場所に、自らの「聖域」を築き上げてしまったのだ。
サリヴァンは、乾いた笑いを漏らした。
「見事なまでに、我々の法理論を逆手に取られている」
最後にサリヴァンが、ワシントンの公聴会後に東郷一成が新聞記者に残したというコメントを、皮肉な口調で読み上げた。
「……『ですから、我々は貴国アメリカのルールには、一切干渉しておりません』だそうだ。……諸君、結論は出た。我々はこの“NCPC債”と戦うことはできない。IRSも、財務省も、そして我々もだ。……ならば、我々がすべきことは一つしかない」
彼は、そこにいる全員の顔を見回した。その目はもはや法律家の目ではなかった。それは、新しい金鉱脈を発見した狩人の目だった。
「この、史上最も厄介で、最も完璧に合法な“安全資産”を、誰よりも多く買い集めるのだ」
⸻
サリヴァンの最後の一言は、号砲のように会議室の静寂を打ち破った。
それまでの法的な議論の緊張感は一瞬にして消え失せ、代わりに部屋を満たしたのは、血の匂いを嗅ぎつけた獣たちの剥き出しの欲望だった。
「……つまり、サリヴァン君」ナショナル・シティ・バンクの老練な頭取が、初めてその唇に貪欲な笑みを浮かべた。
「君が言いたいのは、こういうことかね。このNCPC債は政府の規制も、IRSの課税も及ばぬ、我々だけの『プライベート・マーケット』だと」
「その通りです」サリヴァンは頷いた。
「しかも、その価値は国家の軍事力という、最も確実な担保で裏打ちされている。金よりも安全で、国債よりも自由な資産。……諸君、これは金融の歴史における新しい大陸の発見です」
その瞬間から、会議室はウォール街の作戦司令室へと変貌した。
第一の矢:『情報』の独占
まずJPモルガンの頭取、トーマス・ラモントが即座に指示を飛ばした。
「直ちに、この会議の議事録を『最高機密』に指定しろ。今日ここで話された判例、条約に関する我々の法的見解は、我々だけの武器だ。財務省にも、国務省にも、ましてや新聞記者一匹たりとも嗅ぎつけさせるな」
「ジェンキンス君」サリヴァンは、まだ青ざめている若い弁護士の肩を叩いた。
「君には特別チームを編成してもらう。君の仕事は、NCPC債の合法性をさらに補強するための、あらゆる判例と国際法を探し出すことだ。我々の“聖域”を守るための、法的な城壁を築き上げるのだ」
彼らはまず、自分たちが発見した「金鉱」の情報を独占し、後から来る競合相手を排除するための、見えない堀を掘り始めた。
第二の矢:『人材』の囲い込み
クーン・ローブ商会のパートナーが、電話の受話器を取りながら言った。
「サンフランシスコとシアトルの支店長に連絡を。チャイナタウンの有力な両替商、アジア系の弁護士、そして何より、日本海軍と繋がりのある貿易商社の人間を、どんな手を使ってもいい、最高額の契約金で引き抜けと」
「そうだ」ラモントも頷いた。
「このゲームのルールを本当に理解しているのは、日本人自身だ。ならば、そのルールメーカーの懐にいる人間を我々のチームに引き入れるのが一番早い」
ウォール街のスカウトたちが、西海岸へ向けて動き出す。彼らの目的は、NCPC債という新しい言語を解する「通訳」、すなわち、この錬金術の秘密を知るアジア系のエリートたちを、根こそぎ囲い込むことだった。
第三の矢:『市場』の創造と支配
「そして、最も重要なことだ」サリヴァンは、部屋の中央に置かれた黒板に、チョークで一つの単語を書きつけた。
『NCPC-SWAP』
「現状、NCPC債は現物取引しかされていない。これでは、市場の規模は限られる。我々は、この“現物”から派生する、新しい金融商品を創造するのだ」
彼は、息つく間もなく続けた。
「NCPC債の将来の価格変動を予測する『先物取引』、NCPC債を担保にした『債券発行』、そしてNCPC債とドル、あるいは金との価値の変動リスクを交換する『スワップ取引』……我々は、NCPC債という一つの“原石”から、無数のデリバティブ(金融派生商品)を創り出し、全く新しい市場を我々の手で支配するのだ」
それは東郷一成ですらまだ思い描いていなかったであろう、資本主義の怪物たちが最も得意とする「錬金術」だった。彼らは東郷が作り出した「聖域」の上に、さらに複雑で、さらに巨大な自分たちだけの摩天楼を建てようとしていた。
「……サリヴァン君」ラモントが満足げに言った。
「君は、ただの法律家ではなかったようだ。君は我々と同じ種類の、強欲な商人だったというわけだ」
「光栄ですな」サリヴァンは、初めて心からの笑みを浮かべた。
その日、ウォール街は日本との「戦い」をやめた。
その代わり、彼らは日本海軍という、史上最も奇妙で、最も信用できる“ビジネスパートナー”を、最大限に利用し、そしてしゃぶり尽くすことを決意した。
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