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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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空振り

時:1928年(昭和三年)冬

場所:東京・麹町 東郷平八郎邸


その冬、幸の世界は新しい言葉で満たされ始めていた。

縁側から差し込む陽光が畳の上に温かな四角を描く書斎で、祖父・平八郎が選んだ家庭教師――元大学教授だという白髪の紳士――が、大きな黒板にチョークで文字を書きつけていく。


『金本位制(Gold Standard)』

『信用創造(Credit Creation)』


「……よろしいかな、幸様。現代の国家経済は、その通貨の価値を“ゴールド”という絶対的な輝きに結びつけることで、国際的な信用を得ているのです。アメリカもイギリスも、このルールの上で戦っている」


「はい、先生」


幸は小さな背筋を伸ばし、懸命にノートに書き写す。その横顔は真剣そのものだった。

その姿を、障子の向こうから静かに見つめる目があった。橘小百合だ。


(……幸様は、本当にご熱心でいらっしゃる)


彼女はお盆の上のお茶が冷めないうちに、とすっと襖を開けた。完璧な所作で茶器を置き、優雅に一礼した。

その動きには一点の無駄もなく、声は鈴が鳴るように澄んでいた。


「幸様、先生。お勉強、お疲れ様でございます。温かいお茶をどうぞ」


「まあ小百合さん、ありがとう!」

幸は少しはにかんだ、しかし全身で信頼を寄せる笑顔を小百合に向けた。


「小百合さんが淹れてくれる紅茶は、世界一美味しいわ」


そのあざといまでの笑顔に小百合は表情を変えず、しかし内心で小さく息をついた。


(……子守り、か。まあ、これも任務。尼港で死んだ家族のために……)


彼女が静かに部屋を辞去しようとした、その時だった。

玄関の方がにわかに騒がしくなり、平八郎が苦虫を噛み潰したような顔で書斎に入ってきた。

その手には朝刊が握りしめられていた。


「……アメリカの金の亡者どもが、また馬鹿なことを始めたわい」


新聞の一面に躍る、衝撃的な見出し。


『ニューヨーク電 米財務省、銀大量売却を発表 市場一時騒然』

『制度債への打撃必至 東京・大阪市場も混乱』


家庭教師の顔色が変わった。


「元帥閣下……これは! メロン財務長官、本気で制度債を潰しに来ましたな! 銀の価値が下がれば、銀を担保の一つとする制度債の信用も……!」


平八郎は黙って腕を組んだ。書斎の空気は一瞬にして凍りついた。


大人たちの深刻な会話。小百合もまた、息を殺してその場に立ち尽くす。

陸軍から与えられた断片的な知識では、これがどれほど危険なことかまでは分からない。

だが目の前の元帥閣下の表情が、事態の深刻さを物語っていた。


だがその中で、幸だけが違った。

彼女は驚きも怯えも見せず、ただ静かに新聞の見出しを見つめていた。

その小さな唇が、誰にも聞こえないほどかすかに動く。


(アメリカのメロン財務長官。銀の売却。目的は、制度債の信用破壊……)


(彼の狙いは、銀の価格を下げることで制度債の価値を相対的に下げ、市場に不安を植え付けること。……でも、致命的にピントがずれてる。まるで軍艦の価値を、その船体の鉄の値段だけで測ろうとするみたい)


幸は大人たちの狼狽をよそに、一人思考の海に沈んでいた。


(制度債の本当の価値は『銀』じゃない。『任務遂行能力』そのもの。お父様がアメリカの議会で言ったことと同じ。アメリカは金本位制の国だから、銀の暴落なんて怖くない。むしろ金の価値が上がって自分たちが有利になるとさえ思ってる。……自分たちのルールでしか、世界を見られないんだわ。だから自分たち自身でNCPC債の価値を“銀”と結びつけて、自分でその価値を壊しに来てる)


彼女の唇に思わず笑みが浮かびそうになるのを、必死で堪えた。


(違う。全然違うのに……!)


彼女の脳裏に、野球の試合が浮かんだ。

ピッチャー(アメリカ)はバッター(東郷一成)がアウトコース高めの速球を待っていると信じ込み、渾身の力でそこに投げ込んできた。

だがバッターは、そもそも打席に立っていない。観客席から静かにその球を見つめているだけなのだ。


(お父様の制度の価値の源泉は、銀だけじゃない。“任務”そのもの。海軍という組織が持つ、任務遂行能力という、絶対に揺るがない“信用”なのに……!)


銀は、その信用の結果として大陸から流れ込んできた「おまけ」に過ぎない。

いわば海軍の制度というエンジンが回った結果生み出される「排気ガス」のようなもの。

アメリカはその排気ガスを必死で消そうとしている。エンジンの本体には、指一本触れることなく。


あまりの滑稽さに、幸はくすくすと笑い出しそうになった。

その時だった。


「……何がおかしい」

平八郎の、低く鋭い声が響いた。

書斎にいた全員が息を呑んで幸を見た。


「……幸。皆がこの国の存亡を憂いておる時に、何を笑っておるか」


幸は、はっと我に返った。

やってしまった。あまりにも大人たちが的外れな議論をしているものだから、つい……。


「……ご、ごめんなさい、お爺様」


彼女は立ち上がり、深く頭を下げた。

しかしその顔を上げた時、彼女の瞳にはもはや子供の怯えはなかった。

それは父と同じかそれ以上に全てを見通す者の静かな光だった。


「お爺様」


幸は舞台に上がるようにくるりと向き直り、深刻な顔をする平八郎に天使のような笑顔を向けた。


「大丈夫ですわ。きっと、サンタクロースさんが少し早めのプレゼントを持ってきてくれたんですよ、アメリカから」


「……サンタクロース、だと?」


意味が分からず、平八郎と家庭教師は怪訝な顔をした。

銀が暴落すれば、それを安値で買い集める絶好の機会になるという幸の真意までは分からない。

しかしその異様なまでの落ち着きぶりと子供らしからぬ比喩に、老元帥は孫娘の瞳の奥に、息子と同じ種類の底知れない光を見た気がした。


(……待て。……そういうことか。あやつがやろうとしておることの、本当の意味は……)


「……幸。続けよ」

祖父に促され、幸は静かに続けた。


「アメリカは自分たちが一番強い土俵で勝負を仕掛けてきました。お金の力で、私たちを叩き潰そうとしています。……でもお父様は、そもそもその土俵には上がっていないのですわ。……だから、これはアメリカの“空振り”です。しかも思いっきり力を込めた空振りだから、きっと今頃肩を痛めているに違いありませんわ」


平八郎の口元に、初めて笑みが浮かんだ。

それは、虎が自らの子どもの非凡な才能を見出した時の、満足げな笑みだった。

——だが同時に、胸の奥にかすかな戦慄も走る。

(この子は、もはや誰の制御にも及ばぬ思考を持っている……)


「……皆の者、聞いたか」

平八郎は、呆然と立ち尽くす大人たちを見回した。


「狼狽えるな。アメリカが銀を売るというのなら、いくらでも売らせておけ。我々は、その安くなった銀を、制度債で静かに買い集めるだけよ。……敵が自らの弾薬を、我々の金庫に投げ込んできてくれるというのだ。これほど、ありがたい話はない」


その言葉は絶望の淵にいた者たちにとって、まさに天啓だった。

書斎の空気は、一瞬にして変わった。



ふと、幸は顔を上げた。不安げに自分を見つめている小百合の視線に気づいたのだ。

幸は、小百合に向かって、少し不安げに、しかし何かを確信したような不思議な目で微笑んだ。


「小百合さん……大丈夫。きっと、お父様はこれも読んでるはずだから……ううん、お父様なら、この嵐を逆に利用しちゃうかも」


その一言に、小百合の背筋を冷たいものが走った。

子供の強がりではない。この場にいる誰よりも深く、事態の本質を理解している者の言葉。


(……嵐を、利用する? この破滅的な状況で? このお方は一体何が見えているのだ。永田大佐や石原中佐が最大級に警戒する東郷一成の娘……。ただ利発なだけではない。この方は、東郷一成の『思想』そのものを、最も深く理解し、共有しているのかもしれない。……私の任務は監視などという生易しいものではない。このお方の“思考”を学ぶこと。……そうだ。そうでなければ、尼港で死んだ父さんや母さん、兄さんに顔向けできない……!)


これまで「年の離れた少し頭の回る可愛い妹の子守り」だと思っていた任務がその瞬間、小百合の中で「天才の思考を観察し、模倣する」という、極めて高度な諜報活動へと変質した。


平八郎が「続けよ」と促し、幸がアメリカの空振りの比喩を語った時、小百合はもはや戦慄を通り越して、ある種の畏怖に打たれていた。

今まで自分が「子守り」だと思っていた対象は、とんでもない怪物だったのだ。


(……間違っていた。私は、このお方の何も見ていなかった……)


幸の利発さも、時折見せる大人びた表情も、すべては「父を慕う健気な少女」という色眼鏡を通してしか見ていなかった。

だが違う。この子は、ただの子供ではない。


平八郎が孫娘の言葉を受け、威厳に満ちた声で狼狽える大人たちを諭し、場の空気を完全に支配していく。

その光景を目の当たりにしながら、小百合の心は激しく揺れていた。


(……永田大佐は、このお方を東郷一成の“弱点”だとおっしゃった。違う。このお方は弱点などではない。あの男の思想そのものを映し出す“鏡”。いや、あるいは……あの男自身にも見えていない未来を照らし出す“灯台”なのかもしれない……)


お守り役。子守り。とんでもない思い上がりだった。

自分は今、この帝国で最も重要な対象のすぐそばにいながら、その本当の価値を完全に見誤っていたのだ。


書斎の混乱が収まり、大人たちが安堵と興奮の入り混じった顔で退出していく。

小百合は何事もなかったかのように静かに茶器を片付け始めた。

だがその伏せられた瞳の奥では、燃えるような思考の炎が渦巻いていた。


幸が、祖父の隣で静かに本を読んでいる。

小百合はその笑顔の裏にある深淵のような知性を感じ取り、表情を変えぬまま静かに背筋を震わせた。


彼女は静かに筆を取り、今日の出来事を報告書に記す。だがその文末には、これまでにない震える一行が添えられていた。


『このお方は、帝国の未来そのものだ』



いつもお読みいただきありがとうございます。


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