銀売介入
時:1928年(昭和三年)、秋
場所:ワシントンD.C.、合衆国財務省ビル
時は公聴会のやや前にさかのぼる。その建物はまるで古代ギリシャの神殿のように、揺るぎない権威と秩序を体現していた。大理石の廊下は、磨き上げられた革靴の音だけを冷たく響かせ、どの執務室も帳簿の上の数字だけが絶対的な真理として君臨する、静謐な空気に満ちていた。
財務長官アンドリュー・メロンの執務室は、その神殿の至聖所だった。ウォール街の伝説的な銀行家から、この国の財政の最高責任者となった彼は、世界経済を動かす「金」の流れを、指先一つで差配する男だった。
その日の午後、彼の執務室には、FRB(連邦準備制度理事会)のロイ・ヤング議長と、財務省の国際金融担当次官補が、深刻な顔で集まっていた。議題は、ニューヨーク連邦準備銀行から上がってきた、一枚の不可解な報告書だった。
「……メロン長官。……これは一体どういうことですかな?」
FRBのヤング議長は、神経質そうに指先でテーブルを叩きながら言った。彼は金本位制という秩序の、最も忠実な番人であった。
「報告によれば、極東、特に上海と香港の銀市場で、奇妙な価格の歪みが生じている、と。……まるで、見えざる巨大な買い手が市場に潜んでいるかのようです」
メロンは葉巻の煙をゆっくりと吐き出すと、鷹のような鋭い目でヤングを見返した。
「……ヤング君。君らしくもない。市場とは、常に気まぐれなものだ。どこかの軍閥かあるいは投機家が、戯れに銀を買い占めているだけかもしれん」
「そうであれば良いのですが」ヤングは首を横に振った。「問題は、その買い占めの“原資”です。ニューヨーク連銀の分析では、その資金の一部が奇妙なことに、スタンダード・オイル社などの大企業や、いくつかの大手商社が振り出した、ポンド建て・ドル建ての手形に行き着くのです。そしてその手形が振り出された相手は、皆同じ名前を指し示している」
「……日本の海軍省、か」
メロンの言葉に、国際金融担当の次官補が青ざめた顔で頷いた。
「長官。……我々はこれまで、日本の『制度債』なるものを、極東だけで通用するローカルな代用通貨に過ぎないと軽視しておりました。……しかしどうやら、我々は根本的な間違いを犯していたようです」
彼は、一枚のチャートをテーブルに広げた。
「これはスタンダード・オイル社が、日本海軍との石油取引で受け取ったとされる制度債を上海の非公式市場でドルに換金した際の、推定キャッシュフローです。……彼らは、二割近い“手数料”を払ってでも、この換金ルートを使っている。なぜか? 答えは単純です。この取引全体が、我々の歳入庁(IRS)の帳簿に一切載らないからです。……つまり彼らは手数料を払う代わりに、法人税という、より高額な義務から逃れているのです」
「……脱税、か」メロンは忌々しげに呟いた。
「問題は、その先です」次官補は続けた。
「その闇市場を仕切っている華僑ブローカーは、手に入れた制度債を今度は日本の海軍に持ち込み、そこで『銀』と交換している。……つまり長官。我々アメリカの大企業が支払うべきだった税金が、日本の海軍とアジアの闇商人たちの懐で還流し、そして膨れ上がっているのです!」
執務室に、重い沈黙が落ちた。
金本位制という、神聖で透明であるはずの秩序。その光の届かぬ水面下で全く別の、そして誰にも管理されない「銀」を媒体とした巨大な循環システムが自己増殖している。
「……ヤング君。FRBとして、何か打つ手はあるのかね?」
「……正直に申し上げて、ありません。我々がコントロールできるのは、あくまでドルという“公式な”通貨だけです。日本の制度債は、通貨ではない。それは帳簿の上に存在しない、幽霊のようなものです。……幽霊を、我々の金融政策の網で捕まえることはできません」
八方塞がりだった。打つ手がない。
メロンは生まれて初めて、自らが築き上げてきた金融という世界の、その「限界」を痛感していた。
(幽霊だと? 馬鹿を言え。全ての価値は数字に置き換えられる。そして全ての数字は、金という絶対的な一点に収斂するはずだ。そこに例外などあってはならん)
彼は静かに目を閉じた。脳裏に偽札作戦の惨めな失敗が蘇る。あの時、我々は何を間違えた? 相手の「信用」そのものを汚そうとして、逆にその得体の知れない「神聖さ」を宣伝してしまった。
(前提が違ったのだ。攻撃すべきは幽霊の“魂”ではない。その幽霊が憑依している“肉体”そのものだ)
メロンはゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「……一つだけ、方法がある」
メロンは静かに言った。その声は、冬のワシントンの空気のように冷え切っていた。
「この幽霊を、無理やり我々の土俵に引きずり出すのだ」
「……と、申されますと?」
「簡単だ」メロンはその鷹のような目で、二人を見据えた。
「FRBがロンドンと協調し、国際市場で銀を大量に売り浴びせる。銀の価格を暴落させるのだ」
そのあまりにも過激な提案に、ヤングと次官補は息を呑んだ。
「長官、お待ちください!」ヤングが珍しく声を荒げた。
「それは、あの忌々しき『偽札作戦』の二の舞になりかねません! 我々が偽札をばら撒いた結果、どうなりましたか? 日本の制度債は、逆に『為替レート』という通貨としての機能を手に入れ、その信用を宣伝してしまった! 今回も同じです!」
「どこが同じだ、ヤング君」メロンは冷ややかに言った。
「前回は、我々が相手の『信用』そのものを攻撃しようとして失敗した。だが、今回は違う。我々が攻撃するのは、彼らがその信用の『裏付け』だと信じ込んでいる銀そのものだ。彼らは、銀という『実物資産』を兌換の担保にしている。ならばその担保の価値を、我々の手で無に帰せしめてやればよい。……銀の価値が暴落すれば、制度債の信用もまた暴落する。それだけの話だ。前回とは前提が違う」
その一見すると完璧な論理。しかし、次官補はまだ腑に落ちないという顔で口を挟んだ。
「……しかし、長官。そもそも日本の制度債は、本当に『銀本位制』なのでしょうか? 彼らは一貫して、あれは『任務の記録』であり、通貨ではないと主張しています。銀との交換は、あくまで数ある決済オプションの一つに過ぎないと。もし彼らの信用の源泉が銀ではなく、本当に『任務』そのものにあったとしたら……?」
「馬鹿を言え」メロンはその若い部下の懸念を、一笑に付した。「『任務』だの『記録』だの、そんな代物が信用の源泉になるものか。カネの裏付けは、カネでしかありえん。金か、せいぜい銀だ。……日本の猿どもが、我々と同じ土俵に上がってきたのだ。ならば我々のルールで叩き潰してやるまで」
その言葉にヤングも次官補も、もはや反論できなかった。財務長官メロンの頭の中では、制度債は「銀を担保にした変則的な通貨」として、完全にインプットされてしまっていた。偽札作戦の失敗は、彼にとって「やり方がまずかった」だけのことであり「前提が間違っていた」とは、夢にも思っていなかった。メロンにとって金とは、もはや金属ではなかった。それは秩序そのものの象徴であり、神の名を冠した数値だった。
「ヤング君、次回のFOMC(連邦公開市場委員会)で、この『銀売介入』を、極秘に議題に上げたまえ。……反対する者は、私が説得する」
その絶対的な権力者の命令に、FRB議長ヤングはもはや頷くことしかできなかった。執務室の空気がわずかに震えた。葉巻の煙が天井へと昇る。メロンの言葉は、まるで一国の通貨を葬る死刑宣告のようだった。
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