小百合
1928年(昭和三年)東京・市ヶ谷の陸軍省は、日本の未来を左右する思惑と野心、そしてエリートたちの乾いた知性が渦巻く場所だった。しかしその冬、建物全体にこれまでにない奇妙な熱気が漂っていた。病の名は「東郷一成」。その感染源は「制度債」と呼ばれるものだった。
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当初予定されていた麻布の歩兵第三連隊長ではなく陸軍省の軍事課長に就任した永田鉄山の執務室は、いつもドイツ製万年筆のインクの匂いと、冷徹な静寂に満ちていた。
彼の世界は数字と兵站、そして国家総力戦という非情な合理性で築かれていた。
済南事件の最初の報告を受けたとき、永田の胸を支配したのは純粋な嫉妬だった。
政治の優柔不断さが参謀本部を縛る中、海軍がいとも容易く大陸の泥濘に軍靴の跡を刻みつけた――その事実が、彼の誇りを深く傷つけたのだ。
だが永田は感情に溺れる男ではない。
彼は部下に命じ、あらゆる情報網を駆使して海軍の奇妙な「出兵」の裏側を徹底的に分析させた。
「……これが奴らの兵站の正体か」
机上に広げられた報告書には、宇垣軍縮で軍服を脱いだはずの元陸軍下士官たちが、「海軍軍属」として済南に至る村々で食料や燃料の供給網を築き上げているという、信じがたい内容が記されていた。
「なぜ彼らは動けたのか?」――答えは制度債。
「その資金はどこから来たのか?」――答えもまた制度債。
永田は悟った。これは単なる軍事行動ではない。
全く新しい経済システムに裏打ちされた「思想」の侵攻である。
ほどなくして、「偽札事件」と「張作霖爆殺阻止」の報せが届いた。
それは永田の冷徹な理性に、初めて「畏怖」という感情を刻みつけた。
「化け物め……」
彼は執務室で独り呟いた。
偽札事件は、この制度が市場の混沌すら自らの栄養に変える自己増殖的な「生命体」であることを証明した。
張作霖爆殺阻止は、その生命体が陸軍の諜報網をも凌駕する独自の「神経系」を持っていることを示していた。
永田は静かに目を閉じた。
脳裏で、国家総力戦の壮大な設計図が一度崩壊し、全く新しい形で再構築されていく。
(我々はもはや海軍という古い組織と戦っているのではない。
国家の古いルールそのものを書き換えようとする「思想」と対峙しているのだ)
唇にかすかな、危険な笑みが浮かんだ。
(ならば答えは一つだ。その恐るべき「ツール」を海軍だけに独占させてはならん。
我が国家総動員計画の心臓部に移植するのだ)
永田鉄山の戦いは、もはや海軍との予算闘争ではなかった。
それは、東郷一成という一個人の頭脳から生まれた「思想」そのものを、いかに取り込むかという、より巨大で危険な闘争へと変貌していた。
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関東軍作戦参謀・石原莞爾にとって、済南での海軍陸戦隊の活躍は当初「侮蔑」の対象でしかなかった。
「海軍の商人どもが、帳簿の上でこそこそと小賢しい真似を」
旅順の殺風景な執務室で、彼は部下たちを前にそう一笑に付した。
彼にとって歴史を動かすのは「剣」と「血」、そして世界最終戦争を勝ち抜く断固たる「意志」だった。
紙切れが世界を動かすなど、ありえない。
偽札事件の報せを聞いても考えは変わらなかった。
「だから言わんこっちゃない。所詮はカネ。汚されればすぐに腐る」と。
しかし、絶対的な確信が崩れたのは――張作霖爆殺計画が「未然に防がれた」という報が届いた瞬間だった。
しかも情報源は政府でも参謀本部でもなく、商人たちが交わす一枚の「紙切れ」だった。
それは石原莞爾という天才の精神に、「天啓」の光と「屈辱」という闇を同時にもたらした。
「馬鹿な……」
彼は執務室で一人、震えていた。
自らが満州の歴史を動かすと信じ、仕掛けた乾坤一擲の「天誅」が、いとも容易く無に帰した。
「剣」が「紙」に敗北したのだ。
その絶望の淵で、彼は数日間誰とも口を利かなかった。
そしてある夜、何かに取り憑かれたようにペンを取った。
脳裏に浮かんだのはただ一人、東郷一成の静かな顔。
(分かったぞ、東郷一成。貴様がやっていることは、俺がやろうとしていることと同じだ。
この腐りきった政党と財閥の支配を打ち破り、日本の新しい姿を作ろうとしている。
ただ、貴様の「剣」は俺の古びたサーベルよりも遥かに新しく、鋭利なだけだ)
憎悪は消えていた。
代わりに心を支配したのは、恐るべき「興味」と、ある種の「傾倒」だった。
彼は東郷を理解したいと思った。
そして、その新しい「剣」を自らの世界最終戦論に組み込みたいと渇望し始めた。
石原莞爾はこの夜、一人の狂信的な革命家から、もう一人の天才を理解しようとする孤独な求道者へと変貌した。
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東京・赤坂のある料亭。
その一室で、永田鉄山と石原莞爾は、一枚の報告書を挟んで向かい合っていた。
それは東郷一成が「北方戦略準備基金」を提示した、赤坂の料亭での密談に関する極秘議事録だった。
「……やはり、奴は我々の懐に飛び込んできたな」
永田は、ドイツ製万年筆のキャップを弄びながら静かに言った。
その声には、もはや海軍への嫉妬の色はなかった。
あるのは、巨大な未知の数式を解こうとする数学者のような冷たい興奮だけだった。
「永田さん」石原が、熱に浮かされたような目で応じる。
「奴は我々にカネを渡すと言った。だが、それは施しではない。
奴は我々陸軍の『力』を、奴の『制度』という名の新しい戦争に引きずり込もうとしているのだ。
北の守りを我々に任せることで、奴は後顧の憂いなく南の海で富を収奪する。……これは対等な取引だ。
我々は、乗るべきだ」
「分かっておる」永田は、石原の昂ぶりを制するように手を上げた。
「問題はその先だ。……この取引の主導権を、どちらが握るか。
東郷は我々にカネを渡す。だが、その源泉である『制度』の設計図は、決して我々には見せぬ。
我々は、彼の掌の上で踊らされる駒で終わるわけにはいかん」
永田は立ち上がり、窓の外の全ての葉が落ちた銀杏の木を見つめた。
「石原……お前が北京で奴に完敗したとき、奴の傍に誰がいた?」
「……アメリカ公使のマクマリー。そして……奴の娘だ」
「そうだ」永田は頷く。
「奴は、あの土壇場で自らの娘を『駒』として使った。
家族の情愛すら戦いの盤面に置くことを躊躇わぬ男だ。
……ならば、我々もまた同じ土俵で戦うまで」
やがて闇の中から音もなく、一つの影が現れた。
橘小百合。
彼女は二人の陸軍の巨頭を前にしても一切の動揺を見せず、ただ静かに頭を下げた。
「……ご命令を」
その声は、冬の夜気のように澄み切っていた。
「……小百合」
最初に口を開いたのは、石原だった。
その声には、珍しく個人的な感情が滲んでいた。
「……東郷邸での務め、ご苦労。……息災か」
「はい。……幸様は利発なお嬢様です。……お役目は滞りなく」
小百合の答えは、どこまでも平坦だった。
「……その幸とかいう小娘」
今度は永田が、冷たい声で言った。
「……何か、変わったところはないか」
「……一つ」
小百合は一瞬、ためらった。
そして、あの書斎での夜のことを簡潔に報告した。
『……アメリカへ行きたい、と。……まるで見てきたかのように、懐かしむような口調で呟いておりました』
その一言に、石原の目が鋭く光った。
しかし永田は、表情を変えなかった。
「……面白い」
永田は静かに言った。
「やはりあの娘か」
彼は小百合の目をまっすぐに見据えた。
「……小百合。貴様に新しい任務を与える」
「はっ」
「……東郷幸を、アメリカへ行かせろ」
あまりにも予期せぬ命令に、
初めて小百合の人形のような顔に、かすかな動揺が走った。
「しかし永田閣下、それでは監視が……」
「監視などという、ちっぽけな話ではない」
永田はきっぱりと言い放った。
「これは“交換留学”だ。
我々は東郷の制度を学ぶために、彼らの懐へ我々の最も優秀な“生徒”を送り込む。そしてその生徒が、彼の娘と“友情”を育み、彼の家庭の“一部”となることで……」
彼はそこで一度、言葉を切った。
「我々は東郷一成という男の、軍人でも財政家でもない、ただの“父親”としての一面を知ることができる。
それこそが、彼の思想の根源を探る唯一の鍵かもしれん」
「……その“生徒”とは、誰のことですかな」
石原が問いかけた。
「貴様だ、石原」
永田はこともなげに言った。
「……お前が北京で見たように、あの娘はただの子供ではない。東郷の最大の“弱点”であり、同時に最強の“懐刀”でもある。あの娘のそばに、我々の“目”と“耳”、そして“牙”を置く」
石原は息を呑んだ。永田の思考の冷徹さに、改めて戦慄していた。
「……小百合を、間諜として送り込むと?」
「間諜などという古い言葉を使うな、石原」
永田は、初めてその唇にかすかな笑みを浮かべた。
「彼女は“友人”として行くのだ。東郷幸の唯一の理解者としてな。幸がアメリカへ行きたいと願うその純粋な心を後押しし、その障害となるものを、すべて取り除いてやれ。たとえそれが、あの老英雄……東郷平八郎であっても、だ」
その言葉に、小百合の背筋を冷たいものが走った。
平八郎――あの、すべてを見透かしているかのような老いた鷲。
あの男を出し抜けというのか。
「閣下」
石原が、珍しく感情をにじませて言った。
「……彼女が危険に晒されるやもしれません」
「承知の上だ」
永田は断言した。
「……彼女はそのために育てられた。尼港の地獄を生き延びた狼だ。そして、これは彼女にとっても最大の好機だ。もし東郷の信頼を勝ち得ることができれば、彼女は陸軍と海軍、二つの“制度”を繋ぐ唯一無二の存在となる。捨てられた駒であった彼女が、歴史を動かす“女王”となるのだ。これ以上の名誉があるか?」
永田は小百合に向き直った。
「……やれるか、小百合」
その問いに、小百合はすべての感情を消し去った瞳で答えた。
「了解」
その一言だけを残し、彼女は再び音もなく闇の中へと消えていった。
残された石原は、深く息を吐いた。
「……永田さん。あなたは、悪魔だ」
「そうか?」
永田は静かに言った。
「……化け物を狩るためには、こちらもまた化け物になるしかあるまい。違うかね、石原」
その言葉は冷たい冬の夜空に、静かに吸い込まれていった。
小百合の新しい、そして最も困難な任務が、いま始まった。
それは一人の少女の“夢”を叶えるという、最も甘い仮面を被った、非情な使命であった。
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