龍の怒り
時:1928年(昭和三年)、晩秋
場所:南京・国民政府主席官邸
もうすぐ冬になる南京は、揚子江から吹き付ける湿った風が骨の髄まで身を凍えさせた。執務室の暖炉の火だけが、蒋介石の深い疲労に沈んだ横顔をゆらゆらと照らしていた。
彼の目の前には、アメリカから極秘に招いた経済顧問からの分厚い報告書が置かれていた。
『……結論。現行の銀本位制は、もはや近代国家の通貨制度として限界に達している。各省が勝手に発行する多種多様な銀貨は国内経済の統一を阻害し、投機の対象となって経済を不安定化させている。……中国が真の統一国家となるためには銀貨を廃し、政府がその価値を保証する統一管理通貨――すなわち『法幣』の導入が、急務である…』
「法幣……」
蒋介石は、その言葉を静かにつぶやいた。それは、彼の「北伐」に続くもう一つの、そしてより困難な革命だった。軍閥を武力で統一するだけでは、国はまとまらない。経済という国家の血液そのものを、統一しなければならない。そしてその壮大な改革の成功は、ただ一点にかかっていた。
アメリカからの財政支援。
法幣の価値を国際的に保証してもらうためには、その裏付けとなる大量のドルと、そしてアメリカ政府の「信用」が不可欠だった。幸い、妻の美齢を通じて国務長官のスティムソンとは、固い信頼関係を築けているはずだった。彼こそが新しい中国の最大の理解者であり、後援者であると蒋介石は信じていた。
まさにその時だった。
執務室の扉が、乱暴に開かれた。血相を変えた宋美齢が、一枚の電文を握りしめて駆け込んできた。
「ダーリン! 大変よ! ワシントンの、兄さん(宋子文)からの緊急連絡!」
「美齢? どうした、そんなに慌てて」
「読んで!」
彼女が突きつけた電文に蒋介石は目を通し、そして絶句した。
そこに書かれていたのは信じがたい、そして裏切りとしか言いようのない報だった。
『……米財務省およびFRB、銀ノ国際価格ヲ暴落サセルタメノ、市場介入ヲ極秘ニ計画中トノ情報アリ。目的ハ、日本海軍ノ『制度債』ノ信用破壊ト見ラル。……実行サレナバ我が国ノ経済ハ、壊滅的打撃ヲ被ルコト必至…』
「…………馬鹿な」
蒋介石の唇から、血の気の失せた声が漏れた。
銀価格の暴落。
それは、まさに今自らが断行しようとしている「法幣改革」の心臓部に突き立てられる、毒の刃に他ならなかった。
法幣改革の第一歩は、国内に流通する銀貨を政府が定めた公定価格で強制的に買い上げ、それを国有化することにある。しかしその買い上げの最中に、国際的な銀価格が暴落すればどうなるか。
国内の商人や地主たちは価値が下がる一方の銀を、誰が政府になど売るものか。彼らは暴落する前に、我先にと銀を海外へ売り払い、ドルやポンドに換えてしまうだろう。結果国内から銀は消え失せ、法幣の裏付けとなるべき国家の富は、国外へと流出する。法幣は、生まれる前に死産するのだ。
「……なぜだ」蒋介石は、わなわなと震え始めた。
「なぜスティムソン長官は、こんなことを…。彼は、我々の友人ではなかったのか!!」
「違うわ、ダーリン」美齢は静かに、しかし怒りに満ちた声で言った。
「これはスティムソンじゃない。これは、財務省のアンドリュー・メロンの仕業よ。……兄さんの報告によれば、彼は我々中国の経済がどうなろうと知ったことではない、と考えている。彼の目的はただ一つ。日本の、あの忌々しい『制度債』を叩き潰すことだけ……」
「日本の制度債だと…?」
その言葉に、蒋介石の脳裏でこれまでの全ての出来事が、一つの恐るべき線となって繋がった。
済南での、海軍の不可解な撤退。
張作霖の、奇跡的な生還。
そしてその背後で常にちらつく、東郷一成という男の静かな影。
(……そうか。そういうことだったのか……)
蒋介石は、全てを悟った。
アメリカは、日本の「見えざる帝国」の本当の恐ろしさに気づいてしまったのだ。そしてその怪物を退治するために、この中国大陸全土を犠牲にすることも厭わない、と。
「……スティムソンに、連絡を」蒋介石は、鋼のような声で言った。「……今すぐ、だ」
⸻
ワシントンD.C.の国務省長官室。
ヘンリー・スティムソンは、南京から叩きつけられた、蒋介石からの抗議の電文を前に、当惑していた。
『……銀売介入計画トハ、一体何事カ。……本計画ハ、我が国ノ主権ト経済的安定ニ対スル、容認シ難キ挑戦デアル。……合衆国政府ノ真意ヲ問ウ』
(銀売介入? ……メロンの奴、一体何を企んでいる?)
スティムソンは弁護士出身だった。国際法と外交儀礼の専門家ではあったが、国際金融の複雑怪奇な裏側の力学には、正直疎かった。彼はとりあえず、メロン財務長官に電話を入れた。
「……やあ、アンドリュー。ヘンリーだ。……君のところで、何か、銀の市場で面白いことでも計画しているのかね? 南京の友人から、少し神経質な問い合わせがあってね」
受話器の向こうのメロンの声は、冷ややかだった。
「ヘンリー。君は、君の愛する中国の心配だけをしていればいい。金融のことは、我々プロに任せておけ。……これは、この国のドルという通貨の覇権を守るための、必要な『害虫駆除』だ」
「害虫、だと?」
「そうだ。日本の海軍という名の、な。……詳しいことは君が知る必要はない。……ただ、これだけは言っておこう。……この件に、国務省が首を突込むな」
ガチャンと一方的に電話は切られた。
スティムソンは、しばし呆然と受話器を握りしめていた。
屈辱。そして、自らの専門外の領域で、国家の重大な決定が下されようとしていることへの深い焦燥。
(……メロンの奴。……あのウォール街の亡者が。……日本の、あの海軍の化け物と正面から喧嘩を始めるつもりか。……そしてその喧嘩の巻き添えで、私の、そしてこの国の外交的資産である蒋介石の新しい中国を、破壊するつもりか!)
その時彼の脳裏に、数ヶ月前、政敵であるはずのフランクリン・ルーズベルトが自邸にまで押しかけてきて、熱っぽく語っていったあの言葉が蘇った。
『……ヘンリー。君が本当に戦うべき相手は、日本の『軍艦』ではない。日本の『帳簿』なのだ。そしてその帳簿は、我々の世界の経済が破綻した時にこそ真価を発揮するのだ、と…』
あの時、ただの政治的な嫌がらせだと一笑に付した、あの言葉。
それが今不気味な現実味を帯びて、彼の背筋を凍らせていた。
(……まさか。……あのルーズベルトは、この事態を予測していたというのか?)
スティムソンは自らがこの国の外交の、そして金融の巨大なゲーム盤の上で孤立し始めていることを痛感していた。
メロン率いる、財務省とウォール街の「金融派閥」
そしてその背後で不気味に胎動するルーズベルトと、彼に情報を流す、海軍の「制度派閥」
その二つの巨大な断層の狭間で、彼が信じる「正義」と「理想」は、あまりにも無力だった。
彼は、南京の蒋介石に返電を打った。
『……本件遺憾ナガラ、国務省ノ関知スル所ニ非ズ。……然レドモ貴国ノ立場ニ対シ、最大限ノ理解ト支持ヲ表明スルモノナリ』
それはアメリカの国務長官としてありうべからざる、無責任な回答だった。
しかしそれは同時にアメリカ政府という一枚岩が、日本の「制度債」というただ一つの楔によって内側から静かに、そして決定的に分裂を始めたことを示す最初の、そして最も重要な兆候であった。
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