狩人の挨拶
ロングアイランドの冷たい風が、海のほうから吹き上げていた。
乾いた枯れ葉が音を立て、サガモア・ヒルの小高い丘を幾筋もの螺旋を描いて舞い上がる。その頂に一つの墓があった。飾り気はない。だが石の質感とその置かれた角度が、まるで人間そのもののように、揺ぎない威厳を湛えていた。
「セオドア・ルーズベルト」
東郷一成は海軍の軍服の襟を正し、帽を取って深く頭を垂れた。その所作には、感傷よりも報告の気配があった。まるで長い航海を終えた部下が、上官の墓前で任務完了を告げるかのように。
――二十年前。
若き日本の海軍士官候補生がアメリカ大統領の特命を受けて、世界一周を目指す大白色艦隊に乗艦を許された。周囲は猛反対した。「黄禍論」の真っただ中で、アジアの青年を大統領艦隊に乗せるなど前代未聞だった。だがその決定を押し切ったのが、この墓の下に眠る男――セオドア・ルーズベルトであった。
「……閣下。ただ今、戻りました」
声は風に溶け、誰の耳にも届かない。それでも東郷は確かに語りかけていた。
「貴方が教えてくださったこの国の強さと、その傲慢さを。私は決して忘れておりません」
東郷の脳裏に、あの鋭い眼差しがよみがえる。世界を地図のように俯瞰する男の、強い意思のこもった瞳。かつてアナポリスで、その男が言った言葉を思い出す。
――“Civilization is a matter of conduct, not of color.”
(文明とは肌の色ではなく、行いの問題だ)
墓前に一輪の白菊を手向けると、東郷はゆっくりと踵を返した。その背はどこか軽やかで、次の戦場へ向かう将のように静かであった。これが彼にとってこの国における最初の、そして最も重要な「挨拶」であった。
――
同日、ワシントンD.C.のメトロポリタン・クラブ。その一室は、上質な葉巻の香りと古い革張りの椅子の匂いに満ちていた。東郷は、アナポリス時代の二期上の先輩レイモンド・スプルーアンスと、静かにグラスを傾けていた。1928年現在海軍作戦部情報課の主任参謀を務める彼は、昔と変わらず学者然とした冷静な瞳で東郷を見つめていた。
「相変わらずだな、カズ。君のやることはいつも、俺たちの理解の少し先を行く」
スプルーアンスはバーボンの氷を揺らしながら言った。彼の声には旧友への親しみと、職務上の警戒が奇妙に同居していた。
「君がばら撒いた、あの奇妙な紙切れのせいで、俺たちは連日報告書に追われている。財務省のメロン長官が、ついに本気でそれを潰しに来たぞ。知っているか?」
「ええ。新聞で読みました」東郷は静かに頷いた。
「銀の大量売却。実にメロン長官らしい、力任せで、そして……あまりにも分かりやすい一手です」
「分かりやすい、だと?」スプルーアンスは眉をひそめた。
「君のNCPC……制度債は、銀との兌換を保証することで、アジアでの信用を得ていたはずだ。その担保資産の価値をゼロにされたんだぞ。これは君のシステムにとって、致命傷ではないのか?」
「先輩、違います」東郷は、初めてその唇にかすかな笑みを浮かべた。
「メロン長官は壮大な勘違いをされている。彼は、私の制度債を『銀本位制の亜種』だと思っている。だから、銀の価格を破壊すれば私のシステムも崩壊すると信じている。……しかし、あれは銀本位制ではない。『任務本位制』です」
「任務……本位制?」
「そうです。NCPC債の本当の価値は、銀の重さではない。帝国海軍が『任務を遂行する』という、その事実そのものにある。済南で居留民を救出したこと、軍艦を建造したこと。それら一つ一つの“行い”が、信用の源泉なのです。銀は、その信用を可視化するための一つの道具に過ぎません」
スプルーアンスは息を呑んだ。目の前の男が語っていることは、もはや経済学の範疇を超えていた。それは国家の行動原理そのものを再定義する、哲学に近い何かだった。
「……つまりこういうことか、カズ」スプルーアンスは、絞り出すように言った。
「メロン長官は、戦艦の価値をその船体を構成する鉄スクラップの値段で測ろうとしている、と。そして、その鉄の値段を下げるために市場に鉄を溢れさせている。……だが戦艦の本当の価値は、その鋼鉄が持つ戦闘力にある。鉄の値段がいくら下がろうと、その戦闘力は少しも変わらない」
「ご明察です、先輩」東郷は、バーボンを一口含んだ。
「それどころか、我々にとってはむしろ好都合ですらある」
「好都合?」
「ええ。メロン長官は、自らの手で銀の価格を暴落させてくれた。これは我々にとって、最高のバーゲンセールです。我々は今、タダ同然の銀を買い漁っている。我々の外貨準備は、アメリカ財務省のおかげで、この数週間で三割も増えました。……正直に言えば、メロン長官をぶん殴りたいくらい感謝していますよ。いや、本当に分かっているアメリカ人なら、彼をぶん殴りたいはずだ」
そのあまりにも皮肉な、そして残酷な事実にスプルーアンスは言葉を失った。彼はグラスの中の琥珀色の液体を、ただ見つめることしかできなかった。メロンの「完璧な計算」は、東郷にとって「壮大なアシスト」でしかなかったのだ。
「……だが、カズ」スプルーアンスは、ようやく声を取り戻した。
「君のやり方は、あまりにも危険すぎる。君は中国を、そしてアジア全体を巻き込んでいる。メロンのこの一手で、銀本位制の中国経済は壊滅的な打撃を受けるだろう。蒋介石は、君を許さないかもしれんぞ」
その言葉に、東郷の笑みがふっと消えた。
「ええ。分かっています。蒋介石は、アメリカに裏切られたと感じるでしょう。彼は梯子を外され、孤立する。……そしてその時こそ、彼が本当に『信用できるパートナー』が誰なのかを、その身をもって知ることになるかもしれません」
スプルーアンスの背筋に、冷たいものが走った。東郷はメロンの銀売り介入がもたらす政治的な帰結までも、完璧に読んでいたのだ。
(こいつは……狩人だ)スプルーアンスは確信した。
(獲物が自ら罠にかかるのを待ち、その獲物がもがけばもがくほど、より大きな別の獲物(蒋介石)が手に入るように、二重、三重の罠を仕掛けている。俺は今、その狩人と、同じテーブルで酒を飲んでいるのか)
「……怖い男になったな、カズ」
それは、スプルーアンスの本心からの言葉だった。アナポリスで共に星を眺め、航海術を学んだ後輩。その瞳の奥には今、自分には到底見ることのできない、遥か未来の海図が広がっているようだった。
「先輩こそ」東郷は、グラスを置いた。
「貴方は、この国の海軍で最も冷静な頭脳を持っている。いずれ、艦隊を率いることになるでしょう。その時貴方の目の前に現れる敵は、私が作り出したこの怪物かもしれません」
「……その時は、容赦はしないぞ」
「望むところです」
二人は、グラスを軽く合わせた。カチンという乾いた音が、静かな室内に響く。それは旧友同士の再会を祝う音であり、同時にこれから始まる避けられぬ戦いのための、静かなる宣戦布告のようでもあった。
これ以上、言葉はなかった。
二人のアナポリス卒業生は、ただ黙って、窓の外に広がるワシントンの黄昏を見つめていた。
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