正義の劇場
時:1928年(昭和三年)
場所:ワシントンD.C. 国務省長官室
ヘンリー・スティムソンは、執務室の重厚なカーテンを閉め切っていた。外の冷たい冬の日差しも、南京の蒋介石から叩きつけられた怒りの電文も、そして財務省のメロンから浴びせられた侮蔑の言葉も、全てを遮断するかのように。
彼は孤立していた。 メロン率いる財務省とウォール街は「銀売介入」という名の金融戦争に突き進んでいる。彼らにとって中国経済の混乱など、日本の「害虫」を駆除するための必要悪に過ぎない。
そして政敵である民主党のフランクリン・ルーズベルトは、この混乱を共和党政権の失態としてほくそ笑みながら見ているに違いない。彼の耳元では、あの現場の泥にまみれたマクマリーのような男たちがさぞ得意げに「だから言ったでしょう」と囁いていることだろう。
(……奴ら、全員間違っている)
スティムソンの胸に静かな、しかし鋼のような怒りが込み上げてきた。 メロンは金融というゲーム盤の上でしか、物事を見ていない。 ルーズベルトは国内の政治闘争という矮小なレンズでしか、世界を見ていない。
(……誰も、この問題の本当の核心を見ていない。……これは、カネや選挙の話ではない。これは法と、秩序と、そして文明そのものの戦いなのだ!)
そうだ。日本の海軍がやっていることは、許されざる「法の破壊」だ。 彼らは「通貨ではない」という詭弁を弄し課税を逃れ、国際金融のルールを無視し、主権国家の経済を内側から静かに侵食している。
そしてその不法な力で、張作霖のような古い軍閥を延命させ、自分が信じる蒋介石の近代的で合法的な政府の、正当な統一事業を妨害している。
(……許せるものか。……この世界の秩序を守るべき、アメリカ合衆国の正義の名において)
スティムソンは弁護士だった。彼の最大の武器は大砲でも、ドル札でもない。「法」と「正義」を司る、公開の議論の場――すなわち、「公聴会」という名の劇場だった。
(東郷一成。……貴様がこの混乱の元凶か。……よろしい。ならば、そのお前が作った薄汚い闇の世界から、白日の下に引きずり出してやろうではないか)
彼の頭の中で、一つの壮大な計画が形を結び始めていた。 クーリッジ大統領に直訴する。この極東における金融の混乱は、もはや財務省だけの問題ではない。アメリカの外交政策、そして安全保障そのものを揺るがす国家的な危機である、と。
そしてその危機の実態を調査するため、上院の外交委員会、あるいは軍事委員会で公聴会を開催するのだ。 その証人として、あの男を召喚する。
『駐米日本帝国海軍武官、東郷一成大佐』
まさにその男が、山本五十六の後任としてワシントンに着任しようとしている、この絶妙のタイミングで。 公聴会の議題はこうだ。
「日本海軍が発行する『制度債』は国際法上の『通貨』に該当するか、否か」
「もし通貨に該当しないのであれば、その『信用』の源泉は何か。それは国際金融秩序の安定を脅かすものではないか」
「そして何より、この制度が中国の正当な政府である国民党の主権を侵害するものではないか」
それは東郷にとって逃げ場のない完璧な包囲網のはずだった。 もし彼が「制度債は通貨ではない」とこれまでの主張を繰り返せば。 スティムソンはこう問い詰めるだろう。
「ならばなぜ貴殿らは事実上の金融活動を行い、中国の経済に介入するのか。それは一軍隊の権限を逸脱した、主権侵害行為ではないか」と。
逆にもし彼がその実態を認め、「これは新しい形の金融システムだ」と開き直れば。 スティムソンはこう断罪するだろう。
「ならばなぜ貴殿らはこれを『通貨』として国際的なルールに従い、課税の義務を果たさないのか。それは卑劣な脱税行為であり、世界経済への挑戦だ」と。
どちらに転んでも袋の鼠だ。 そしてその公聴会の場には、自分が信じる「正義」の証人たちをずらりと並べてやる。蒋介石が派遣するハーバード出の優秀な外交官。国際法の権威である大学教授。そして日本の「不法行為」によってビジネスを妨害された、善良なアメリカの商人たちを。
(……見ていろ、東郷。……貴様のその小賢しい理屈と東洋的な曖昧さなど、我が国の法と公開の議論という偉大な伝統の前では、赤子の手をひねるようなものだ)
スティムソンは、クーリッジ大統領への上申書の筆を取った。その顔には、自らの正義の実現を確信する、揺るぎない自信の光が戻っていた。
⸻
その日のオーバルオフィスは、いつになく静かだった。
カルビン・クーリッジ合衆国第30代大統領は、執務机の上に堆く積まれた書類の山には目もくれず、ただ窓の外、雪化粧を始めたホワイトハウスの庭を静かに眺めていた。彼の周りだけ、時間がゆっくりと流れているかのようだ。
「……それで、ヘンリー」
クーリッジは窓の外から視線を外さぬまま、静かに口を開いた。彼の声はニューイングランドの冬のように乾いており、感情の起伏をほとんど感じさせなかった。
「君がその『日本の奇妙な紙切れ』のために、わざわざ上院の公聴会を開け、と。……そういう話だったかね」
彼の前に立つ国務長官ヘンリー・スティムソンは、まるで法廷に立つ検事のように熱っぽく語り続けていた。日本の「制度債」がいかに国際法を愚弄し、中国の主権を侵害し、そしてこの国の金融秩序を脅かしているか。
「……その通りです、大統領閣下」
スティムソンは、最後のダメを押すように言った。
「これは、単なる経済問題ではございません。我が国の威信と法の支配という、我々が守るべき根本的な価値への挑戦なのです。公聴会という白日の下に彼らを引き出し、その不法性を断罪せねばなりません」
クーリッジはゆっくりと椅子を回転させ、初めてスティムソンの顔をまっすぐに見た。その目はまるで古井戸の底のように、静かで深かった。
「ヘンリー。君は、私がなぜ『サイレント・カル(沈黙のカル)』と呼ばれているか、知っているかね?」
「……それは、閣下の寡黙で思慮深いお人柄ゆえと」
「違うな」クーリッジは、きっぱりと首を横に振った。
「私が黙っているのは、政府が口を開けば開くほど、事態はろくなことにならんと信じているからだ」
彼は机の上の書類の山を指でとん、と叩いた。
「市場には市場の摂理がある。好景気も不景気も、自然のサイクルだ。政府がすべきことは、その流れに逆らって無駄に波風を立てることではない。ただ国民の邪魔をせず、彼らが自由に、そして勤勉に働くための環境を整えること。……それだけだ」
「しかし、閣下! 今回の件はその自由な市場そのものが、外国の不法な力によって汚染されようとしているのです!」
「そうかね?」クーリッジは、眉一つ動かさなかった。
「私の耳に届いている話は、少し違うようだが。ウォール街の友人たちは、むしろこの新しい『商品』の登場で市場が活性化していると喜んでいると聞く。アジアに支店を持つ大企業の連中は、非課税で利益が上がると祝杯を挙げているそうだ。……それを政府がわざわざ『不法だ』と断罪し、市場から取り上げる。……それは、私が最も嫌う『政府による市場への干渉』そのものではないのかね?」
スティムソンは言葉に詰まった。正論だった。共和党の、そしてこの大統領の基本理念そのものだったからだ。
「……ヘンリー」クーリッジの声が、わずかに低くなった。
「私は一度、議会の圧力に屈して過ちを犯したことがある。……あの、忌々しい排日移民法だ」
彼の脳裏にあの日の屈辱が蘇る。日本人を名指しで排斥する、あからさまな差別法案。自分はそれに反対し「遺憾の意」まで表明した。しかし議会の圧倒的な世論の前に、最終的に署名をせざるを得なかった。
「あの時、議会は『アメリカの労働者を守れ』という“正義”を振りかざした。そして私は、その“正義”がどれほど日本の国民の誇りを傷つけ、我々の外交関係に修復しがたい亀裂を生むかを知りながら、それに抗えなかった」
彼は、スティムソンの目をまっすぐに見据えた。
「君が今振りかざしている“正義”も、それと同じ匂いがする。……君は『法の支配』という美名の下に、日本という国家の、そしてその国民の誇りを、再び公の場で踏みにじろうとしている。……その結果、何が起きるか。……考えたことがあるかね?」
「……ですが、今回は違います! 彼らは明らかに我々の法を……!」
「そうかもしれん」クーリッジは、スティムソンの言葉を遮った。
「だが政府がわざわざ乗り出して一つの問題を解決しようとすれば、それは必ず別のもっと厄介な十の問題を生む。……それが私の政治信条だ」
彼は立ち上がると、窓辺に立った。
「……君の言う通り、公聴会を開こう。君が望むならな。……私も大統領選挙の年に、議会と事を構えるのはごめんだ」
その言葉に、スティムソンの顔に一瞬安堵の色が浮かんだ。
「……だがヘンリー。これだけは覚えておきたまえ」
クーリッジは、窓の外の冬景色を見つめたまま静かに続けた。
「君が今からやろうとしていることは、蜂の巣にわざわざ石を投げるようなものだ。君は一匹の蜂(東郷)を退治できるかもしれん。……だがその結果巣から飛び出した無数の蜂が、誰を襲うことになるか。……その責任は、全て君が取るのだぞ」
その声は、予言のように静かな執務室に響き渡った。
スティムソンは、その言葉の本当の重みをまだ理解していなかった。彼はただ、自らの「正義」を実行する許可を得たことに満足していた。
そして、クーリッジもまた知る由もなかった。
自らがただ「面倒を避けるため」に下したこの一つの決断が、後にフランクリン・ルーズベルトが「悪魔祓いに失敗した」と嘆くあの歴史的な公聴会へと繋がり、そしてアメリカという国家を彼の信条とは真逆の、より巨大で、より干渉主義的な政府へと変貌させていく、その最初の引き金を引くことになるということを。
ただその日、ホワイトハウスのオーバルオフィスでは「何もしないこと」を信条とする大統領が「何かをしようとする」国務長官の背中を静かに、そして諦観と共に押した。
それだけのことだった。
その頃、ワシントンD.C.のユニオン駅に一台の列車が静かに滑り込んでいた。 長い太平洋の船旅を終え、大陸横断鉄道を乗り継いできた一人の日本の海軍軍人が、そのプラットホームに静かに降り立った。 東郷一成、アメリカの地に久しぶりの第一歩を記した瞬間であった。
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