神殿の崩壊
時:1928年(昭和三年)、冬
場所:ワシントンD.C.、合衆国財務省ビル・長官室
財務省ビルの分厚い壁は、もはや外部の喧騒を遮断できていなかった。新聞配達の少年の叫び声、自動車のけたたましいクラクション、そしてウォール街から届く狂乱のテレタイプ端末の打鍵音。それら全てが、この国の金融秩序の心臓部であるはずのアンドリュー・メロンの執務室にまで、不協和音となって流れ込んでいた。
「……読んだかね、ヘンリー」 メロンは、机の上に無造作に放り出されたニューヨーク・タイムズの社説を指先で弾きながら言った。その声は、昨日の公聴会までの絶対的な自信が嘘のように乾ききっていた。
『見えざる経済的侵略!』
その扇情的な見出しの横で、ウォール・ストリート・ジャーナルは、全く逆の見出しを狂喜乱舞したかのように躍らせていた。
『市場に新たな“安全資産”誕生か?』
部屋のソファに深く身を沈めた国務長官ヘンリー・スティムソンは、答える代わりにただ目を閉じていた。彼の脳裏には、昨日の公聴会の、あの空気が凍りついた一瞬が悪夢のように焼き付いていた。
「……それならば、委員長。その証券は、貴国アメリカ合衆国において“外国通貨”としての地位を得たということになりますね」
あの、東郷一成という日本人の静かな、しかし悪魔のように正確な一言。 あれは罠だった。 我々が「通貨か、否か」と問い詰めたその瞬間に、我々はすでに彼の術中に嵌っていたのだ。
「……言い訳をするつもりかね、ヘンリー」メロンが低い声で言った。
「この茶番を仕組んだのは、君だろう。法と正義の劇場で、あの日本の猿を吊るし上げてやれると大見得を切ったのは」
「……私だけの責任ではないはずだ、アンドリュー」
スティムソンは、ようやく目を開けた。その瞳には深い疲労と、そして自らの過ちを認めたくないという、最後の矜持が浮かんでいた。
「君とて、あの『制度債』を、ただの銀の裏付けがある変則的な通貨だと信じて疑わなかったはずだ。……まさか奴らが、その『通貨である』という我々の“認定”そのものを、武器として逆用してくるとは…」
「その通りだ!」メロンは机を叩いた。
「だから私は言ったのだ! 銀の価格を暴落させ、物理的に奴らの金庫を腐らせるべきだったのだ、と! 君が中国の経済がどうのと、余計な横槍を入れなければ!」
「馬鹿を言え!」スティムソンも声を荒げた。
「君のその短絡的な金融戦争が、どれほどの外交的混乱を招くか考えなかったのか! そして何より、君のそのやり方では、東郷の本当の狙いを何一つ止められはしなかっただろう!」
二人の、アメリカという国家の最も重要な省庁を率いる男たちが、互いに責任をなすりつけ合う醜い罵り合い。 それはもはや政策論争ではなかった。自らが犯した、取り返しのつかない失敗の責任から逃れるための、ただの足掻きだった。
「……大統領には、何と報告する」 やがてメロンが力なく言った。クーリッジ大統領。彼の耳にも、すでにこの混乱の報は届いているはずだ。
「……事実を、ありのままに報告するしかない」スティムソンは吐き捨てるように言った。
「日本海軍の一士官に、我々は公聴会で完敗した、と。……そしてその結果、我が国の金融市場は、今、敵国が発行する、非課税の『外国通貨』によって、かつてないほどの好景気に沸いている、と」
「ふざけるな!!」メロンは顔を歪めた。
「そんな報告ができるものか。……我々は、こう報告するのだ。『公聴会の結果、日本の“NCPC Bond”の危険な本質が明らかとなり、現在財務省とFRBはその流通を規制するための、緊急の法整備を検討している』と」
「規制? どうやってだ!」スティムソンは嘲るように言った。
「ウォール街は、今や完全にあの日本の紙切れの虜だ。JPモルガンもロックフェラーも、あれを『史上最高の安全資産』だともてはやしている。……君は、ウォール街全てを敵に回すつもりか? 君をこの財務長官の椅子に座らせてくれた、あの友人たちを裏切るつもりか?」
その言葉は、メロンの最も痛いところを突いていた。 彼はもはや何も言い返せなかった。
「……では、どうしろと言うのだ」 メロンの絞り出すような声。 その問いに、スティムソンは答えられなかった。
その日クーリッジ大統領の元には、二人の閣僚からそれぞれ全く異なる、しかし、どちらも言い訳がましい報告書が届けられた。 そしてそのどちらの報告書も、この事態を収拾するための、具体的な解決策を、何一つ提示してはいなかった。 アメリカという世界最強の国家はその中枢において、完全に思考停止に陥っていたのである。
⸻
オーバルオフィスの空気は、まるで凍てついた湖面のようだった。
カルビン・クーリッジ大統領は、執務机の上に置かれた二通の報告書――メロンからのものと、スティムソンからのもの――を交互に見比べ、そして窓の外で雪かきをする庭師の姿をただ黙って眺めていた。
彼の前には、この国で最も知的で、最も権力を持つはずの二人の男、アンドリュー・メロンとヘンリー・スティムソンが、まるで校長室に呼び出された悪童のように気まずげに立ち尽くしている。
長い、長い沈黙があった。
時折、暖炉の薪がパチリと音を立てるだけだ。
やがて、クーリッジはゆっくりと椅子を回転させ二人に向き直った。その表情は能面のように変わらない。
「……読んだよ」
彼の声は、アラスカの冬の風のように乾いていた。
「二人とも、実に骨の折れる仕事だったようだ。ご苦労だったな」
その、あまりにも穏やかな労いの言葉に、メロンとスティムソンは逆に身を固くした。嵐の前の静けさであることは、火を見るより明らかだったからだ。
クーリッジは、メロンの報告書を指先で軽く叩いた。
「アンドリュー。君の報告書によれば、財務省は日本の新しい金融商品がもたらす『危険性』を鑑み、緊急の『法整備』を検討している、とある。……素晴らしい心がけだ。実に、政府らしい」
彼は次に、スティムソンの報告書を手に取った。
「そして、ヘンリー。君の報告書によれば、国務省は今回の公聴会を通じて、日本の『不法性』を白日の下に晒し、我が国の『法の支配』の正当性を国際社会に知らしめることができた、とある。……これもまた結構なことだ。実に、外交官らしい」
クーリッジは、二つの報告書を机の上にそっと並べた。
「つまり、こういうことかね」
彼は初めてその唇にかすかな、しかし氷のような笑みを浮かべた。
「財務省は、ウォール街が今まさに大儲けしている商品を『規制』しようとし、国務省は、国際法廷ではなく自国の議会で外国の軍人を『断罪』したと宣言している。……そしてその結果、ニューヨークの市場は、日本の軍艦の『任務』の成功を祈る投機家で溢れかえっている、と」
「……」
「……」
二人の閣僚は、もはや顔を上げることすらできなかった。
「私が大統領に就任した時、父からこう言われたよ」
クーリッジは、遠い目をした。
「『息子よ。もしお前が十の問題のうち九つまで黙って見過ごせば、それらの問題は勝手に消えてなくなるだろう』と。……私は、その教えを固く信じてきた」
彼はゆっくりと立ち上がると、窓辺に立った。
「だが、君たちは違ったようだ。君たちはたった一つの、それも極東の島国で生まれた小さな問題を、わざわざこのホワイトハウスの庭先にまで引っ張り込んできた。そしてその問題を解決しようと、二人して懸命に雪かきを始めた。……実に勤勉だ」
彼は、窓の外の庭師に視線を向けたまま続けた。
「……だが、君たちの雪かきのせいで何が起きたかね?君たちは庭の芝生をめちゃくちゃに踏み荒らし、美しい花壇を掘り返し、そして何より、家の地下に眠っていた水道管をスコップで叩き割ってしまったようだ」
水道管――それは、この国の金融システムそのものだった。
「今、庭は水浸しだ。そして君たちは、互いに『お前のスコップの使い方が悪い』と罵り合っている。……そして、その水浸しの庭で、日本のあのカエル(東郷)だけが、実に気持ちよさそうに泳ぎ回っている。……私の目にはそう見えるのだがね」
メロンとスティムソンは、もはや立っていることさえやっとだった。
「……大統領閣下。……我々は、どうすれば…」
スティムソンが絞り出すように言った。
「どうもしないさ」
クーリッジは、きっぱりと言った。
「私が言っただろう。政府が口を開けば開くほど、ろくなことにはならん、と。君たちは、それを身をもって証明してくれた。……感謝するよ、二人とも。君たちは私の政治信条が正しかったことの、何よりの証人だ」
彼は執務机に戻ると、二つの報告書をゴミ箱にそっと捨てた。
「この件は、これで終わりだ」
「……しかし、閣下! 市場の混乱は!」
「市場には、市場の摂理がある。いずれ落ち着く」クーリッジは冷たく言い放った。
「あるいは、落ち着かんかもしれん。……だが、それもまた市場だ。政府が介入すべきことではない」
そして彼は、最後に付け加えることを忘れなかった。
その声は、もはや何の感情も含まれていなかった。
「……ああ、それから二人とも。来週、ホワイトハウスで記者会見を開く。君たちにも同席してもらおう。議題は『好景気に沸く我が国経済の現状と、政府の揺るぎない不干渉主義について』だ。……いいね?」
それは命令だった。
そして同時に、この上ない「罰」であった。
自らが引き起こした国家的な大混乱を、その口で「好景気」だと賞賛し、そしてその混乱に対して政府は「何もしない」と宣言する。これ以上の屈辱があるだろうか。
メロンとスティムソンは、ただ力なく頷くことしかできなかった。
彼らが執務室を去った後、オーバルオフィスには再び静寂が戻った。
クーリッジは、窓の外の雪かきを終えた美しい庭を眺めながら、ただ一言、誰に言うでもなく静かにつぶやいた。
「……やはり、何もしないのが一番だな」
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